影を歩く

にしのこころ

第1話

影を歩く


 アスファルトが四方に広がりを見せている。

 小さい頃から、影を歩けと言われ続けた。私は日向を歩きたいと思っていたのだけれど、それは絶対にダメだとお母さんに言われた。言われ続けて、私は私を受け入れ続けた。こういうものなのだろうと自分を説得し続けた。いつだって影の外を歩けたのだけれど、私は影を歩き続けた。私は地面ばかりを見つめてきた。地面というか、首を少し傾けると視線は必ず私の足元付近を捉えた。

 ふと気が付くと私の足元にカラスの死体が横たわっていて、私はその死体を飛び越えた。その死体を飛び越えて、振り返り、私は改めてカラスの死体に触れた。その粘着質で生温い温度、感触は私にしか味わえないものだった。老婆がこちらを見つめている。

 私はカラスの瞳を見つめる。瞳の中には森が映り込んでいた。鬱蒼としている、誰もいない森。ココはカラスの故郷なのだろうか。森は私を誘っているように感じられた。カラスの羽の隙間から見たこともない虫達が這い出てきて、その虫達は酷く喜んでいるように感じられた。身を捩り、あらゆる方向に触手を伸ばしている。命の誕生だった。それは紛れもなく、疑いようもなく、命の誕生だった。私は祝福をしなければならないと思い、私は虫を一匹ずつ抱きしめる。虫は歓喜に震えながら、体液を垂れ流し、私の掌の中で色とりどりの体液を流し続けた。私の掌に刻まれた複雑な皺の中にその体液が沿うように流れる。

「ありがとう。ありがとう」

 私は何故か、無性に虫に感謝を告げたくなった。生まれてきた奇跡を。

 汚らしい老婆が私を見つめている。だからというわけではないが、私はカラスの死体から手を離す。

 私は大きな看板を見上げた。その看板はピンクと紫と赤色をしていて、全ての色が他の色を食いつぶそうと躍起になっているようだった。看板には短い文章が書かれていた。

「とっても美味しいシチュー! このシチューを作るのはとっても簡単! いくつかの野菜と、調味料と、化学物質と、熱と、何よりも死んだばかりの豚の肉だけ! 特に重要なのは熱です。熱が全てを揺らがせ、動かし、溶かして混ぜ合わせる。熱とは、他の物体へエネルギーが移るという現象です。即ち熱が存在しうるためには冷たさが必要であり、死が必要なのです。冷たい死が、熱を熱足らしめるのです。分かりやすく言うのであれば、貴方は貴方以外に触れなければ熱を感じることが出来ないのです。自身が熱を持っていることに気が付けず、自分以上の熱があることに気が付けないのです。加熱とは、エネルギーを他の物質に与える行為であり、蘇生にも近い。死者に触れて熱を感じれば、貴方はそこに命を感じるはず。それが例えレンジでチンしただけだとしても、レトルトであろうとも。命の感触とは実にたやすく安っぽい。でもでもとっても美味しいシチュー! ぐつぐつ! 美味しそう! 今日も貴方はシチューを食べる! 熱を与えられたあらゆる生物と無生物の化合物はとても美味しい! 簡単にシチューを作れるルウには小麦粉、植物油脂、砂糖、でんぷん、食塩、デキストリン、全粉乳、脱脂粉乳、乳等加工品玉ねぎ加工品オニオンパウダーチーズパウダー酵母エキスチキンブイヨンパウダー野菜エキスポークエキス醤油加工品香辛料調味脂皮脂バターミルクパウダー/調味料(アミノ酸等)香料乳化剤酸味料酸化防止剤(ビタミンEビタミンC)(一部に乳成分コムギ大豆鶏肉豚肉を含む)がいっぱい入っているよ! ねえ、今日の晩御飯は何だと思う。シチューだと良いね。とっても美味しいよ……」


 この前、健司が家に来た。

 健司は嬉しそうだった。

 中学生の頃の話をした。

 きいちゃんの話だった。

 きいちゃんの目は一つしかなかった。

 きいちゃんは臭かった。

 きいちゃんは差別の対象だった。

 エタヒニンの末裔なんだとか。

 健司は嬉しそうだった。

 健司は最近骨折した。

 それでも楽しいのはきいちゃんのおかげだった。

 きいちゃんの悪口は楽しかった。

 どんなに悪口を言っても許された。

 私たちは正義だった。

 きいちゃんは悪だった。

 きいちゃんは女の子だった。

 右目が潰れていたけれど、美しかった。

 気ちがいの母親に潰されたらしい。

 きいちゃんの母親は妾だった。

 きいちゃんは可愛かったけれど、大事にされなかった。

 きいちゃんは悪口に事欠かなかった。

 健司はずっと悪口を言い続ける。

 影を歩かなくちゃ。

 健司は私を見て真顔で言った。

 人を馬鹿にするのは楽しい。

 人を貶すのは楽しい。

 人を見下すのは楽しい。

 なあそうだろう?

