カメラ
鈴 蘭
第1話
カシャッ
風が吹く平原にシャッター音が響く。私は切り取られた世界を確認すべくフォルダーを開いた。
「またぼやけてる……」
そこに写し出されたのはピントが合っておらず、手振れでぼやぼやになった草原の写真だけだった。
「やっぱ上手く撮れないなあ」
ぽつりとつぶやいたその言葉は強風によって誰の耳にも届かず消えていった。
私、浅川すずはこの春大学生になったばかりだ。親元を離れ新天地で暮らし始めた私はこれを機に新しく大学の写真部に入部した。なんとなく充実しそうという曖昧な理由で始めたカメラだが案外楽しく、私は入部してからめきめきと才能を伸ばしていった――なんて都合の良い話は無く、実際は未だにカメラを使いこなせず部活の同級生との間に実力の差ができてしまっていた。
そうして今日、定期的に行われている部活の撮影会に参加しているのだが現時点で既に参ってしまっている。
「調子どう? 何か撮れた?」
一人で写真を撮っていた私のところに若い男性が近づいてくる。写真部の部長である三宅さんだ。
「三宅部長、んー…いつも通りです」
できるだけ明るく振舞おうとするが口から出たのはあははという苦笑いだけだった。そんな私の様子に部長も何かを察したのだろう。口元を少し引きつらせながら続けた。
「浅川さんはレンズの調整が苦手だよね。もう入部して半年経ってるのに」
「ゔッ、泣きますよ……」
グサッとくる一言に私のライフは0になりそうだ。
「ごめんごめん。でも、うちの写真部は全自動モードとかだと大会に写真出せない。カメラの使い方を覚えてもらわないといけないからさ」
その時、遠くにから部長を呼ぶ声が響いた。はーいと大きく返事をすると部長はこちらを振り返る。
「まあ、大丈夫だよ。その内慣れてくる。今はとにかく撮ってみて」
それだけ言い残して他の部員の方へ走っていった。
一人残された私は多少の悲しさを感じていた。周りはできていることなのに自分にできない。その内後から入ってきた人にも先を越されてしまうのだろうか。何気ない部長の言動一つで自分に対する呆れと諦めを感じ取ってしまう。部長はそんな人ではないとわかってはいるが、心の中に抜けないとげが刺さってしまったみたいにじわじわと焦りが滲んだ。
「皆はもう大会の話出てるのに……。いつまでもこのままなのかな」
一人きりで吐いた弱音は誰にも聞かれることなく空気に溶け込んでいった。
その日は部室の大掃除のために先輩の桂木瑠衣さんと備品倉庫に来ていた。
「先輩、この段ボール倉庫にしまっていいんですよね?」
「うん、お願ーい。」
大きな段ボールを腕に抱えて備品倉庫のドアをひねる。ガチャと音を鳴らして開いたドアから空気が入り、室内の埃が舞った。
「うわ埃っぽい」
部屋の空気を吸い込んでむせ返る。早くこのデカ物を片づけてしまおう。
「確か活動日誌はこっち……」
私は全身で段ボールを支え、口に手を当てながら倉庫の中に入った。壁沿いにいくつも陳列している棚の中から目的の棚へと進む。
ガタン
「ん?何の音だろ」
そこには筒状の黒い塊が一つ転がっていた。
「これは……」
カメラのレンズだ。少々古びているが壊れてはいない。
「すずちゃん、次の段ボール持ってきたよ……ってどうした?」
ドアから桂木先輩が顔を出す。
「先輩、これ備品ですか?」
先輩は私に近づきレンズを凝視する。しばらくレンズを見つめていたが首を傾げた。先輩にも見覚えがないようだ。
「学校備品のシールがついてない……誰か昔の部員が置いていったのかな」
この大学の備品には分かりやすく黄色いシールが貼られているおり、それ以外のものは個人のものとなる。そして数年に一度備品管理のため数を確認する決まりになっており、今年がその年だ。
しかしこのレンズには何も貼られていないので後者のようだ。
「でも他の備品には全部シールが貼られてるのに。剝れちゃったのかな?」
私は目線をレンズへと落としじっと見つめた。
この不思議なレンズに私は何故か惹かれるものを感じた。このレンズは私に使ってほしいと、そんな気がしたのだ。
「先輩、このレンズ借りてもいいですか?」
「いいけど……そんなに古い奴より私のやつ貸そうか?」
「いや! なんかこの子に運命感じるんで!」
