ようこそ、着ぐるみ社会へ

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 「着ぐるみ」について触れる前に、少々背景について話しておく必要がある。それは、こんな所から始まった。


 「男女平等」がうたわれて久しい。入学や入社など様々な場面で、性別による区別・差別は少なくとも表向きには撤廃されている。しかし、実際には存在しており、やり口も段々と巧妙になってきている。入学試験評価の男女差別が発覚し、問題になったのはその一例だ。

 そんな頃、さらに「ジェンダーフリー」をより強く標榜する国が現れてきた。例えば、パスポートや身分証明書の性別欄を廃止するというのだ。もはや性別は、その人にとって確認すべき、或いは重要な属性ではない、という事だろう。言われてみればトイレに入る時にIDカードを提示する訳じゃないし、身分証明書に性別なんて必要ないのかもしれない。


 一方で、米国を中心に人種差別はなかなか解消されなかった。永遠の課題である。依然として肌の色で有形無形の区別・差別が行われていた。最近では、黒人に対する警察官の不当な暴力が問題になった。また、あるヨーロッパのレストランでは、給仕をしている人は皆、白人だったが、厨房を覗けば黒人やヒスパニックの労働者ばかりだった。これはそれぞれの適正を勘案した配置だろうか。余りそうは思えない。しかし、このような区別の根強さは、むしろ顧客から来ているのかもしれない。レストランは顧客の望まない事をしないからだ。


 そんな時、日本ではこれらの問題を少し違う視点で捉えていた。日本ではどうしても、人を第一印象、或いは一見いっけんで判断してしまうという根強い習慣がある。いや、これは一概に問題とは言えない。古来から、第一印象はそれなりにその人や人柄を見る重要な材料だからだ。しかし、面接などがその典型だが、第一印象で合否を決められてはかなわない。

 米国では、人種差別は残るものの、反面それを是正しようとする良識も働いている。人を一見で判断しないようにする意識がある。もっとも、多様な人種が行きかう中で、いちいち相手の外見に反応していては仕事も生活も出来ないという事情もある。人種問題の少ない日本ではこの意識が、逆に育って来なかった。自分達と見た目が違う、或いは異質というだけで瞬時にそれを排除する心が働いてしまう。


 この問題を抜本的に是正する為、日本政府は「ジェンダーフリー」を発展させた「容姿フリー計画」を進めていた。何をするにも中途半端な政府であるが、この計画は珍しく、まさに「抜本的」という言葉が文字通り当てはまるような徹底したものだった。


◇ ◇ ◇


 計画は実施の1年前に公表された。計画の実施には様々な事前準備が必要だった為である。公表された内容は簡潔だった。

「政府は『容姿フリー』を目指します。1年後から、市民の皆さんは『着ぐるみ』になります。家庭内など、いくつかの場面ではこの限りではありません」

 市民は「容姿フリー」という言葉にピンと来なかった。ジェンダーフリーという言葉さえ未消化な人が多い中、容姿フリーの意味や目指す所はなかなか理解されなかった。また、「『着ぐるみ』になります」も唐突で、真面目に捉えない人も多かった。そんな人達は後で慌てる事になる。こうして、計画は着々と進行した。


 準備期間では、まず着ぐるみが大量生産された。1年以内に全国民分を作らなければならない。着ぐるみ業界は特需に沸いた。アパレル業界からも新規参入が相次いだ。

 次に、社会インフラの改修が必要だった。着ぐるみを付ければ、腰周りが一回り大きくなるので、いろいろな所で不都合が生じる。駅の自動改札の幅は広げられた。公共交通機関の座席も広げられた。まあ、全員がお相撲さんになったと思えば良い。運賃は据え置きなので、交通各社にはかなりの痛手が予想された。

 自動車業界は車の改造が必要だった。座席を一回り大きくする必要があった。運転に支障があってはいけないので、着ぐるみに合わせて設計の細かい変更が行われた。


◇ ◇ ◇


 こうして、「容姿フリー計画」は初日を迎えた。これは後に「容姿フリー元年」と呼ばれる。「容姿フリー」、つまり「社会」は正式に開始された。

 それは予想はしていたものの、異様な光景だった。いや、滑稽と言った方がいいかもしれない。街を歩く人々は、皆、着ぐるみに身を包んでいる。車を運転している人も着ぐるみだ。店員も、運転手も、警察官も。何も自治体のゆるキャラ大会をしているのではない。全ての人が着ぐるみを付けて生活しているのだ。


