シベリアと小笠原の相互作用~季節変化に伴う中緯度降水帯の北上とバス停の相関関係について~

失木各人

6月某所

 やまない雨が、汚れたプラスチックのトタンの庇をたたく。

 ガラガラとした不協和音が響く中、空を見上げると牛乳を流したような曇天が雨を垂れ流している。むわっとした空気が、肌で汗と混じって溶けだす。暑い。白いペンキが剥げて錆びた足に、劣化してひび割れた青いプラスチック板でできたベンチが並ぶバス停。ほかには誰もいなかった。狂ったドラマーが乱雑にドラムをたたくかのように、トタンが鳴り続ける。


――遠い南の海。高気圧に覆われ、雲一つない青空。広がるのは黒い大洋。陽光に照らされ、煮立った海面から湯気が上がる。温かく湿った空気はあっという間に自由対流高度を突き抜け、平衡高度まで浮力を得て駆け上っていく。地表から高度数万フィートまで続く巨大な渦。フェレル循環。地球の自転のコリオリ力を受けて、地球を西から東へ向かって吹きすさぶ巨大な風となって、温かく湿った南洋の空気がまるで津波のように日本列島に押し寄せてきた。高さ二万フィートを超える、巨大な熱気の津波。


 ため息をつく。入ってくるのは、生暖かく、湿った空気。胸元から喉に張り付いて、流し込まれるように肺に入ってくる。大気中の粉塵を雨滴が吸着して、臭い。かびた家屋のような臭い。鼻について、鼻腔から脳を刺す。


――暖気の津波は、日本列島のところで大きなものに盛大に衝突した。冬の間、大陸の冷えた岩石が生み出す強烈な冷気。ユーラシアがまるで巨大なラジェーターのように作り出した巨大な冷気の塊が、まるで堤防のように暖気と衝突した。長さは数千キロ、高さは数万フィートの攻防が、日本列島の上空で始まった。


 雨は止みそうにない。意を決して歩き出す。鞄から取り出す折り畳み傘。黒く小さく、身体を覆い隠すには心もとない。しかしこれしかない。苦虫をかみつぶしたような表情を浮かべて、傘をさす。白くのっぺりと広がる空の、ほんの小さな部分が黒い八角形で塗りつぶされた。足元を雨が舐める。靴下にしみこんで、すぐに靴の中は不快でいっぱいになった。


――冷気の堤防にぶつかった軽い暖気の津波は、重い冷気の堤防に乗り上げた。安定層を超えて、高く、高く、冷気の堤防を乗り越えようと上昇していく。そうして暖気が昇っていく中、暖気にとある変化が起きた。雲だ。暖気にしみこまれた大量の水蒸気が、微粒子を核として水滴になった。水滴の、その広げても髪の毛の断面より小さな表面で、気体と液体の変化は連鎖的に起こる。成長した水滴は広がった表面積でより多くの水分子を吸い込み、急速に青く透明な空を、牛乳を流したような濁った白に変えていく。真っすぐ宇宙から地上に届いていた光が、水滴に乱反射されて飛び散る。


 雨に足元を濡らしながら歩く。ズボンのすそが水分を吸って重い。歩くたびに足首に当たって、張り付いて剥がれるを繰り返す。赤い自販機が見えて、立ち寄った。商品見本陳列棚の透明なプラスチック板に、水滴が張り付いてモザイク模様になっている。財布を取り出して、冷たい硬貨を投入口に押し込んだ。赤く光るボタンを乱暴にたたく。自販機がそれに答えるようにスチールの缶を吐き出した。冷たい三五〇ミリのサイダー。冷蔵された自販機から外界に吐き出されて、まるでずっと雨に打たれていたかのように一瞬で結露する。緑色のキャップをひねると、小さな音と共に炭酸が抜ける。中身を喉に流し込んだ。冷たい。甘い。柔らかな香りと炭酸の刺激が食道を通って胃に抜けていく。軽くなったそれを、ごみ箱に押し込んでまた歩き出す。


――水滴は大きさを増していき、やがて気流にもまれる中で、ほかの水滴と衝突を始めた。はじめはまばらに、そして一斉に。水滴同士が合体して大きくなった水滴が、他の水滴を飲み込んでさらに大きくなっていく。重くなった水滴は気流に押されて、歪み、潰れたミカンの様な形で不格好に空を舞う。気流にもまれる中、どんどん粒は大きくなっていく。すると、あるところで、気流が水滴を支えきれなくなった。気流のゆりかごから零れ落ちた水滴は、真っすぐ地上に吸い込まれていく。一万フィートほども落ちて、地面に終端速度のまま衝突して、水滴はあっけなく砕け散る。