何それと先輩は笑った。
「それより、この段ボールもしまっちゃってください」
「はーい……」
部活が終わり、帰宅したのは午後七時を過ぎたころだった。
「今日も疲れた」
そう吐き出して床に座り込んだ。
今日は大掃除で体を動かしたので疲れた。疲れすぎて夕飯を食べる気も起らない。
しかし、ふと昼間のレンズを思い出した。
「そういえばあのレンズ」
鞄から借りたレンズを取り出す。少々埃はついてるが中は綺麗だった。これなら外見を拭けばすぐ使えそうだ。
そうしてレンズを拭いた後これまた部活で借りたカメラに取り付ける。部活の備品であるため大きさも同じのようだ。レンズはぴったりと納まった。
「おお、流石備品。部活で借りたカメラにぴったりだ」
早速試してみよう。
わくわくしながらカメラを構え、ファインダーを覗く。そして部屋に飾ってあった観葉植物へとピントを合わせそのままシャッターを切った。
カシャッ
「どれどれ……」
ファインダーから目を離すとカメラメニューから先程切り取ったばかりの世界を読み込んむ。
それを見た瞬間思わずえっ……と声が漏れてしまった。
今撮った写真があまりにも理想に近かったからだ。ピントの合い方から強さ、光のコントラスト、色の鮮やかさまで。まさに私が撮りたかったものだった。
「いい感じに撮れてる。ホントに肉眼みたい。……このレンズのおかげ?」
カシャッ
その日も部活の撮影会で遠征に出かけていた。一枚写真を撮って確認する。
「よし、やっぱりいい感じ!」
あのレンズに変えてからというもの、撮りたい画が撮りたいように撮れるものだから前より俄然写真へのやる気がわいてきた。
私は写真を撮る楽しさをこの身にひしひしと感じていた。
「おっ、すずちゃん最近調子いいね」
桂木先輩が話しかけてきた。その言葉に少しくすぐったい誇らしさを感じる。
「この子のおかげですかねえ」
私は先輩に少し得意げになって返事をした。
「この前の運命のレンズ?」
「そうです! このレンズにしてから調子凄く良いんですよ。目で見てるそのまんまの色でピントを合わせたいところに合わさって撮れますし。やっぱり運命ですよ」
少々興奮して早口になってしまった。先輩はそんな私の様子に笑みを浮かべた。
「へえ、私もそんな風に撮れたらなあ」
私は先輩と二人で笑いあった。
それから数日経ったある日、私は部室に呼び出された。
何か個人で呼ばれるような事をした覚えはない。私は冷や汗をかきながら部室のドアを叩いた。
「失礼しまーす……」
弱弱しく中の様子を伺うようにドアの隙間から顔をのぞかせた私だったが、予想外にも部長は明るく歓迎した。
「急に呼び出してごめんね。今日は最近の浅川さんの写真について聞きたくてさ」
最近と言われ私はハっとした。
(まさか突然調子良くなったから何か疑われてる……?)
三宅部長は私を置き去りにして話を進めた。
「最近の君の写真だけど……」
何も疚しいことはないはずなのに心臓は強く脈を打ち、冷や汗は先程よりも増えた。
盗作や他に人に撮らせたことなどを疑われているのだろうか。部長の次の言葉が聞きたくなかったが時は非情に進んでいく。
「これ本当にマニュアルで君が撮ったの?」
ドクンと全身が鳴った。やはり盗作を疑われている。落ち着け、私は本当にそのようなことは何もしていない。ただ本当のことを口にすればいいだけだ。それなのに口は震え、言葉が中々喉の奥から出てこない。しかし沈黙を続けたらもっと疑われる。
それは嫌だ。
そんな思いが原動力となり、ようやく口から言葉を絞り出した。
「はい、そうです……!」
心臓が口から出てきそうだ。きっと裁判で判決を下される前の被告人はこんな気持ちなのだろう。全ての血液が顔に集まったかのように熱い。心臓の痛さがお腹にまで伝わってきたのか、気持ち悪さまで感じるようになってきた。もうここから消えてしまいたくなった。
そして部長は口を開く。
「君の写真さ……凄いよ!」
「え?」
部長の言ってることが一瞬理解できなかった。
「前みたいにピントがずれてたり、露出調節間違えて真っ黒になったりしてないし何よりバランスがいい。今まで課題だったレンズの調節を克服したね」
停止していた私の脳が徐々にその機能を取り戻してきた。
