32.ドロテという娘はいません

 ドロテは必死に両親を説得した。前回の振る舞いを知らない両親は、不思議がるばかりで動かない。それも当然だった。現時点で流行り病の兆候はなく、親族もすべてこの地で暮らしている。わざわざ他国へ逃げる理由が見当たらなかった。


 財産も土地も捨てて出ていけば、二度と戻れないかも知れない。何より新しい土地での生活にかかる費用の蓄財なんて、平民である両親にはなかった。移住先で豊かな生活ができる保証もない。


「……前回の話を街で聞いた?」


「今の世界が二度目で、今回と呼ぶのだろう? 貴族ばかりが記憶を持っていると聞く」


 父が聞いてきたのは前回と今回の違い程度で、それ以上の噂に興じた様子はなかった。だがこの街にいれば、嫌でも耳に入る。前回の自分が起こした事件の全てを、他人の口から聞かされるだろう。


「私、前回の記憶があるの……だからお願い。一緒に逃げて。絶対に死なせたくないわ。それに私ももう、繰り返すのは嫌」


 泣きながら、ドロテは両親を説得した。すべてを語る勇気はない。優しい両親に嫌われるのは怖かった。だけど逃げて欲しい。王太子が私を探していると知った。あの赤毛の騎士も私を探すだろう。もう時間がなかった。


 夕飯後の時間を使って必死に説得するドロテの耳に、ノックの音が響いた。びくりと肩が揺れる。


「失礼する。こちらにドロテという娘がいるはずだ」


「どちら様?」


 母が扉を開けずに応対する。若い娘を持つ母親なら、当然の配慮だった。娘の名を知っていても、知り合いとは限らない。その上、話し方が貴族のようだ。美しい愛娘を見初めた貴族に奪われ、愛人にでもされたら。母はドロテを守るつもりで扉の閂をしっかりと確認した。


「ワトー男爵家のジャックだ。ドロテに聞いたらわかる」


 確認するように振り返った母親は、青褪めて唇まで紫になった娘の表情に驚く。それから穏やかな声を作って、必死で返した。


「貴族様、我が家にはドロテという娘はおりません。家をお間違いです」


「嘘はよくないぞ」


 低い声が恫喝するように響き、母親は娘の元へ駆け戻る。狭い部屋の中で娘を二階へ逃がし、夫は部屋を見回して暖炉の薪を手に取った。どん、扉を叩く音がして何度か続いた後、どかっと乱暴に蹴り壊された扉が倒れる。


「平民の分際で、男爵家を敵に回すのか」


「む、娘は違います」


 ここで母は失敗に気づいた。娘などいないと言えばよかった。娘はいるが名は違うなど、名指しで訪ねてきた貴族に通用しない。焦って台所へ後ずさる。追うように迫ったまだ少年の域を出たばかりの若者に、父親が立ちはだかった。


「ここにドロテという娘はいない。出て行ってください」


「ほう? ならば貴様らを殺して探すとしよう」


 すらりと剣を抜く赤毛の若者は、体に似合わぬ大きさの剣を、力ではなく技で振り抜いた。

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