33.助けなど来なかった

「やめてっ! 私ならここよ」


 ドロテは階段から叫んだ。二階の一番奥にある寝室に隠れなさいと言われたけれど、心配で戻ったのだ。公爵令嬢の首を刎ねたように、両親を簡単に殺すかも知れない。それが恐ろしかった。


 人形姫の時は、全然気にならなかった。彼女が引き倒されても、首を落とされても、その親が慟哭しても……気持ちは動かない。きっと、直接知らない人だから。戦で1000人が死んでも、ドロテは気にしない。なぜなら、その中に知り合いがいないのだから。


 平民として生まれ育った街で挨拶を交わす店主や、近隣の家の人々が死ねば心を痛める。彼らとの思い出が過り、涙するだろう。だが顔を知るだけの他人が死んでも、痛くも痒くもなかった。それはジャックにとっても同じだろう。ドロテの両親であっても、邪魔をするなら排除対象だった。


 振り下ろした剣を僅かに逸らし、父親の手にした薪に当てて力を逃した。


「こちらに来い」


 現在のドロテは、ジャックが愛した女性ではない。まだ未成熟な体は幼さも感じさせ、顔立ちも面影程度だった。あの頃の細い体が嘘のように、ふっくらと肉が乗った手足はぎこちなく動く。睨みつけながらも震えるドロテに手が届く距離で、ジャックは背後の気配に振り返った。


「そこまでだ、動くな」


 にやりと笑う騎士は、美しい金髪だった。整いすぎて冷たい顔は、笑みを浮かべると意地悪く見える。いつでも胸を貫ける状態で剣先を突きつけられ、ジャックは己の剣を手放した。からんと足元で音を立てた愛用の剣は、すぐに別の騎士が回収する。


「その顔、間違いない。ワトー男爵家嫡男ジャックだな。縛り上げろ」


 命じ慣れた金髪の騎士は、上質な絹の服を着ていた。高位貴族だろう。ドロテを狙っているのか? 迷うジャックの視線が彷徨うが、武器を持つ騎士の誰にも隙はなかった。現時点で訓練生に過ぎないこの体で、彼らに勝つことは不可能だ。


 邪魔をされた腹立たしさで歪んだ顔を、金髪の騎士が剣の柄で殴った。


「この金髪に覚えがないか? お前が噴水前で切り裂き、落とした我が妹と同じ色だ」


 ジャックは目を見開き、それから首を横に振った。


「夜に見た色とだいぶ違うようだ」


 切れた唇から垂れた血を肩で拭う。ジャックの頬は真っ赤に腫れていた。その顔を見ながら、シルヴェストルは拳を叩きつける。無言で数発殴り、崩れ落ちた赤毛の若者を見下ろした。激情に任せた攻撃のようだが、表情は凍りついている。


「絶対に死なせるな。まだ使い道がある。運べ」


 それだけ命じると、震えるドロテを抱き締める両親を振り返った。シルヴェストルの表情は冷たく、助けに来た騎士というより、絞首台へ連行する死刑執行人に近い。


「こいつらも全員縛り上げて運べ、逃がした者は同類と見做す」


「かしこまりました」


 数人の騎士が縄を持って近づき、父親は声を張り上げた。


「なぜ私達も? 被害者です。それにあの男とは初対面でっ」


「黙らせろ」


 シルヴェストルの声に怒りが滲んだ。初対面? 被害者? 父親自身はそうだろうが、違う。お前の娘は無実のティナを辱め、傷つけ、殺した主犯だ。叫びたいが喉は引き攣って発声を拒んだ。目の前が真っ赤に染まるほどの怒りが全身を包む。握りしめた拳が、ぎりりと音を立てた。


 この女は助けが来たと思ったかも知れないが、あの日、大切なティナに助けは来なかった。俺を含め、誰も助けられなかったのだ。


 今後の計画に必要なくなれば、親子揃って処分してやる。だが、それは今ではない。あの王太子をより苦しめるために、この囮は必要だった。己の感情を押し殺し、兄は妹のために怒りを呑み込んだ。

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