#08:無→条件×マイリェリア×端緒


 静かな絵面。白い直方体の吹き抜け空間は、無機質に内包する空気をも希薄にしていくようで。まるでそこで何事も起こっていなかったかのように。だがその静寂は、覆いようのないほどの禍々しさの上に薄皮一枚ふわと被せられているだけだということは、その場にいた僕らには先ほどからのキナ臭さが臭細胞を突き抜けそうになるほどに、充分過ぎるほど感じられていたわけで。


 その中心にいるのは、これまたのんびりとした所作にて自分の革靴の先についた埃か何かを摘まみ上げようとでもしているのか、結構な長身を折り曲げた姿勢でまるでこちらを意識していない素振りの壮年。表情筋を奇妙にひん曲げたかのような、嫌悪感を抱かせてくる表情未満の表情をその傲岸そうな顔面に貼りつかせている。


 こいつが……そうなのか。


「……おいおい~、しっかりとこちらを見てくれよぉ~、君らが僕らの敵ちゃんなんだろぉ~?」


 落ち着いたバリトンだが、その一語一語、一音一音がねとりとこちらの神経に粘りのある水滴のように付着しつつ絡みついてくるようで。にやにや笑いがここまで堂に入るヒトも稀だろうが、そもそも本当に人間なのかは五メートルくらいの距離で対峙していても分からなかった。ただ、


 バリトンがのたまう通り、「敵」であることは確かなのだろう。そこまでの認識が出来ている、さらにそれをあからさまに僕らにぶつけてくるということは。


「……」


 「人に取り憑き案件」、ということなのだろう。そしていま現在、目の前の壮年はうまく「感情」を自分の内に封じ隠し込められているようには見えるが……先ほどの「黒×灰」の毛玉のような形態になっていたこともある。結構な高さのブース内から強化ガラスを突き破って落下、着地してきたこともある。そして……その直前、ガラス一面に赤黒い液体をぶちまけてきたこともある。


 落ち着け。今は目の前に対応する。どう動けば、は、自分で判断しろ。


と、


「あっらぁ~ん? 随分とシブめのオジさんがおいでになられたけどぉ~ん? 何の御用があったもんなのかしらぁ~?」


 僕の右斜め前で、正面を向いたまま気の抜けた言葉を放ったのは誰と言うまでもないが、その相変わらずだらりと下げられた両の腕の先は例の「巾着」に差し込まれたままで。その袋状の内部で金属同士がぎちぎちと擦り合わせられるというよりは、握りしめ軋まされている音を立てているわけで。


 はっきりの、警戒姿勢。さらにはイラつきプラス怒りを指先に力を集中することによって抑えていると思われる……多分。


「こいつはこいつはぁ~、随分とガバめのお嬢さんがいらっしゃられてるわけでぇ~。見させてもらってたよぉ、君のそのパチンコ玉ぁ」


 ふいにこちらに向けられてきたオールバックの下には、不自然に日に灼けた血色のいい脂ぎる顔面。今度ははっきり読めない「感情」とそれとちぐはぐな表情が混ざり合ってひと目、尋常じゃあない。でも安い煽りだよ三ツ輪さん、と一応心の中で釘を刺してはおくけどまあ何の足しにもならないとも思うけど。果たして。


「えぁ? んならこいつで貴方の額に『犬』のドット文字でも刻んであげようかしらぁはははははははぁッ!?」


 いやぁ、こっちの方が読みにくいというか、その背後から見てても分かるほどの顔面の引きつれ具合よりもぐわぐわ揺れる言葉遣いよりもけたたましい笑い声よりも、激しい挙動震動を見せるメンタルの方が尋常では無いように思えてきた。まさに、


 一触即発。ふたりの間を流れる、表面上はぬるぬるとした油膜のような空気感は、何かしらの微小な火花が落ちたとしても途端に渦巻く業火へと様変わりしそうな様相を呈していて。


 僕が、僕は、どう動けばいい? 考えろ。両手に保持した「匣」、左は四体充填、右はカラ。割と選択肢はある状態。が、さっき放った「リリース」は効いたのか効いてないのか判別が難しい。足止めくらいはなった、そう考えればいい? まずい、思考が定まらない……ッ!!


「『パチンコ玉』をおぉぁぁぁぁぁあ……ッ!! とくと見さらし喰らうがいいわぁぁぁあああッ!!」


 そんな踏み込めない僕の前で、三ツ輪さんの黒スーツに包まれた背中が何というか不穏な感じに前屈みになっていく。床のさらに下辺りから響いてくるように思えてきたその普段からは想像もつかない野太い声も、そして両太腿脇の「巾着」から漏れ出る金属音も大分重々しくなってきたかのように感じるけど……ッ!!