 欧州には昔から仮面舞踏会という慣習があるが、それの着ぐるみ版だ。仮面舞踏会では、それが誰か分からない所に面白さがある。ある種の無礼講的な意味もある。着ぐるみの目的は、「容姿フリー」、つまり、容姿を分からなくする所にある。それが誰かが分かってもかまわないので、仮面舞踏会とは異なる。

 実際、相手が誰か分からないと困る。着ぐるみのままでは顔が分からず、同僚や友人同士でも判別できない。分かるのは背丈くらいだ。それなので、人々は着ぐるみに名札を付けたり、相手の着ぐるみの形や絵柄を覚えたりする事で識別していた。後者の場合、着ぐるみを代えられたら、また分からなくなってしまう。もちろん、会話はできるので、会ってから確認すれば良い。最初の頃は着ぐるみの大量生産が行われた事もあり、似たようなデザインの気ぐるみが多かった。

「ごめん、待った?」

「失礼、どなたでしたかな」

「あれっ、みっちゃんじゃないの?」

「違います。着ぐるみが似てましたかな」

「あー、すみません、失礼しました」

 などという会話が良く聞かれた。


 着ぐるみはソフトタイプでもハードタイプでもいい。ただ、体型が分からないように、ある程度ダブダブである事が求められた。体にピッチリしていては、容姿フリーとは言えないからだ。少しくらい太っていても、痩せていても着ぐるみの外からは分からない事が求められた。お相撲さんくらい太っていると流石に着ぐるみでも分かってしまうが、これはやむを得ない事だろう。


 着ぐるみを脱いで接しても良いのは、同居している者同士、通常は家族同士だけだ。逆に言うと、それ以外はいつでも着ぐるみを付けていなければならない。例えば会社でも入社してから会社を辞めるまで、上司、同僚、顧客に限らず、ずっと着ぐるみで会うことになる。最後まで素顔を見ることは無い。これは友人、知人の間についても同じだ。

 長時間の着用に耐えられるように、快適な着ぐるみの開発が進んだ。軽量のもの、保温性の良いもの、夏用に扇風機を内蔵したもの、通信機能やテレビを搭載したものなどなど。ちょうど車好きが、車の中を自分の好みに合わせて、座席やハンドルを交換したり、高級なオーディオを搭載しているのと同じようなものだ。着ぐるみのはオタク系の人達にとっては趣味の世界と化していた。このため、電器業界や自動車業界なども着ぐるみや関連商品の開発に参入した。


 モデルさんはどうなっただろう。これも例外扱いはされなかった。あくまで「着ぐるみ」を付けた状態でのモデルとなった。つまり、他の一般市民となんら変わらない。自慢の顔やボディラインは全く意味を成さない。当初はいろいろと工夫した魅力的な着ぐるみを登場させたが、結局注目を維持するには至らず、モデル業界はじりじりと縮小していった。


 それでもどうしても着ぐるみを脱がなければいけない場面もある。例えば、水泳や、マッサージ、銭湯・サウナ、医療の場面である。銭湯などは設備の改修を迫られた。「裸のお付き合い」は無くなり、洗い場と浴槽は全て「個室」になった。そんな個室がずらりと並ぶ。要するにビジネスホテルのユニットバスが並んでいるようなものだ。これは意外と好評で、お客さんは絶えなかった。ただ、多額の改修費用が掛かったので、経営は大変だった。


 医療については、着ぐるみのままでは当然、診察も治療もできないので、着ぐるみを脱ぐ事になる。その為、看護師、医師には厳密な守秘義務が課せられた。数少ない、「容姿」と「名前」の結びつきを知る事ができる職業の一つだ。そのほか、介護師・理学療法士なども含まれる。マッサージ師や鍼灸師も人々の健康に必要な業務と見做され、着ぐるみを脱いだ患者と接する事が許された。

 ちょっと変わったところでは、散髪がある。理容師や美容師だ。これは人々に必要で、無くす訳にはいかない。しかし、少なくとも頭部が露出していないと仕事にならない。これも守秘義務が課せられた。


 これらの職種の人にも、悩む者が出て来た。例えば医師が診察しようとして着ぐるみを脱いでもらうと、その外見から、ついつい先入観が生じてしまう。例えば、長い髪を真っ赤に染め、ピアスやボディピアスをじゃらじゃら付け、刺青だらけの患者が出て来る事もある。差別してはならないと理屈では分かるがどうしても嫌悪感を覚えてしまう。そんなとき医師は自分の職業を恨む事もある。