とりあえず疑われていたわけではないようだ。それどころが部長は私を称賛した。
「元から構図のセンス良かったもんね。ここ最近カメラの扱い方もマスターしたみたいでよかった。これなら大会間に合うね」
「大会!? 私が?」
大会の二文字に心が躍る。
部長が力強く頷た。
「今からだと冬の大会に出せるよ。冬は光が強いし景色も茶色か白だから他の大会より難易度高いんだけど。どう? 出してみる?」
部長はずるい人だ。答えは分かっているのに。
「はい……!」
私は何度も頷いた。
それからというもの私は毎日のようにカメラを持ち、大会に出すべく沢山の世界を切り取った。
自分の思い通りに撮れ、それを褒めてくれる人がいる。今までで一番努力している自分がそこにはいた。寝ても覚めてもどんな写真を撮ろうかと考えそれを形にしていく日々。そしてより良いものを撮るために以前よりカメラについての知識を深めていった。
私の才能はここにあったんだ。
そして今日も相棒を片手に写真を撮りに出かけていた。しかし、今日はいつもとは違った。
私は撮った写真を眺め、小さな違和感に気付く。
「どれどれ……あれ、ピントがズレてる」
いつも通りに撮ったはずなのに写真がぼやけているように感じた。調節を間違えたのだろうか。
レンズを再度調節し、気を取り直してもう一度写真を撮る。
カシャッ
今度の写真は何ともない。
「……気のせい?」
たまにはこんな日もあるのだろう。あまり気にせずこの日は写真を撮り続けた。
そうしてまた別の日、その違和感はさらに大きくなっていた。
カシャッ
「え、この前よりぼやけてる」
レンズの調節はしたが、やはりどこかぼやけている。メンテナンスが必要なのだろうか。
カメラのクリーニングを済ませ今日もまた外へと繰り出す。
しかし、それでも違和感はどんどん大きくなっていった。やはり写真はぼやけたままだ。
思い通りに写真が撮れない。そのことは私を大きな不安で包み込み、頭が機能しなくなるあの感覚が体を支配した。
「どうして……どうしよう大会があるのに。せっかくチャンスを掴んだのに……」
ここで失敗すればきっと私は周りからまた呆れられてしまう。それこそ今までの作品が盗作だと思われるのではないか。それを想像すると体は震えた。
結局その日は納得のいくものが撮れず、夕焼けを背に自分の部屋へと帰った。そしてその帰り道は私の中の不安を煽るには充分すぎる時間を与えた。
一度芽生えた不安が私を壊していく。
何とか、何とかしないと――
私は不安で影った脳を必死に回転させ、打開策を探した。しかし、ネットで検索しても、カメラの本を読んでも書いてあることはレンズの調節をしましょうという一文だけ。
調べものに疲れた私はカメラを見つめた。ふと目に入ったのは運命のレンズ。
この子の使いやすさがきっかけで今の私がいる。この子に打開のヒントはないだろうか?
そうしてカメラからレンズを外し様々な角度から調べてみる。
(ん?ここに何か書いてある?)
すると丁度カメラ本体との接地面に小さい文字を見つけた。
(KOGETUDOU……こげつどう……メーカーの名前?)
次の日、私は部室に行き桂木先輩にレンズに書かれてたメーカーについて聞いてみた。
「こげつどう?」
「はい、あのレンズのメーカーみたいなんですけどネットで検索してもあまり出てこないんですよ。先輩なら知ってるかなって」
桂木先輩は腕を組み考え始めた。
「こげつどう、こげつ……あー、大学の近くにある骨董品屋さんが確かそんな名前だったかな。でもあそこカメラレンズ作ってたんだ」
「骨董品? カメラ屋とかじゃなくて?」
うんと先輩は頷く。
「大学から駅と逆方向にあるんだけどね。店先見た感じだと昔の時計とかオルゴールとか? そういう機械系ばかりお店にあったからカメラレンズも作ってたのかもね」
「へえ」
古月堂。そこにこの停滞をどうにかする手掛かりがあるのだろうか。
「それがどうかしたの?」
黙りこくった私に先輩は不思議そうに話しかける。
「い、いや! ただ、気になるなーって。」
先輩との会話を切り上げ考え込む。
(『古月堂』か……)
桂木先輩の話とマップアプリから特定した住所を元に私はお店へと足を運んだ。
(本当にここであってる?)