「よいよぉ、今日は君ら、って括っていいのか分からないけどねぇ、我らが敵ちゃんを探って来いってのが『上』からの命令でねぇ。『能力者』とか、そういうカテゴリで括った方が分かりやすいかもだねぇ、以前、我々のもとにのこのこやって来た『二人』と同じ、ってことなわけだが」


 壮年は目の前の少女から放たれる瘴気のような「感情」をうまくいなしているかのようだ。どこ吹く風、という表現がまたいやにしっくり来る感じ……いや、そんなことを考えている場合でも無い。


「……撃ってきなさいなぁ、お嬢ちゃん?」


 顔の左側の筋肉だけを歪めて言った、その言葉が引き金となった。


「!!」


 三ツ輪さんの素立ちの姿勢……「射撃体勢」から、例のベアリングが空気を鋭く噛むような音を立てながら、身体正面の百八十度を満遍なく網羅するようにまずは放たれる。まばたきの間くらいに。しかし、


「……!!」


 既に壮年の体の周りに紐状の……いや「太めの毛糸」っていったらいいか? 黒と灰色のものが何十本か縒り合わさるように現出してきていて。いや、僕の目にはそう映っていて。それらが縦横規則正しく「編まれて」いったかと思った時には、長いマフラーのようになったそれにより軌道を逸らされた三ツ輪さんのベアリング弾、目測三十発くらいが壮年の体を自ら避けていくかのように外れていく。周囲の白壁に打ち付けられるパシパシという音が空しく響くが。


 何だあれは。


「『感情』は……突き詰めれば『力』なのさぁ……君らも見てきているはずだ、『実体をもった感情の塊』をぉぉぉ……『奴ら』に『感情』はあるか? クク、感情感情ってワケが分からないかい? 『感情』かどうかはともかく、『力』は確かにあるよなぁ……そして『感情』に自らの身体を委ねた時!! ……人間の身体は常識とか想像だかを超えて動くのさ……それを先天的にか、偶然勘の良さなのかは分からないが、出来る人間、それらが『我ら』というわけだ」


 壮年のねちっこい言葉の、どこまでを信用していいかは判断つかなかったが、ともかく三ツ輪さんの「攻撃」が弾かれてしまった。そのことだけを認識しろ。そして奴の言う通りあの長身周りに揺蕩っている「毛糸」があの「感情体エモズィオ」と同種のものであるのならば。


「……ッ!!」


 僕の「匣」で封じ込められるはずだ。距離を詰めて死角から「六面」を形成させ、奴を無力化させる……ッ!!


 が、


「少年ストップ」


 意を決して踏み出した右の一歩目でもう制されてしまう。三ツ輪さんは背面が鮮明に見えたりするのかな?


「私をナメてもらっちゃあ困るのよねぇぇぇ……少年もおっさんも。一応私も『相当者』なんだなぁ。で、『流球ロジスコ』はさぁぁぁ……相手に撃ち込むだけじゃあないんだなぁこれが」


 ふん、と勢いよく放った鼻息と共に、壮年の身体周りの中空を揺らめいていた「黒×灰」マフラーが刹那、ずたずたに裂かれていく。先ほど放ったベアリング……「流球」が弾かれ通っていった軌道そのままのところを。そうか。


「この球にはひとつひとつ微小な『穴』が穿たれてんだよねぇ……そしてそこから接触した『感情体』を吸い込めるっつう寸法よぉ。ま、容積小さいから、封じることが出来るのはごく少量、一個に対し、生中ジョッキ一杯分くらいだけどね。それでも数撃ちゃ終わる」


 にやりと音がしそうなほどに笑みを弾けさせる整った横顔から、緑と橙の「感情」が帯状に立ち昇っていくけれど。なるほどそうやってさっきの「疑似体」も吸い込んでいたのか。てっきり散らしブチ撒いてるのかと思った。そしてなぜジョッキで説明したのかは謎だが。


「『流星群』、見せてやるわ」


 そう言い放った三ツ輪さんの華奢なシルエットは既に動いていて。左に装着していた「巾着」を解いて高々と上空に片手で投げ放ち終えていて。さらに右手から打ち出される「流球」によって壮年の頭上三メートルくらいに達した巾着は鋭い回転を続け。


「……!!」


 僕らの上空から、これでもかの正にの雨あられを降らせてきたわけで。うぅん……これは僕も速やかな退避行動を余儀なくされる奴だな……とか思う間もなく。


 銀色の雨が打ち付けてきた。

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