「俺も、着ぐるみだけを相手にしていられる仕事がいいなあ。中身を見てしまうと、どうしても色眼鏡で見るようになってしまう」

 ただ、着ぐるみ社会が定着するにつれ、髪を染める人もピアスを付ける人も減っていったのは言うまでもない。誰にも見てもらえないので無意味だからだ。


 人々の化粧や衣服も段々とぞんざいなものになってきた。それに抵抗を感じる人も当初は多くいたが、時が経つにつれ、だんだんと面倒くさくなってきたのだ。確かに、誰も見てくれないものに一生懸命お金や時間を掛けて何の意味があるだろう。

 当初から予想されていた事だが、これには関係業界が大打撃を受けた。化粧品、装飾品、アパレル、ファッションなど、倒産寸前の状態まで追い込まれた。しかし、そこは商売根性で、着ぐるみ自体を飾る新たなファッションを開発していった。ただ、「容姿フリー」の趣旨を踏まえて、華美な装飾はできなかった。


 スタイルも外からは分からないので、以前のようにダイエットに熱心になる人は減った。海水浴でも着ぐるみは脱ぐ事は出来ない。着ぐるみで日光浴をするという、なんだか変な光景が広がった。これも、レジャーと思えばそれも良い。日焼けを嫌う人には好都合だった。着ぐるみのまま泳ぐのは危険なので、遊泳は個人のリスクとされた。安全に泳げる着ぐるみの開発も行われたが、これはなかなか難しかった。着ぐるみに水が入ると動きにくいし、防水にすると、浮いてしまって泳ぎにくい。

 スタイル自体よりも、健康のために適切な体型を維持しようとする人が増えた。それなので、スポーツクラブは相変わらず盛況だった。着ぐるみのままランニングマシンで走っている姿はなかなか微笑ましい光景だった。プールは1コース毎に仕切りを入れて、それぞれを個人用にした。ただ、安全監視が行き届かないので、どうしたものか、まだ議論は続いている。

 一方、一頃のようにガリガリに痩せた人はいなくなったので、これは良かった。ただ、これは着ぐるみの中を覗いてみないと本当の所は分からないが。


 警察官や消防士などは、制服の絵を描いた着ぐるみを身に付けた。いわゆる「着ぐるみ制服」だ。パトカーが独自の彩色になっているのと同じである。これは職務遂行上必要だからだ。事故や事件があった時に、誰が警察官か分からないでは困る。鉄道の駅員や電車の車掌、運転手なども着ぐるみ制服を身に付けた。

 警察官は取り締まりに苦労した。例えば泥棒を見つけても、泥棒も着ぐるみを付けている。これでは誰か分からない。IT技術を駆使してやっと開発した「顔認識」のシステムも、着ぐるみ相手ではさっぱり役に立たない。泥棒も、目撃されれば、着ぐるみを別のものに変える。よく刑事ドラマで、犯人が逃亡中に追跡を逃れる為、車を乗り換える場面が出てくるが、あれと同じだ。結局、背丈くらいしか容疑者の特徴は分からない。捜査関係者は皆、頭を抱えていた。


 外見が着ぐるみだと、別の問題も起きる。例えば警察官の「着ぐるみ制服」に身を包めば容易に成りすましができる。要するにニセ警官だ。でも、これは良く考えれば着ぐるみでなくても同じだ。要は制服というものの信頼性の問題だろう。人が多ければ問題にはならない。少なければ制服と言うシステムはそもそも成り立たない。


 意外な社会的効用もあった。引きこもりが減ったのだ。それまでは家の中に閉じこもっていたのが、着ぐるみを付けて外出するようになった。特に対面恐怖症的な要因で引きこもりになっていた人は、もう「対面」しなくていい訳だから、なるほど外出もできよう。同時に、自殺や鬱の人も減ったという。政府も当初想定していなかった事だが、これは嬉しいニュースだ。

 また、近年、何故か下を向いて歩く人たちが増えていたが、着ぐるみになってからは、ちゃんと前を向いて歩くようになった。ただし、スマホを見ながら歩く人は、たとえ着ぐるみを付けていてもやっぱり下を向いて歩いていた。これには「スマホホルダー」を着ぐるみに装着する事で、いちいち手で持っていなくてもいいようなアイデアも生まれた。


