#15:未→発達×コンディヴィデレイレット×訴求

「……何か、『拘束』に至るまでにタイムラグがあったような」


 ようやく止まった両穴からの出血、身体を温めてしまって良いのかは分からなかったが、それでも温泉というものに興味があった僕は村居さんと連れ立つと、ひとけの無い「露天」のごつごつした石造りの湯舟に浸かっていたわけで。柵や柱から漂う木の香りがようやく通ってきた鼻腔を優しくくすぐる。


 辺りはもう闇だ。黒いシルエットにしか見えない樹々のざわめきと、遠くで流れているのか水音が聴こえるばかりの静謐。再奔流を用心して臍ぐらいまでしか身を沈めてはいないものの、じわりとした熱が爪先から上ってくるのが分かる。やや肌寒い風がむき出しの上半身を撫でるように吹き付けてくるが、それもまた心地よい。


 しかし。


「誤差はコンマ何秒のレベルらしいけどね。ラグがあったとしたら、それはキミの先ほどの『試行』が功を奏した……とまでは行かないにしろ、何らかの影響は及ぼせたってことなんじゃないかな。傾向としては良好と」


 村居さんは肩まで浸かって後頭部を後ろの岩に預けてリラックスしたスタイルだが、左肩の傷口はもう大丈夫なのだろうか。いや、今はもう気にするな。それよりも、


「手ごたえは……確かに感じました。そして『六面』から抑え込んでしまえば、『単感情』を発現させないまま自分の芯の奥の方へ封じ込めておけるような……そんな気がします。あくまで自分の憶測ですが」


 キミの憶測は確度が高いからなぁ、との言葉と共に大きく伸びをする姿を見つつ、それでもやはり問題は残っているわけで。


「左右は両脇、前後は鳩尾と背中……肩甲骨の少し下辺り、でおそらく問題ないはずですが、残る上下……頭頂と……ええと鼠径部。これらの最適位置を同時に探らなければいけないことになるのが、どうとも」


 はからずも先ほどの三ツ輪さんの指摘通り、「面」をあてがう箇所が微妙に過ぎる。口ごもる僕を見かねてか、はっは、という殊更に軽い感じの笑いで流されると、


「それでもキミはやるんだろう? 三ツ輪クンにはさんざん『感情無し』だなんだ言われているが、ボクはそうは思わない。誰よりも、心を痛めている、違うかい?」


 どうなんだろう。言われるほど「感情」が無いわけではないと思いたいが、さりとてその表現がうまく出来ているかは自信が無い。ただ。


 ただ思ったのは、僕に出来ることがあるのなら、それを為したい、と。


 ……そう思っただけだ。


「準備は何でもするよ。主導はキミで頼む。『強大な戦力』、それも結構なことだけど、それだけじゃあないってね。彼女が『感情』の束縛奔流から解放されたのなら……ボクもそう願いたいところさ」


 ありがたい援護を受けた感じだ。あとはどれだけ姫宮さんに負荷をかけないように行うかを、熟慮する必要がある。その、メンタル面においても。さらには不本意だけど三ツ輪さんにも協力を仰ぐほかは無い。


「作戦決行は明日とします。それまでに用意してもらいたい物の中で、いちばん重要なのは『ドォス』六面……と思っていたんですが、そのままじゃあ駄目ですね。鋭利な角があると姫宮さんの身体を傷つけてしまうから。『円』あるいは『楕円』……そんなのってあったりしますか?」


 頭の中で次々と組み上がっていく思考、しかし僕の問いに村居さんは無言で首を振ってみせるばかりであって。無いか。無いよな普通。であれば。


 僕の「匣」を削って作るしかない。


 急速に自分の中で湧いてきたこの「感情」は何だろう、と思いつつも、疲れ切った体を少しでも癒そうと、結構な薬効があると書かれている湯へ身体のほとんどを沈めていく。


 明けて翌朝。


「ほんとにやるんだねぇ……少年無理してない?」


 葉や草の匂いを孕んだ風が、室内を満たす。爽やかな朝と言えそうだが、僕は今朝がた少し仮眠を取っただけであってあまり爽やかとは言えない。脂の浮いた顔面に、熱が内にこもったままの身体。先ほど身を清める意味も込めて朝風呂とやらに参ったが、その後あの例の黒い全身スーツを着込んだため、あまり気分の切り替えとはならなかった。が、そんなことを気にしている場合ではない。


「……三ツ輪さんの協力も必須だから、今回は本当に頼む」


 呆れ半分、みたいな声が投げかけられた方に向けて僕は声を放つ。既に両目にはしっかりと目隠しの黒い布が巻き付けられていて、直接は見えないようになっている。姫宮さんを配慮してのこととは言え、なかなかにこの時点でハードルは上がった。いや、臆するな。