目の前には大正ロマンと言えば聞こえがよい木造の古びた建物があった。入口の上にはこれまた古い板に『古月堂』と書かれている。
「店の名前は間違いないけど、あまりに情報が少ないし外観も……」
(ぼろい……)
イメージとあまりにかけ離れていたため、私は心配になってきていた。
しかし、ここで諦めては大会に出せる写真が撮れない。よしと腹を括りその扉に手をかけた。
ガラガラ
見た目とは裏腹に滑らかに開いた扉の奥は時が止まったかのような静寂に包まれていた。足を踏み入れると頬がひやりとした空気に触れた。店内には昔の時計やオルゴールが埃を被ってたたずんでおり、この空間に響くのは私の足音だけだ。
あまりに静かすぎる。人の気配が全くしない。それでも桂木先輩から聞いたお店の特徴と同じだ。
勇気を振り絞り店の奥に向けて声をかける。
「おじゃまします。すみませーん」
「何かお探しでしょうか」
うわっ!
背後からかけられた声に思わず驚愕してしまった。今の驚きで寿命が縮まった気がする。
振り返るとそこには長い白髪に丸眼鏡、燕尾服に身を包み物腰の柔らかそうなほほえみを向ける老紳士が立っていた。
本当に人がいた。驚きも徐々に収まった私は老紳士に話しかけた。
「あなたはお店の人ですか?」
「ええ、私がこの古月堂の店主になります」
老紳士はこの店を切り盛りしているらしい。そうなればレンズのことも何か知っているかもしれない。
「あの、突然なんですが、このカメラレンズここのお店のものですよね?」
鞄の中からレンズを取り出し、店主に見せる。店主は直接レンズに触れず、私の手の中のものをまじまじと見つめる。しばらくすると店主が口を開いた。
「正真正銘うちの店で作ったものになります。私が手懸けました」
私は安堵のため息をついた。よかった、作った人ならこのレンズの不調をどうにかできるかもしれない。
そして私は店主に最近のことを話し始めた。
「数カ月前からこのレンズを使ってるんですがどうも最近おかしくて。写真を撮ってもぼやけてしまうんです」
その言葉を聞いて店主はレンズを私の手から取り出す。レンズを観察しているようで目の周りに刻まれたシワがより一層濃くなっていた。
しばらくレンズを観察したのち店主は解決方法を導き出した。
「ああ、これは手入れが必要ですね」
(手入れが必要?)
それは私が今までもやってきた。それでも駄目だったからこうして店に足を運んでいるというのに。
私は焦りながら店主にそのことを告げようとした。
「でも、クリーニングは定期的に――」
しかし、店主は私の言葉など聞こえないかのようにレンズを持ったまま店の奥の暗闇へと引っ込んでしまった。
ますますこの店に怪しさを感じてしまう。
「……ダイジョウブだよね?」
この店主に大事なレンズを任せていいのだろうか。もやもやしたものが心に発生するのを感じながらどうすればよいのかも分からず一人その場に立ち尽くした。
しばらくして、闇の中から店主が戻ってきた。手にはレンズ以外に何か持っているようだ。
「こちらを」
店主は私の近くによると手に持っているものたちを渡してきた。私はそれを受け取り手の平を見つめる。
そこにあったのはレンズとそれより一回り小さいくらいの白いボトルが一つ。ボトルの表面にはラベルが一切に無く、傾けてみると中身は液体のようだ。
店主は続ける。
「この液で手入れができます。液を直接レンズに付けて拭き取らず一晩キャップをしてください」
どういうことだろうか。さっきから言ってることが理解できない。
通常カメラの手入れをする際クリーニング液などはあまり使わず、エアダスターで埃を取ったりクロスで表面を拭いたりする。レンズのメンテナンスにたまに液を使うことはあるが、それも水滴が残らないようにクロスで丁寧に噴き上げる必要がある。
そんなことカメラを始めて半年以上経つ私でも分かることなのに、この店主はその常識に全く当てはまらない。
私は店主に疑問を投げかけた。
「でも液は拭き取らないとレンズに跡が――」
しかし、この言葉も店主によってさえぎられてしまった。
「このカメラレンズは特殊でしてね。他のレンズとは材料が異なります。なので手入れ方法も違ってくるのですよ」
店主はほほえみを一切崩すことなく私の疑問に答えた。
普通のレンズと違うとなるとメンテナンスの仕方は変わってくるのか……。
「分かりました……」
私は無理やり納得し、そのクリーナー液を購入した。