 学校教育の場では、事が起きていた。いや、当事者から見たら困った問題だろう。不審者の見分け方だ。これまでは、不審者と言えば、細かい事を言わなくてもなんとなく直感的に怪しい人のイメージがあり、共通認識があった。しかし、誰も彼も「着ぐるみ」では、誰が不審者か分からない。仮に外見だけで判断するのであれば、それは「不審な着ぐるみ」であり、中にいる人間の良し悪しは見ていない事になる。これでは困る。街の看板は、

「不審者を見たら110番!」

 から、

「不審な着ぐるみを見たら110番!」

 と書き換えられた。しかし、今ひとつ「不審な着ぐるみ」の意味が良くわからない。


 電車やバスでも困った事が起きていた。お年寄りに席を譲ろうとしても、着ぐるみを見ただけではお年寄りかどうか分からない。腰が曲がっているだけで「たぶん高齢者だろう」と当たりを付けるのもちょっと野暮である。優先席に座っている人達を見ても、お年寄りか、障害者かなどは分からない。スマホでゲームをやっているからといって、若者とは限らない。さすがに松葉杖を持っていれば、怪我人だという事は分かりそうだ。優先席は従来にも増して有名無実になっていった。


 就活の場面は、真剣勝負だった。着ぐるみに身を包んだ面接官が、着ぐるみの候補者に問う。

「君はどうして我が社を希望しているのだね」

「はい、御社の社会貢献のあり方に共感したからです」

 普通、「面接入門」の動画では、

《良い印象を与えるために、明るい前向きな表情でまっすぐ面接官の目を見て話しましょう》

 と教えている。が、しかし、着ぐるみでこれは無理だ。

 面接官の方も、候補者の着ぐるみの顔をじっと見て、なんとかどんな人なのか知ろうとするが、表情は読み取れない。

 それでも面接をやめる訳にはいかない。着ぐるみと着ぐるみの真剣勝負は続いて行く。


 選挙の場面は悲喜こもごもだ。容姿の良い候補者は、着ぐるみなんて着たくないだろう。一方、冴えない顔かたちの候補者は、着ぐるみは救いだ。少なくとも、他の候補者と「見た目」での差は、つかない。ただ、それでも着ぐるみのデザインには気を使う。明るい、清潔感のあるデザインにする。選挙ポスターももちろん着ぐるみだ。だがこれは限りなく無意味なものになった。若干のスローガンは書くのだろうが、要するに着ぐるみが写っているだけだ。着ぐるみは何とでもなるのだから、本人とは何の関係も無い。変な話し、街中で撮影した誰かの着ぐるみをポスターにしたっていい。でもそれで何の意味があろうか。

 有権者は、元々、立候補者を写真だけで選ぶべきではないが、ここに来て、写真すら意味が無くなってしまった。勢い、演説を聴いたり、発表された政策や公約を見たりした。そんな意味で、選挙にとって着ぐるみは良い影響をもたらしたと言える。


 証券会社の営業マンは、新規顧客を獲得する際、顧客の値踏みをする。貧乏人が相手では商売にならないからだ。それには、身なりも重要な指標なのだが、相手が着ぐるみではなかなか難しい。金ピカの着ぐるみに身を包んでいても、それで本当にお金持ちとは限らない。ブランド物のバッグを下げていても、安月給のサラリーマンが無理して買った物かもしれない。それでも、会話の中から、或いは僅かな仕草から、上質なお金持ちかどうかを見抜こうと頑張った。ちょっとした刑事物のプロファイラー気分である。


 お店の販売員にとっても困った事がある。例えば、不動産業者が、マンション販売のチラシ配りをする際なんかだ。これまでは、身なりを見て中高年のサラリーマンや堅気の商売をしていそうな人にチラシを渡せば良かった。しかし、着ぐるみでは、中がどんな人が分からない。未成年かもしれないし、貧乏人かもしれない。

 サーフィンのお店など、若者向けのお店でも販売員は困っていた。これまでは垢抜けした若者を呼び込んでいれば良かったが、着ぐるみではこれまた分からない。声を掛けたのはいいが、