 自分よりも劣っている存在がする行為は何でも愉快だ。

 お前だって楽しそうにしていたじゃないか。

 今更逃げるな。

 今更否定するな。

 お前は残酷だ。




















※後ろを見ろ。
















 

 そういえば、去年の暮れにお母さんは亡くなった。肺癌だった。

 気が付けば私は森にいた。鬱蒼とした森には、何も存在していなかった。森には光りが差し込まず、あらゆる可能性が閉鎖していた。私が感じることが出来るのは私の中に元々存在している感覚だけで、ここが森であるということは何らの意味もなかった。

 お母さんが亡くなった時、私は海にいた。私の彼女の背中に日焼け止めを塗っている時、ふとビールが飲みたくなった。けれど日焼け止めでべたべたの手ではビールの爽快感が半減されてしまうように思われて、私に日焼け止めを塗らせた彼女に対して苛々していたのを覚えている。その苛立たしさはお母さんの訃報を聞いても収まることはなかった。

 この前健司と会った時、きいちゃんは最近子供を妊娠したようだった。健司は人差し指を失っていた。妊娠を聞いた時は、なに幸せになってるんだ、このあばずれは、と思った。幸せになってはいけないだろう。きいちゃんは絶対に幸せになってはいけなかった。ずっと私達が嘲る対象であってほしかった。私は酷く落胆したのをよく覚えている。けれど健司はにやにやと笑いながら言った。違うんだ。あいつ、もう六人目なんだ。頭のおかしい資産家の愛人にされているんだ。きいちゃんは実験台にされているんだ。一体女性は何人の子供を生涯で産めるのかっていう愉快な実験に付き合わされているんだ。きいちゃんが出産したらすぐに受精卵を子宮にぶち込まれるんだ。その受精卵はその資産家の精子も、きいちゃんの卵子も含まれていない。どっかそこら辺の、見知らぬ奴ら同士の受精卵なんだ。それでな、それでな。その生まれた子供たちは、見かけ上は普通に暮らしているように見えるが、どうやら資産家の監視下に常にいるそうなんだ。そして資産家は、その子供たち同士をごく自然な形で出会わせて、恋に落として、その子供たち同士で子供を作らせようとしているようなんだ。別に近親相姦じゃない。だって、子供たちの遺伝子は全く他人のそれなんだから。ただ全員がきいちゃんの子宮を経由しているだけ。凄いよな。凄いと思う。こんなことが出来てしまうって、本当に人間は凄いと思ったよ。これは悪じゃない。業だよ。あらゆる可能性を試そうと考えてしまう人間の業。人間は思考し、可能性を見出し、好奇心を持ち、試行する。それが堪らなく愉快なんだ。それを愉快と感じる人間っていう存在は、本当に凄いと思うよ。

 私はその話を聞いて、僕ももしかしたらきいちゃんの子供なんじゃないかと、そんなことをぼんやりと考えた。

 森の中は酷く寂しかった。光を避けなくて済むから、私は常に影の中にいることが出来た。それはとても楽で、安心できて、とても寂しかった。やがて無数のカラスの死骸が森の上空から降り注ぎ、地面に衝突する。木の実が割れるような音が断続的に森の中に響く。森の木々には寄生した蔦が垂れ下がっていて、その先端が輪になっていた。露骨すぎる蔦。僕は蔦の先端を見ないようにする。惹きつけられてしまうから。

 随分と長いこと、この森にいる。私の足に木の根が生えてしまいそうになるほど、私はこの森と同化している。朝と夜が絶え間なく繰り返されている。その速度は徐々に上がっていき、月と太陽の軌道が延々と半円を描いていく。

 降り注ぐカラスは堆積されていき、やがて漆黒の大地となった。

 突然絶叫が森の中に響き渡った。私は心底驚いて、心臓に水を浴びせられたような心地になった。その絶叫は何処から聞こえるのかよく分からなかった。私はある一つの大樹に手を掛ける。大樹の幹はぬるぬるとしていて赤黒かった。オオサンショウウオの肌を思わせるその幹はよく見ると動いているように見えた。油が海面を動くように、奇妙な七色の光を放ち……。

 

話は変わるけれど、私はきいちゃんのことが好きだった。恥ずかしながら、きいちゃんの顔が堪らなく愛おしかった。周りの同級生は彼女のことを馬鹿にしていたけれど、私は輪の中に加わるだけできいちゃんに対して悪口を言わなかった。そうして私が黙りこくっていれば、それに気が付いたきいちゃんが私に好意を持つと信じていたから。そんな浅はかな計略は失敗に終わり、私はしがない中年になった。やれやれ、若い頃の思考を追体験するというのは凄く恥ずかしい。黒歴史、という奴なのだろうか。

「ぱぱー、何笑っているの?」

 明日香が僕の足に縋りつきながら上目遣いで尋ねてきた。

「何、昔のことを考えていたんだよ」

「昔ってなにー?」

「何だろうな」

 私は明日香を抱え上げると、台所の奥から美和子が顔を出した。

「どうせ、昔の女のことでも考えてたんでしょ」

 美和子は意地悪く笑う。

「そんなことないよ」

 僕はごまかす様に苦笑いをする。

「君が大好きだよ」

 美和子がふわりと笑う。随分ありきたりな光景がそこにはあった。ここに辿り着くまでに色々な人を傷つけて、助けられて、笑いあって歩んできた。その場面、場面では劇的に思えたシーンも、振り返ってみれば何の変哲もない日常だった。個人の歴史なんてそんなものだろう。けれど、それを誰が否定できるだろうか。私の人生はかけがえのないものだ。命は何よりも尊い。小さな幸せこそ、何よりも大切にしなくてはいけない。

私は青色のカーテンを開ける。私の腕に抱かれた小さな天使の笑顔が、初夏の光に照らされた。

私は生きていく。これまでも、そしてこれからも。


















 え?

 え?

 苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦し

ぶら、ぶら、ぶら。

 ゆっくりと私の体は揺れる。


 ぎい、ぎい、ぎい。


 太い木の枝が軋む音。


 ぶら、ぶら、ぶら。


 私の体は振り子のように規則的に揺れる?

 そうして?全てを放棄した私の体は?不規則な世界から解放され?ある一つの規則だけを与えられた世界に至った?私はお母さんとブランコに乗ったあの日の光景を思い出した?あの頃の安寧が?今ようやく訪れた気がした?お母さんは?私に影を歩くように言った?そうだ?私はあれからちゃんと言いつけを守って?影だけを歩き続けた?褒めて?

ぶら……ぶら……













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