花顔症

 あまりデリカシーのない母が「××、お父さんが満開よ」と呼びにくるのが苦手だった。それでも呼ばれて見に行けば父の顔をびっしりと小さな白い花が覆っていて、人によってはおぞましくも見えるその光景をうっとり見つめる母と怒って母を自室から追い返そうとする父がいつもいた。

 父は医者だった。そして私には優しかった。花顔症という言葉も父から聞いて、それは花粉症より先に私の語彙に入った。父の顔に咲く花の色はいつも白で、春になればスミレやカタバミなどよりさらに小さな五枚の花弁を懸命に広げていたのを覚えている。真っ白な斑点が顔を覆うような具合で、その奥の瞳はいつも優しく私を見つめてくれていた。

 私も父のことは嫌いでなかった。花のことと母のことがなければ穏やかな人柄だったし、親に好かれたい一心だけで「将来は医者になりたい」と言えば、幼子の浅い夢ときっと気づいていながらも嬉しそうに笑ってくれるような人だったから。そもそも幼い自分は父親というものは春が来れば皆顔が花で埋まるものと思っていたから嫌いようもなかった。医者なのに年中開業でなく頻繁に休業を挟むのも、田舎で人が少ないからだろうとしか思わなかった。

「お父さん、これ何やと思う」

「うん?」

 関係が崩れたのは二十歳の春だったろうか。父はやはりその時までずっとずっと優しかった。結局医者の道は早々に諦めて、何なら大学への進学も諦めてしまった私を詰ることもせず、むしろ若い内から社会に出ることを選んで立派だと、進学を勧め続けていた母を諫めさえしていた。

「腕ケガしたんか? 湿疹か?」

「いや、何か、……つぼみみたいな」

 父はその瞬間まで確かに優しかった。しかしそれを狂わせたのは私のその、虫刺されにしては随分華やかな痕の咲いた、左腕だったのだろう。

「お前、――!」

 あの咆哮は何と言っていたのか。とかく声にならないような大きな叫びで、父の激昂するのを初めて聞いた。まだ若かった私は、初めて聞く男親の自分への怒号に身をすくませ、振り返りもせずその場から逃げてしまった。逃げて逃げて、とうとう帰らなかった。


「お父さん、◯◯と来たよ」

 だから母も死んだ後の春は毎年、まるで贖罪でもするかのように、花ばかりがただ生い茂る実家に帰省している。住んでいた家屋はとうに屋根も壁も崩れて蔦に巻かれ、植物図鑑にも載っていない色とりどりの不思議な花を咲かせている。この花は全て父から咲いたものだ。帰省の度に花々は穏やかに揺れ、迎え入れさえしてくれる。

「美しい庭で死ねるのだから、放っておいて」

 父の顔が、花が何より好きだった母は、この花ばかり咲いた庭の中に埋もれて死んだ。唯一の子供であった私のことも、そして孫すらも煩わしかったようで、何度家の整理をさせてほしいと、庭の手入れをさせてほしいと電話しても頑として聞き入れなかった。父の異変から逃げた私への恨みだろうかとも思ったが本音はやや違ったらしい。

「満開のお父さんに埋もれて死ねるのよ。だから放っておいて」

 母の言葉を思い出しながら私は娘を、父からすれば孫を抱き上げて、庭の真ん中に鎮座するひと際立派な百八十センチほどの花の繭に近づける。陽当たりのよい場所。母が移したのか父がどうにかして歩いたのか。風が通りすぎ、花の甘い匂いがする。今や花の繭となった父は言葉も発さず、ただ静かに穏やかに花弁を揺らしてくれる。

「おじいちゃんこんにちは」

 幼い娘の言葉に花が笑ったような気がした。


  ――父が私に激昂したあの時、父の顔だけを覆っていたはずの花は彼の体をも瞬く間に侵し始めた。赤、黄色、水色の、しかし見たこともないような幻想的な花が蕾をもうけては咲きまた蔓や葉を伸ばして咲いては葉を伸ばす姿を私は見ていられなかった。自分のせいだと強く思った。

(私が、お父さんを苦しめているあの病気になったからだ)

 父の急な変容を受け入れるのには私はまだ年若かった。入れ替わりに部屋に入った母の喜色に溢れた声にさえ恐怖を覚えてしまった。その時は今と違ってまだ部屋が覆われているばかりだったから、踏み止まればよかったのかもしれない。でも結局、踏み止まるどころか帰りもしなかった。若かっただけじゃない。父に甘やかされて育った私は、臆病だった。