「わしゃあ、今年で90歳になる。サーフィンはちょっと」

 なんて返事が返って来る事もある。

 ただ客から見ると、如何にも無視される、という事はなくなった。例えば宝石店の店員に無視されると、

「あ、俺は金持っていないように見えるのかなあ」

 と思ってしまうが、そんな事もなくなった。店員も着ぐるみを見ただけでは良く分からないからだ。


 着ぐるみは、容姿に自信のある若者には不評だった。一番生気がある年頃で、自分の容姿をさらけ出したい時に、それに蓋をされるのだからやり切れない。そんな若者達は、せめてもと、着ぐるみの絵柄で自己主張をした。ピアスをして髪を振り乱した絵柄なんかが流行った。半グレの連中もいろいろと工夫した。周りから「あっ、半グレ」と認識されて始めて自分の存在を感じられる人達なので、一生懸命だった。中にはそれが高じて着ぐるみデザイナーになった若者もいた。


 容姿に自信の無い若者たちにとっては、むしろ着ぐるみは好評だった。差別されたり、いじめに遭っていた若者は、着ぐるみに救われた。ただ、学校では、着ぐるみの中の人の容姿が分からなくても、ひょんなことから いじめられるとそれが定着してしまう事がある。いじめをする人間は、相手が無抵抗だと付け上がるからだ。根深い問題だ。

 中高年の人達にも概ね受け入れられたが、何歳になっても自己主張の強い、或いは容姿に拘る向きには不評だった。そんな人達は、せいぜい着ぐるみをお金持ちっぽい絵柄にして、ブランド物の時計やバッグを身に付けるくらいしかできなかった。札束を着ぐるみに描く悪趣味な者もいた。ただ、その人が本当に札束を持っているかどうかは分からない。これらの人々には、今ひとつ自己主張できない不満がくすぶっていた。一方で、外見に拘らない人達にとっては、着ぐるみはさほど問題ではなかった。


 スポーツでは少し様子が違った。どんなスポーツでも外見は重要で、それを趣味としている人も多い。ジョギングだって、それなりに選んだ、或いは凝った帽子、シャツ、パンツ、運動靴を身に付けている人は多い。ところが着ぐるみによって、そんな趣味性が大きく損なわれてしまった。これは、ゴルフ、登山、スキーなどあらゆるスポーツについて言えた。なにせ、どんなスポーツをするにしても「着ぐるみ」なのだ。最初の頃は、それでもスポーツに合わせて着ぐるみを代える人もいた。TPOと言えばいいのだろうか。スキーをする時は、スキーウェアデザインの着ぐるみ、テニスをする時はテニスウェアデザインの着ぐるみといった具合だ。しかしこれも、段々と面倒くさくなってきて、大抵はいつも同じ着ぐるみを使うようになった。これには別の理由もある。着ぐるみを代えていると、一緒にいる仲間から見て、誰か分からなくなってしまうからだ。いつも同じ着ぐるみであれば、簡単に誰か分かる。


 プロのスポーツ選手は遥かに大変だった。どんなスポーツも着ぐるみを付けて行われた。相撲は着ぐるみを付けたままぶつかり合うので、着ぐるみは直ぐにボロボロになった。経費が掛かったが、髪は結わなくて良い分楽チンだった。髪結いの伝統技術が失われるのではと、危惧する声も出ている。サッカー選手の着ぐるみも直ぐにボロボロになった。ただ、着ぐるみがクッションになるため、競技中の怪我は減った。ゴールキーパーもPKで顔に直接ボールを食らう事は無い。ただ、着ぐるみが邪魔で選手の動きが良く見えないため、審判は苦労した。

 一方、剣道は着ぐるみがそのまま道着の代わりになるので逆に便利だった。練習に行っても、着替える必要が無い。陸上の短距離や自転車競技では、空気抵抗が少ない着ぐるみの開発競争が行われた。水泳は、防水型の着ぐるみで行われた為、体が妙に浮いてしまい、水泳というよりどちらかというと、手足をバシャバシャさせて進むボート競技のようになってしまった。


 テレビのアナウンサーは始めの頃は、着ぐるみを毎日代えていた。これまでの慣習の延長でそんな振る舞いをしていた。しかし、やはり視聴者から、着ぐるみが代わると誰だか分からないという苦情があり、毎日同じ着ぐるみを付けるアナウンサーが増えてきた。聞いてみると、

「これは楽だわ。なんで最初からこうしなかったのかしら」

 という声が聞かれた。

 ただ、「毎日同じ」にどうしても抵抗のあるアナウンサーは毎日着ぐるみを代えるかわりに「名札」を胸につけた。なんだか小学生みたいだが、実用的だ。そうまでして着ぐるみを代える必要は無いのだが、身に染み込んだ習慣というものはなかなか払拭できない。