数日後、大会用の写真のため再び街に繰り出した私は、あの店で買った液でメンテナンスしたレンズを試してみた。
写真を撮り、フォルダーから読み込む。そこに写し出されたのはぼやけておらず、最初のころと何ら遜色のない綺麗に撮れた一枚だった。
「確かによくなってる。あの店怪しかったけど本当に特別製みたい」
(これでまた良い写真が撮れる。部長たちも大会で私に期待してるし……上手く撮れなかったあの頃には戻りたくない。)
私はカメラを強く握りしめ、唇を強く結んだ。
数週間後、私は定期撮影会に参加していた。周りが明るくお喋りしながら撮っていたのだが私の心は荒れていた。
「なんで……! メンテナンスは毎回してるのに」
また写真がぼやけ始めたのだ。数日前までは平気だったのに今では遠くの被写体がぼやけてしまっている。
あまりのことに苛立ちを隠しきれなかった。そこへ三宅部長が声をかけてくる。
「浅川さん、どうしたの?」
すぐに顔を繕い笑顔で振り返る。
「いえ別に! ふ、冬は……やっぱり撮るのが難しいなあって」
慌てていたため声が震えてしまった。部長はその様子に笑いながら続ける。
「冬は寒いし空気が乾燥してる。カメラにも負担がかかるから特に大変だね。でも浅川さんは成長が早いから大丈夫だよ。ちゃんと感覚つかめてる。冬でも良いのが撮れるよ」
部長の温かい言葉に泣きそうになる。
でも私は知っている。これは私の実力ではない。全てこのレンズのおかげなのだ。しかし、そんなこと言えるわけもなく私は口噤んでしまう。
そんな私の様子に気付かず部長は手元をのぞき込んできた。
「今どんな感じ?」
思わずカメラを隠してしまった。
驚く部長の顔が見える。挙動不審になってしまった。
「あっ……まだ被写体探してるところです」
私は部長から目をそらした。
「そっか。でも時間はあるから、焦らずいこう」
何とかごまかせたようだ。
その言葉を残して部長は他の部員のところへ去っていった。
「はい……」
(部長気まずそうだった。早く、早く良い写真を撮らなきゃ……!)
心の中にどす黒い何かが渦巻いた。しかし今は大会に集中しようと私は黒いものに見てみぬ振りを続けた。
「なんでなんでなんでなんでなんで!!!」
私は怒りに身を任せ、机をたたき撮った写真を握りつぶした。
「写真がどんどんぼやけてく。これじゃあ何も写せない!!!」
写真のぼやけは日に日に増していく。
私はこのころには毎日のようにメンテナンスをし、周りから心配されるほどになっていた。
しかし、そんな心配の言葉は私の耳には入らない。
(これじゃあ駄目だ。あんなに期待されているのに……!レンズの調節も基本的なメンテナンスも試せるものは全部した。古月堂で買ったクリーナー液も毎日使ってる。何がいけないの?)
頭をかきむしる。おかげで爪はぼろぼろになっていた。
私はそれでも泣きそうになりながらどうしようどうしようと考えた。
有名なメーカーの高いモデルを買う?でも今から使いこなして写真を撮れるのだろうか。
前に使っていたレンズを使う?それはもっと嫌だ。そんなことしたらまた昔のようになってしまうんじゃないか。
押し問答を頭の中で繰り広げる。もう諦めてしまった方がいいのだろうか。
あのレンズの新しいものがあれば……
その時頭の片隅にあった記憶が引っ張り出された。
「あのお店……」
もう時間はない。一か八かで行ってみるしかない。
目の前にティーカップが置かれる。中には琥珀色の紅茶が注がれていた。
「本日はどうなさいましたか?」
古月堂の店主が声をかける。
私は結局自分で解決する事ができず、この場所に来てしまった。私を見た店主は店の奥へと案内し、私は今古月堂の応接室にあるソファーに座っている。店主は向かいの席へと座り私を見つめた。
目の前に置かれた紅茶を飲む気にもなれず私はずっと俯いていた。
長い沈黙の末、私は口を開いた。
「あのレンズ、他のものはありませんか……」
「他のものですか」
「最近何しても写真がぼやけてしまって……。あのレンズが一番良いんです。他のレンズとは違う、実際にその場面を切り取ったみたいに色が綺麗で、ピントも自分が合わせたいところに何故か合わさるんです。後は自分の微調節で理想の世界が創れる。あのレンズじゃなきゃ私はもうダメなんです……! どうか、お願いします」
私は深く頭を下げた。ここが最後の希望なのだ。
しかし、そんな希望もむなしく店主は現実を突きつける。
「前もお話ししましたがあのレンズは特殊なものです、全く同じものはございません」