「……」


 呼吸を深く、臍の下まで落とし込むようにする。徐々に暗闇に浮かび上がってくる人影。というか「感情」のオーラが、身体の輪郭をうっすらと浮かび上がらせている「気配」。それを僕は、うまく説明できないが眼では無く別の感覚器官で視る、というようなことが出来るわけで。


 セッティングの際に確認した諸々の配置の記憶と組み合わせ、現況を脳内に描き出していく。


 村居さんと僕にあてがわれた和室は八畳。座卓は隅に押し込み、中央に布団を一組。そこに姫宮さんがこちらに足を向けて仰向けに横たわっている状態。その両腕は頭上に掲げ上げられ、枕元に正座した三ツ輪さんの腰を回って背中側で手首をしっかりと革紐で拘束させてもらっている。万が一、激しい「感情」が出てきてしまった場合の措置だ。その際は三ツ輪さんにより例の銀玉……「流球ロジスコ」を使って身体も固めてもらうという算段だ。


 村居さんは隣室にスタンバイ。「感情」の現出と移行に関して、僕らに音声で情報を飛ばしてくれる手筈。


 いける……はず。いや僕がそんな定まらないメンタルでどうする? 気合いを入れろ。姫宮さんを……助けたいんだろ?


 右手に握っていた「六枚」の「面」をもう一度指先で触って確かめる。楕円というよりは角の丸まった四角形。それでもその角は勿論、四辺に至るまで全て滑らかに仕上げてあり、鋭利なところはどこにもないはずだ。結構な硬さの合金だったから、ここまでやすりを掛けて仕上げるのに大分時間を要してしまった。頼むから……姫宮さんを護ってくれよ。


<そろそろ『移行』が起きる時間帯だ。推測あと六十秒>


 左耳に装着したワイヤレスのイヤホンから村居さんの音声が聞こえてくる。よし。


「……姫宮さん、これから君の身体の『六ケ所』に、この『ドォス』を設置する施術を、行う。百パーセント成功するとは言えないけれど、僕らを信じて委ねて欲しい。きっと君を、『感情』の奔流から引き揚げてみせるから」


 少年硬いなあ……硬くするのは一か所だけでいいんだよぉ? といういつもながらの心無い煽りが入るものの、それで少し強張っていた背筋辺りが少し緩まった。だが。


「うん……だいじょうぶ、だよ? あたし、藤野くんにだったら……」

「……」

「少年? 完全に押され気味だけど大丈夫?」


 呼吸を深く、だ。「今」の姫宮さんは直球も直球の【愛情のラヴィングofコーラル】、であるからして、このような、こちらの鼓膜を、甘く、震わせてくるような、声を発してくる、だけだからであって。それにいま現在、シーツ一枚だけを掛けられた状態の姫宮さんが、ゆるゆるサイズの紙製の下着上下しか身に着けていないということも気にしてはいけない。


「……手は二重にラテックスで覆ってある。感触とかは伝わらないから安心して欲しい。そもそもそんな触れるわけでもないし。だから力を抜いて楽にしていて欲しい」


 うんわかった……との鼻から出しているような声が響く中、ままならない脳にいま一度喝を入れつつ、僕は正座姿勢のまま、その足元ににじり寄っていく。


<揺らいだ。変わるぞ、藤野クン>


 村居さんの言う通り、今まで「桃色」に彩られていた姫宮さんの輪郭の「色」が唐突に変化した。緑。いいんじゃあないか? 【緑の幸福ハピィ】、総じて穏やかな様態であるはず。


「感情の安定を確認。始めます」


 勝負は今から「千カウント」。余裕を持って「十五分」、その間に「六面」全てを最適位置に設置する。次に攻撃的な「感情」が来ないとは限らないから。


<オーケー、彼女の今は【悦楽のグラッドofベルディグリ】。おそらく最適な状態コンディションと思われる……キメろよ、藤野クン?>


 ……いや、どうなんだろう。村居さんまで何か乗っている気配を感じるが。いや、気合いの顕れと、そう把握しろ。いくぞ。


「姫宮さん、まずは胸から……行くよ?」

「うん……でも、やさしく……してね?」


 うぅぅん……という三ツ輪さんの腐った溜息のようなものを聞きつつ、これ最適状態か? とか揺さぶられつつも。


 上体を起こされたその鳩尾辺りに、振動を感じる前から既に自らにより震えている「面」をゆっくりと近づけていく。

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