 着ぐるみも時と共に進化して行った。その内の一つが「声」だ。当初は肉声がそのまま使われたが、マイクと音声変換機が内蔵された着ぐるみが登場した。従来だと、男性、女性、お年寄り、若者、子供など、それぞれの声には特色があるので、着ぐるみを付けていてもなんとなくそれらの区別は付いた。しかし、この音声変換機によって、それもできなくなった。聞くほうにとっては不便かもしれないが、ある意味「容姿フリー」の趣旨には合っている。


 もう一つの変化は身長だ。高い身長を低く見せるのには無理があるが、逆はできる。人間工学の粋を集めて開発された着ぐるみは、高さを自由に調整できた。実際の身長よりずっと高く見せるのも簡単だ。もう厚底の靴やハイヒールを履く必要は無い。子供用も登場し、身長を2倍くらいに見せるものもあった。そんな着ぐるみでは、子供は中央部にちょこんと座るような感じになる。まるでモビルスーツだ。見た目だけは大人のようになる。声も大人の声に変換できる。もう、

「このガキが、生意気に!」

 なんて言われなくて済む。


 当初は、それぞれの人がなんとなく自分に着ぐるみを好んでいた。例えば営業マンなら仕事用にスーツのピシッとした絵柄の着ぐるみだ。若い女性であれば、かわいいドレスのようなデザインの着ぐるみが人気だった。しかし、しばらくすると、音声変換機の実装も相まって、を楽しむ人達が出現した。本人が中に入っているので、これをアバターと呼んで良いのか微妙だが、本人が直接露出せず、片や着ぐるみのデザインは自由にできる訳だから、一種のアバターと呼んでも良かろう。

 アバターでは自分に似せるのではなく、全く異なるキャラクターになる事を楽しむのだ。「アバター遊び」と呼ばれるようになった。ある意味、変装ごっこだ。例えば、ちょっとキモいが、高齢のじいさんが、若い女性に事もできる。この逆もある。若者がじいさん、ばあさんにする事も可能だ。

 着ぐるみ社会になっても、やはり人は「見た目」にある程度は反応するようで面白い。顔に傷を描いて、如何にもヤクザでございますという絵柄の着ぐるみで睨みを効かせて街を歩けば、なんとなく周りは避けて歩く。よぼよぼのばあさんの絵柄にすれば周りは親切にしてくれる。中身が元気な若い女性だったとしても!

 子供もアバター遊びを楽しんだ。このお陰で、子供の心の悩み相談の件数は大きく減少した。アバター遊びで悩みを軽減できるようだ。ひ弱で目立たない子供でも、皆の知っているアニメに登場するいじめっ子の絵柄の着ぐるみをまとえば、風を切って堂々と歩ける。気分爽快だ。


 アバター遊びによるが、スパイ映画の変装と本質的に違う所がある。スパイ映画のそれは周囲をのが目的だ。しかし、アバター遊びの場合、周囲の人は最初からその変装を信じていない。着ぐるみの絵柄やデザインは自由なので、それが中に入っている本人に似せてある保障などどこにもない。つまり、周囲の人達は、アバター遊びを楽しんでいる人に対しても、そうでない人に対しても、誰も「外観」などは信じていないという事だ。だから、これは騙した騙されたという問題にはならない。例えば、お金持ち風の着ぐるみの人を見つけて、取り入ろうとする者がいたら、それはそうする方が愚かだ。金持ちの着ぐるみの中身は貧乏人かもしれないし、もしかすると子供かもしれない。


 着ぐるみを信じないとなれば、一見、人を信用できない寒々とした社会に見えるが、そうではない。信用していないのはあくまでだ。中の人間を信用していない訳ではない。だから、相手を知ろうとした場合は、着ぐるみは無視して、中の人そのものを見ようとする。良い人か、悪い人か、親切な人か、独善的な人か、などなど。政治家を選ぶ時と同じだ。これは逆にいうと、評価される中の人にとっては厳しい。なんとか着ぐるみを豪華にして、立派な人柄を装おうしても、誰もそれを信じてはくれない。中に入っている本人自体が問われるので、誤魔化しは効かない。人々は、金ピカの着ぐるみも、くすんだ地味な着ぐるみも同じ目で見るようになってきた。本当は「同じ目で見る」というのは語弊がある。「どちらも見ていない」とした方が正確だろう。