希望は無くなった。本当にどうしよう。視界がぼやける。まるで私の写真みたいだ。
気が付いたら私は涙を流していた。涙がズボンにしみを作っていく。
「そう……ですか。分かりました。ありがとうございます」
この場所を早く離れたい。
そう言って私は席を立とうとした。
「ただ、貴女の協力があればあのレンズよりも貴女に合うものが作れるかもしれません」
天から蜘蛛の糸が垂れて来た。こんな幸運もう一生ないだろう。
「協力します! なんでもやる! お願い……!」
思わず声を荒げてしまった。
しかし、店主は気にする素振りを見せずほほえみを向ける。
「そうですか。分かりました、引き受けましょう」
「本当ですか……? ありがとうございます」
また涙があふれて来た。しかし先程と同じ涙ではない。嬉し涙だった。
「さあ、そうと決まればすぐに作業に取り掛かりましょう。その前に色々とお尋ねしなければなりません。紅茶でも飲んで一息つき、ゆっくりお話を聞きましょう」
「はい、分かりました」
今日は怒ったり喜んだり忙しない。問題が解決しそうなのだからもう心配もいらないし一度落ち着こう。
そう思い私は言われた通り机の上のティーカップへと手を伸ばし、そのまま口へと運んだ。どうやら紅茶の正体はハーブティーだったようだ。そんなことにも気付かないほど私は周りが見えてなかったらしい。そのさわやかな香りに体の緊張が解けた。
そんな私の様子を見て店主が語り始める。
「実を言いますとあのレンズもとある方からの依頼で作りました。その方――彼女は貴女と同じようにより良い写真を撮ろうとしたのです。そのために、同じように協力してくれた。丁度貴女と同じ年頃の方でした。……ところで貴女、視力はどのくらいありますか?」
突然のことに驚いた。
視力がレンズづくりには必要なのだろうか?
「視力……? 両目とも1.5ありますが……」
私の答えに店主は嬉しそうに目の周りにあるしわを濃くする。
「それはそれは、大変目がよろしいのですね。それなら良いものが作れそうだ」
何故だろう。先程からこの店主の意図がわからない。何故か店主の後ろから不気味なものを感じる。
「それは、どういう――」
その瞬間、世界がゆがんだ。
もう涙は流していないのに何故?
自分の意思とは関係なく強烈な眠気が私を襲った。
それでも店主は気にすることなく話を続ける。
「良いものを手にするにはそれなりの覚悟が必要です。大金だったり、時間だったり。件の彼女もその願いに見合う対価を差し出しました」
店主の話が頭に入ってこない。駄目だ、抗えない。
私はソファーに倒れこんだ。体の力が抜けていく。喋るだけでもしんどい。それでも力を振り絞って声を出す。
「わたし……に……何を……」
店主は席から立ちあがり私に近寄る。今までと変わらないほほえみを向けてくるが不気味なものにしか見えなかった。本当にこの人は先程までの店主と同じ人なのだろうか。
私はもう意識を保つだけで精いっぱいだった。
「協力してもらうためです。本来でしたら貴女に必要のないことですが、それを望むのなら答えるのが私の信条でございますので。しかし、欲望に身を任せると人はこんなに簡単に信用してくれる。己の力を見誤って何かに依存する」
店主の顔が黒く塗りつぶされていく。まるでノイズがかかったかのようだった。
(もう……視界が……)
それでも店主は語るのをやめない。
「己の実力以上のものを手に入れたいなら、ご自身を差し出すのが筋でしょう?」
世界が遠くなる。
(あっ……世界が……)
暗転した。
最後に見えたのは店主の微笑んだ口元だった。
ふっと意識が浮上する。私は一体何を……確か古月堂に来て――
「大丈夫ですか?」
「!!!」
声が聞こえた。反射的に声のする方に振り向く。
そこには店主が立っていた。店主は相変わらずほほえみを向けている。
私は店主が恐ろしくなって懸命に逃げるように距離を取った。がくがくと全身が震え、脇から大量の冷や汗をかく。人を嫌う子猫のように恐怖に包まれながら、私は威嚇のように店主をにらみつけた。
「私に何を……」
震える口で言葉を絞り出す。
すると店主はおやおやと困ったような声色で私に笑いかけた。その笑顔は柔らかいままなのに私は恐怖を感じてしまっている。
店主は微笑みながら口を開いた。
「だいぶお疲れのようでしてね、貴女に少しでもリラックスしてもらおうと思いカモミールティーを出したところ眠りについてしまわれたのですよ」
疲れていた?
