34.あの日の痛みは今も胸に

 あの日、婚約者であるマリュス侯爵家のアドリーヌ嬢をエスコートしていた。彼女の兄で侯爵家の次期当主であるエミールやその婚約者と一緒だ。奥のテーブルにいたため、表の騒動に気づくのが遅れた。


「俺の愛する女性を……生きる道など…………死んで……」


 途切れ途切れに聞こえた声に反応した俺に、アドリーヌは微笑んで腕を引く。豊かに寄せた胸を押し当て、自分の方へ意識を引き戻そうとした。


「何か騒がしいが」


「関係ありませんわ。それよりこのドレス、似合っていますか? シルヴェストル様にいただいた首飾りに合わせて、デザインさせましたの」


 先月の誕生日に贈った首飾りをしているのだと、言われて初めて気づく。家同士の繋がりで結婚するとはいえ、もう少し彼女に愛情を向けなくてはいけないな。そう思った。俺にとって最高の淑女は、母と妹だ。それを知るから、アドリーヌは必死だった。


 可哀想なことをしている自覚はある。政略結婚でも、もう少し関心や興味を向けるのが礼儀だろう。ひとつ息を吐いて、彼女の姿を確認する。結い上げた明るい茶髪と青い瞳に合わせ、サファイアをあしらった金の首飾りを贈った。


 首飾りを引き立てるように、淡いクリーム色に濃色の紺を合わせたドレスは品がよく、彼女のスタイルを引き立てるデザインだった。体にぴたりと寄り添うドレスは、触れた指先に上質の絹の質感を伝えてくる。


「よく似合っている、アドリーヌ嬢」


 褒めた声に、騒ぎと悲鳴が重なった。騎士として勲章を貰ったことがある俺としては、放置も出来ない。この場には国王夫妻も宰相もおらず、騒動を収めるのは公爵家の役割だろう。婚約者に一礼して人々をかき分けた俺の目に、震えながら引き摺られる妹の姿が映った。


 右肩を捻られたコンスタンティナが、赤毛の若い騎士に乱暴に放り出される。


「待てっ! ティナは」


 筆頭公爵家であるフォンテーヌの令嬢だぞ! 何をしている。無礼者が。そう叫ぶはずの俺の腕を、アドリーヌが引っ張った。


「怖いです」


「うるさい!」


 婚約者への配慮などなかった。彼女を振り払い追いかける。見物する貴族達のなんと邪魔なことか。ティナを助けるべき婚約者、アンドリュー王太子は見知らぬ女の腰を抱き寄せる。不貞を平然と晒したその姿を睨み、人々をかき分けた。左側でも別の騒動が起きて悲鳴が聞こえるが、集まった貴族は少しでも前で見ようと詰め掛ける。


「邪魔だ、どけ」


 押しのけて人々の間を抜ける俺は、間に合わなかったことを知る。父譲りの美しい金髪が石畳に散り、最愛の妹が倒れ込んだ。転がる首に膝から崩れ落ちる。アドリーヌが悲鳴を上げて駆け寄るが、腕に触れた彼女の手を払った。


 駆け寄る父の慟哭が聞こえるまで、何をしていたのか。覚えていない。一時的に意識を失っていたのかも知れない。気遣う周囲が開いた道を、よろけながら駆け寄った。美しく着飾った妹は泥と血で見る影もなく、首を抱き締める父の目に涙が溢れる。気づけば自分も泣いていた。


 コンスタンティナを抱き上げると、ぶらりと右腕が不自然に揺れる。降り出した雨が、妹の涙のようだった。冷たくなった妹を抱いて馬車に乗り、怒りと不甲斐なさで嘔吐する。復讐を誓う俺と父の気持ちはひとつだった。


 王家は必ず滅ぼす――この命が果てようと、絶対に許さない。

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