 学校教育でも変化が現れた。これまで言っていた、

「不審な者を見たら、防犯ブザー、大声、逃げろ、110番」

 という定番の取り決めが効かなくなってきた。外見では判断できないからだ。とは言っても、一番の安全を見て全ての人を不審者と見做す事も出来ない。

を見たら、防犯ブザー、大声、逃げろ、110番」

 では、余りにも人間不信すぎる。結局、

「着ぐるみで判断しないようにしよう」

 という形になっていった。パリッとしたビジネスマン風の着ぐるみでも、如何にも近所のおばさんという着ぐるみでも、中身は誰にも分からない。逆に今にも子供を襲いそうな凶悪な人相の着ぐるみをしていても、中身は分からないのだ。よく考えるとこれは当たり前の事かもしれないが、着ぐるみ社会でやっと人心は「ここ」に辿り着いたという感じだ。ちなみに、元々人相の悪い人は、着ぐるみに大いに救われた事はいうまでもない。


 こうして「着ぐるみ社会」はなんとか一応の安定を見た。良い所も悪い所もあるが、全体としてみれば好評だ。理由の一つは、化粧や衣服を気にしなくても良い事が大きい。これは人によっては逆に自己アピールをする場がなくなってマイナスなのだが、多くの人は慣れてしまえば、簡単な方が良いに決まっている。ちなみに、化粧や衣服に使っていた時間をそっくり生産性のある業務に廻すことができるため、経済指標は向上した。これも政府は予想していなかったが、国際競争力は高まり、税収も増え、嬉しい副次効果だ。


 しかし、着ぐるみ社会で一番良いのは、人々が着ぐるみに意味を見出さなくなった事だ。一見、逆説のように聞こえるが、着ぐるみにした事で外見の無意味さが理解されるようになったという意味だ。会社で人材を採用する場合、着ぐるみで採用の可否を判断するだろうか。恋人を着ぐるみで判断するだろうか。一時はアバター遊びなどで華やかさを見せた着ぐるみのデザインや絵柄も、段々と地味なものになっていった。考えてみれば当たり前だが、着ぐるみをいくら豪華にしたって、はたから見たら、それをやっているのかは分からない。着ぐるみ以前の社会では、少なくとも顔が露出しているので、本人も「私がやっているのよ」という自己主張ができ、自己満足的な何かを得られた。しかし、着ぐるみ社会では、これが無い。つまり、張り合いが無いという事だ。


 諸外国からは様々な反応、と言いたい所だが、実際はほとんど否定的な反応だった。取り分け西洋諸国からは不評だった。ギリシアの彫像などを見ても分かる通り、彼らは容姿を前面に出して礼賛する。これは「容姿フリー」とは全く正反対だ。欧米では日本の着ぐるみを揶揄した論評が目立った。

「東洋の神秘、ここに来てさらに神秘化」

「日本人はお得意の『意味不明のジャパニーズスマイル』すら隠してしまった」

「島国で、個人まで島国化」

 しかし、米国の一部の政府関係者は、うまく適用すれば人種問題の解決に使えるのではないかと考えていた。日本の様に完全な容姿フリーを目指す必要は無く、例えば肌の色を隠すだけであれば、ブカブカの気ぐるみである必要は無い。肌にピッチリしたものでも良いので、社会インフラの改修は、日本の場合より遥かに楽だろう。

 それでも米国での世論調査は「97%が反対」だった。これでは、実現はまず無理だ。元々、表情豊かに身振り手振りで話しをし、握手したり抱き合ったりする国民性の人々が、いきなり着ぐるみを付けて「三尺下がって師の影を踏まず」的な所作を受け入れられるはずもない。

 外国から仕事や観光で日本に来る外国人にももちろん着ぐるみは必要だ。着ぐるみを購入したり持ち込んだりするのは大変なので、多くの訪日外国人は空港で「レンタル着ぐるみ」を使った。入国審査後、速やかに身に付けなければならないので、何よりも先にレンタル店に立ち寄る。街中まちなかでは、結構外国人観光客の着ぐるみは見つけるのが容易だ。大抵は「フジヤマ」や「キモノ」、「ニンジャ」なんかの絵柄にしているからだ。彼らは彼らなりに着ぐるみを楽しんでいた。


 予想されていた事だが、人々は、この「名無しの権兵衛」社会に段々と飽きてきた。中には着ぐるみを脱ぎ捨てる者も出てきた。特に、着ぐるみ以前の社会を長く経験しているお年寄りが多かった。これは罰金刑になる。