確かにレンズのことでここ最近は寝つきがよくなかった。それに毎日のように悩んで心身共に弱り果てていた自覚がある。もしかして、お茶を飲んだ後からの記憶は全部疲れが見せた夢だったのでないだろうか。もしそうだとしたら、私は今とんでもなく失礼なことをしてしまっているのでは。
「そ、そうだったんですね。私ったらとんでもない失礼を……!」
その時、部屋に午後六時を告げる鐘の音が響いた。
「もうこんな時間だ。この季節外は真っ暗になります。さあ、後はお家でゆっくりお休みください。店先までお送りします」
「あ、はい。ありがとうございます」
店主に言われるがまま私は店の外へと出た。何か腑に落ちないが私の頭はうまく回らずボーとしていた。
「あ、そうそう。レンズですがこちらになります」
店から出た時、店主が紙袋を差し出してきた。
「レンズ……あ」
そうだ、私レンズのことを相談しに来たんだった。
渡された紙袋を見てようやく感覚が現実に追い付いてきた。
「貴女の目に合うよう、こちらで調節させていただきました。レンズはカメラの目ですからね」
その言葉を聞いて私はやっと納得できた。
「だから視力を聞いたんですね。正直に言うと何か寝ている間にされたのかと思ってしまって……あ、いや。とにかく、ありがとうございました!」
店主に深くお辞儀をした後、私は古月堂に背を向け夜の道を駆けて行った。残された店主はその背中が見えなくなるまで見送る。
彼女を見つめる目は黒くゆがんでいた。
「ええ、視力がわからないと……」
これから貴女の目になるのですから――
その後彼女は無事帰宅することができた。しかし今日という日の体験はあまりに濃く、彼女は部屋に着いたとたんベッドへとその身を沈めた。
「はあ、夢だったのか……」
そうつぶやき、目を閉じる。考えるのはあの店でのことだ。
(だいぶリアルな夢だった。あの時は焦ってたから気が抜けたんだろうな)
「そうだ、新しいレンズ! ご飯の前に一回試してみよ」
彼女は机に置いていた紙袋を上機嫌で開けた。
中には小さな箱が入っておりふたを開けるとカメラレンズがピッタリと納まっている。
「これが新しいレンズか」
これのレンズを使ってまた明日から沢山写真を撮るんだ。そう思うと胸がわくわくする。
しかし、そんな思いはそれを見つけてしまったことで儚く砕け散った。
「ん? レンズの奥に何か見える……」
暗くなって見えづらいがレンズの奥に光る何かを見つけた。
一体何だろう?
彼女は目をよく凝らし再びレンズの奥を注視する。
……ギョロ
「ヒィッ!」
思わずレンズを放り投げてしまった。ゴトッ
「何、今の……」
いや、まさかそんなわけない。普通あんなものが入ってる訳がない!
しかし、一度目に焼き付けてしまったその光景を忘れることはできなかった。
レンズの奥に埋まっていたもの。あれはまるで
目玉のようだった。
あの店で店主が話していた内容が頭の中を埋め尽くす。
私の協力、視力、過去にも依頼した女性、目玉。
答えは導き出されたのに頭はそれを拒否する。
「あ、ああ……」
声がこわばる。全身の血の気が引いていく。それでも震えながら左腕を持ち上げゆっくりと顔に近づけた。
まさか、嘘だ、そんなことできるわけがない。これはきっとまだ夢なんだ。写真が撮れないから見た悪夢。現実の訳ない。
自分にそう言い聞かせるが体は勝手に鏡に向かう。そこに映っていたのは――
「あああ……」
左目のえぐれた自分の顔だった。
そして彼女は絶叫に埋め尽くされた。
「けほっ、せんぱーいここ凄い埃っぽいですよー」
「いいから、それしまっちゃって」
「はーい」
カタン……
「ん? なんだろ。カメラレンズ?」
カメラ 鈴 蘭 @eatsleeplay
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