 幸いにもあるいは不幸にもその時にはとうに私は成人していた。だからどうにか親の保護下から外れ、見よう見まねの人生を始めた。腕に生えてくる花は痛みに耐えながら剪定した。自己治療しかなかった。治療法など、父が知るばかりだったから。これが毎日生えてくるのを父が何とか一季節だけに押さえ込んでいたことも、花の生える場所が人によることもその時初めて知った。やがて自分にも伴侶ができ、子ができ、親の心理も理解できる年になってようやく、勇気を出して実家に帰った。数年前のこと。その時父はやはり花のままで、母は壊れたままだったけれど。


 庭は繁茂する緑の中に春らしい桃色や黄色、薄い水色などの花々で満開で、ところどころには花顔症の父の顔に生えていたような白く小さな花も点々としている。美しいなと素直に思いかけて押しとどめる。これは庭ではなく父の体だ。あまりまじまじ見るものでもない。

 でも、やさしい景色だ。

「きっと、私に怒ったんじゃないのよね」

「ママ?」

「ごめんね。おじいちゃんとお話ししたくて」

 庭の花はざわざわと、穏やかに揺れてくれている。だからきっと、声は届いている気がする。

 私は長らく、私が病気になったことが父への裏切りだったから彼を激昂させたのだと思っていた。しかし最近ようやく、彼が怒りを向けているのは恐らく私ではなかったのだとろうと気付きだした。

 今にして思えばこのような病を得た父の人生が平坦であるはずがなかった。その中で病を受け入れ賞賛さえした母の存在は初めはきっと大きく、やがて過度な賞賛が煩わしくもなったのだろう。私はどちらの祖父母にも会ったことがない。もはや聞く手段もないけれど子を持つ年となれば理由の想像など容易い。医者と言えど花の咲くその顔が、病が相当なハンデだったのだろう。

 だからこそ、父は娘に救いを求めた。花を特別視しない唯一の肉親。よく分かる心情だ。分かりながら、依存してはならないときっと戒めていた。

「ママと同じお花」

「え?」

「おじいちゃんがくれたよ。どうぞって」

 娘の差し出した花は、私の腕に毎日咲いてくるものと同じだった。水色の、百合にも似た花。この病を知ったときの夫は「美しい」と過剰に誉めてくれた。受け取りながら、うまく笑えているか不安になる。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 最近は時折、夫の中に母の幻影を見る。花を過剰に誉める人種はどこにでもいるらしい。一方で娘は無頓着だ。祖父とはこういうものだと思っているし、「母親」とは私とは体のどこかに花の咲くものだと、それも私の名が「ゆり」だから百合の咲くのは当然と、昔の私のように思っている。異常を当然のように受け入れられることの何と幸いなことか。それが血のつながった相手であることの何とありがたいことか。

 母はきっと父のことを花の咲く庭としてしか見ていなかった。

 だからこそ父が時間を止め繭の中に逃避した理由も理解できる。きっと父は自分の人生において唯一、賞賛も畏怖もなく花顔症を受け入れた私に希望を見いだしていた。だから私の記憶に残る父の顔は、穏やかでにこやかなものばかりだった。それが娘の腕に呪いの系譜を見つけ、自分と同じ目に遭うと理解したとき何かが咲いた。絶望したのだ。今ならわかる、よく分かる。

「◯◯ちゃんは、おじいちゃんのこと好き?」

「大好き。やさしいお花だから」

「ありがとう」

 先日、娘の背中に若葉を見つけた。思わず叫びだしそうになったのを必死に抑えて、泣く娘の背中の若葉を無理矢理切った。夫には到底言えなかった。

「ずっと、お花が大好きなあなたでいてね」

 こんなにも愛しい娘から花の咲いてくる毎日に、自分は果たして耐えられるだろうか。

「お父さん、また『二人で会いに』来るからね」

 花の繭が穏やかに揺れる。最近は時折、手招きしているようにすら感じる。

 耐えられるだろうか。

 ――遠い未来にはきっと繭の中から成長した娘の声を聞くだろうと予見している私には、せめてもの心を保つためにそんな強がりしか言えなかった。



※ギャグテイストになったので削った蛇足

「お父さんあの、行政の人が……公道まで蔦や花を伸ばされるのは困るって……、え、それ縮められるの? お父さん? え? あ、ありがとう……」

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掌編まとめ 内宮いさと @eri_miyauchi

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