 坂道を上る。道路の脇が小さな川になっている。もう何日も降り続いていた。青い空が恋しい。排水溝に流れ込む雨水の川が、どうどうと音を立てている。青い葉が、水の流れに乗って流れてきて、排水溝の中に消えていった。平らになった道路。道が雨水の川に洗われていた。悪態をついて、靴底くらいのある深さの中をばしゃばしゃと歩いていく。踏み出した波紋は、流れに飲み込まれてすぐに消えていく。やっと川を上がったころには、靴の中はまるで池でもできたように水が溜まっていた。重くなった靴に苛立ちながら、歩みを進める。


――地面に落ちた水滴は山に、川に、アスファルトで覆われた土に、しみこんでいく。万有引力の法則に従って、より下へ、下へ、水が還る場所へ。山を、谷を、削って馴らしながら、すべてが平坦になるその時まで、永遠に。


 雨は弱まらずに降り続く。太陽の姿は見えない。もう何日も青色を見ていない。


――分厚い雲のブランケットの上で、太陽は誰もいない雲の平原を延々と照らし続けている。大気の上の上で、薄い大気を難なく潜り抜けた電離放射線が、水分子を、大気分子を砕いて有機化合物へと変質させる。ずっと昔の、地球が誕生してきたころからずっと変わらず行われてきた営み。誰も知らない雲の上で、静かにそれは続けられる。


 木が青々と茂る葉で受け止めた雨が、大きな水滴となって地面に落ちる。道路わきに広がる雑木林。小さな雨の時は軒下になっていた。今では、外と何も変わらない。大きくなった雨粒が、雨でぬかるんだ地面をえぐって、すぐに別の雨粒がえぐった土に埋められるを繰り返す。雨の音は遠く、延々と続くように世界を覆っていた。遠くに聞こえるはずの車の喧騒も、工事の作業音も、聞こえなくなって久しい。坂道を登る。暑い。体温を調整するために流される汗は、飽和している状態にほぼ等しい湿度のせいでいつまでたっても空気中に飛び出せず、熱を持ち続ける。服の背中にしみこんだ汗が重い。喉を滴る汗が気持ち悪い。しばらく歩いて、小さなバス停を見つける。さっきまでいたところよりも一回り小さい。錆びた金属のトタンで作られた、掘っ立て小屋のようなバス停。軒先に赤いバス停の標識が、雨の中静かにたたずんでいる。早歩きでそこに滑り込み、錆びたベンチに座り込む。靴を脱いで傾けると、濁った水がしたたり落ちた。


――暖気と冷気の戦いは、永遠に続くかのように思われた。しかし、地球の地軸の傾きは、冬の冷気が残る大陸に夏の日差しを持ってくる。温かくなっていく大地。中緯度を覆っていた冷気は、足元を崩されたかのようにどんどん北へと押し流されていく。雨の戦線が、南から北へ、日本を薙ぎ払うかのように北上していく。それにこたえるかのように、前線の周りで天高くそびえる積乱雲が発達して数十キロ先まで届く雷鳴の産声を上げては、数時間で短い生涯を終えて消えていく。


 ふと、温かい風が吹いた。これまでの生暖かい、湿った空気とは違う。暑い、熱気を帯びた風。ぶわりと肌を包んで、身体の表面の水分を一瞬で奪っていく。自由になった汗の水分が身体から駄賃と言わんばかりに熱を持って行って、汗で湿っていた背中がひやりと風に撫でられた。雨の音が弱まっている。雲が薄くなっている。遠くに見える雲の切れ間から、太陽の光が差し込んで空に光の柱を建てている。流れる雲がちぎれて、白い濁りから透明な青が顔をのぞかせ始める。壁に貼り付けられた時刻表。最近取り換えられたのか、古びたバス停の中でそれだけが新しかった。腕時計と時刻表を照らし合わせて、静かに靴を履き直した。


――暖気は高気圧を伴って、日本を覆いつくす。地球が産まれて、月が誕生したその時から、永遠と繰り返されてきたサイクルを回すために。冷たい冬が終わって、すべてを焼き尽くす季節がやってくる。


 雲を突き抜けて日差しが差し込んできた。濡れたアスファルト、光を反射して煌めく。数日ぶりに浴びた日光に、一斉に草木が活発な光合成を始める。水分の供給は十分だった。差し込んだ日が、水滴が散る、紫に咲くアジサイの花を照らした。隣に静かにたたずんでいるのは、はち切れそうなつぼみをつけた、向日葵。

 

――夏が、すぐそこまで来ている。

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