 確かに「容姿フリー」は達成され、単に外見で区別・差別が行われる事はほとんど無くなった。良い社会である。政府はこの成果に満足していたし、市民も多くは支持していた。しかし、着ぐるみ社会ではどっちを向いても、無表情な着ぐるみだけの世界だ。確かにそれでも社会や経済は回っているが味気ない。そして徐々にそれに反発する人々が現れてきた。その人達の主張は尤もなものだった。

「本来は着ぐるみが無くても外見で区別・差別するべきではない。我々自身がそのような素養を身に付けるべきで、着ぐるみで強制的にやるべきではない」

 正論だが、それが長年に渡ってできなかったので、政府は「容姿フリー計画」に踏み切ったという経緯がある。


 そんな中で、子供達が注目された。着ぐるみ社会で生まれ育ってきた子供達は、そもそも人を見た目で区別・差別していた時代を知らない。だから、着ぐるみを見ても、家で着ぐるみを脱いだ家族を見ても、ただ単に「人」として捉える事しかしなかった。これは、新しいタイプの人類のだった。彼らは「着ぐるみ後人類」と呼ばれた。略してPKG(Post Kigurumi Generation)である。

 PKGに対する学術研究が行われた。実地試験ではこんなやりとりが見られた。

 子供たちに試験官が何枚かの写真を見せる。それには着ぐるみを人が数人写っていた。豪奢な衣服をまとった金持ち風の人、ホームレスのような人、サングラスをした黒ずくめの如何にも犯罪者風の人など。そして、PKGの子供たちにそれぞれの印象を聞く。するとこんな返事が返って来る。

「分かんない。だって体表に付着している布状物質が違うだけだもん」

「薄型の着ぐるみだと思うけど、中の人とお話ししてみないと」

「なんでそんな事聞くの? 印象って何を答えればいいの?」


 「容姿フリー計画」の実施メンバーによって、着ぐるみを今後どうして行くべきかの検討が行われていた。政府は、いずれ着ぐるみを廃止しなければならない事は分かっていたが、問題はそれをするかだ。確実なのは、現行世代が全て社会の第一線から退き、PKGが社会を動かすようになる日を待つ事だ。しかし、それには非常に長い時間が掛かる。そこで識者たちから提案されたのは、PKGが教育現場に浸透するタイミングを待つという案だった。何はさておき、教育は重要だ。「容姿フリー」を完全に体得したPKGが次の世代の教育を始めれば、それは順次引き継がれて行くだろう。いくら頭では分かっていても、着ぐるみ前の社会を経験している者は、いつなんどき元に戻ってしまうか知れない。莫大な予算と時間をかけて行われてきた「容姿フリー計画」を水泡に帰させる訳には行かない。そして、この案は採択された。


 ◇ ◇ ◇


 「容姿フリー元年」から5年程を数えたある日、家族連れが車を降りて、家に入ろうとしていた。小さな娘を連れている。その時、坂の上の方から夕日を背に、くしゃくしゃの白髪はくはつが長く伸びた初老の男が少しうつむいてゆっくりと歩いてきた。見慣れない顔だ。というか、日の加減で顔が良く見えない。それに着ぐるみを付けていない。着ぐるみを付けていないだけでも怪しい。

 そんな時、娘が言った。

「あっ、教科書に載っていたアインシュタインさんに似ている。髪、ボサボサ! セイジ・オザワさんかも。サインもらっちゃおうかなあ」

 そう言って、小さな着ぐるみを付けた娘は男の方に駆けて行った。それを見た父親は慌てた。

「ま、待て、そっちに行くな、戻って来るんだ!」

 それを見た母親はクスッと笑い、呟いた。

「やっぱり私たちの世代はダメね。この子が大人になって次の世代を教えるようになるまで、まだしばらく待たなくっちゃね」

 その男は娘に、

「いや、俺は実はベートーベンなんだよ」

 と髪を振り乱しながら言い、笑っていた。それを聞いた娘はキャッキャッとはしゃいで楽しそうだった。そしてふざけて言った。

「それとも、セイジ・オザワさんかな」

「ああ、実はおじさん、ファゴットの奏者なんだ。オザワさんの指揮で演奏した事もあるよ。ファゴット協奏曲なんかをね」

「おじさん、そん時の話し聞かせて! 私もクラリネット習ってるの、ファゴットだったらお友達だね」

 薄いあかね色の夕焼けを背景に二人の会話はいつまでも続いていた。

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