拾ノ妙 止止不須説

 棗は全てを忘れると決意して、文書もんじょと呪符だらけの奇妙な部屋から出ようとした。

 もう二度とここに来ることはないだろうと、心に誓ってもいた。

 だが、部屋を出ようとしたそのとき、偶然にも鏡に映る自分の姿を目に留めてしまった。

 そして、その瞬間、葛乃葉とのやり取りが夢ではなかったことを思い知らされたのだった。


 棗の首には、棗の胴と頭とを留めておくために、葛乃葉が使った白銀しろがねの帯留めが巻かれていたのだ。

 棗は、愕然がくぜんとしながらも、帯留めに手を伸ばす。

 帯留めは、棗の首になかば食い込んでいて、外そうにも外すことが出来ない。


 ――外れたら、逆にヤバくない?


 そう思いながら、棗は首の状態をよく見ようと鏡に近づく。

 すると、さらに異様なモノが目に止まり釘付けになる。


 鏡に映った自分の右手の甲に赤黒いあざ

 気付かないうちに手を何かに打ち付けたのかと怪訝けげんに思って見ていたが、そのあざの紋様の意味するものが分かったとき、背筋に冷たいものが走った。

 その爬虫類じみたシルエット。


 それは、見紛みまごうことなくヤモリのそれだった。

 同時にそれは、このまま無事には帰れないことを暗示していた。


「……」


 棗は、蒼白の顔を何とか取りつくろい、出来る限りよそおい言う。


「手伝えることないかなぁ~」


「ないと思う」


 穏やかな口調ながら即答する巫音。


 と同時に、棗は右手の皮膚の下で何かがうごめいたのを感じ、慌てて手の甲に目を向ける。

 見ると、ヤモリのあざの位置が少し動いている。

 それはまるで、腕を這い上るかのように、首の帯留めを探しているかのように。

 棗は、全身から重く冷たい汗が噴き出すのを感じた。


 ――このまま帰れば、たぶん命はないな。


 棗は、生死のきわに立っていることを隠しつつ、あくまでも軽い口調で言葉を繋ぐ。


「なーんか、呪力があるみたいだし、案外強かったりして」


 棗は、自分の呪力が役に立つかもしれないという意味合いのことを――呪力については半信半疑だが、――冗談めかして言ったつもりだったが、巫音には脅迫めいて聞こえたのか、警戒心を強め、すばやく棗との間合いを取る。


 シュッ。


 と同時に、棗の頬を折り鶴がかすめる。


 何処から取り出したのか赤い折り鶴が両手の指に挟まれ、いつでもはなてるといった構え。

 巫音は自然体で立っているものの、全く隙を感じさせない物腰で、棗の些細ささいな動きにも注意深く目を配る。

 警戒しながらも、困ったような目線を向け、あきれたように言う。


「これ以上、かかわらない方がいいよ」


 シャ、シャ、シャッ。


 ヤモリのあざが腕を素早く這い上がり、肘の辺りまで居場所?を変える。

 あざうごめおぞましい感覚が皮膚の下に走るたび、棗のひたいから大粒の汗が流れ落ちる。


「ここで無かったことにはできないよ」


 ――そんでもって、無かったことになったら、オレの命もたぶん無くなるんだけど……。


 棗は、顔には出していないものの、心中では余裕を失い、すがる様な気持ちで懇願していた。


「もう一度言うよ。全部忘れて、ここに来ないで」


 シャ、シャッ。


 肘から肩にかけて皮下からあざうごめく異様なうずき。

 右腕からの無言の圧力が高まっていく。


「それは、出来ない」


「どうして?」


「実は……」


 この際、葛乃葉との一件を正直に打ち明けようと、棗が話し始めたそのとき、棗の首元からチクリと針を刺すような鋭い痛み。

 棗の頭の中に、帯留めを嚙み切ろうと、おぞましく口をけたヤモリの姿が、まるで現実のことのように入り込んできた。


 棗は、話しかけた言葉をすんでのところで止め、言い直す。


「い、いや、理由を話すことはできないけど、織紙さんの手助けがしたい」


 棗は、自分で言っておいて何だが、「理由を話さずに手助けしたい」とは、奇妙を通り過ぎて奇怪ですらあり、むしろ気味悪いぞと思い、少し後悔する。

「君が好きだ。手助けがしたい」とでも言っておいた方が、まだ、すっきりする。

 いや、ストーカー判定、決定か?

 最早もはや、棗にとって、進んでも地獄、戻っても地獄の成すすべ無しの状況。


「どうしても?」


 巫音の言葉に、棗がうなづく。


「……」


 顔を横にそむけ、少しふくれたような顔をする巫音。

 棗に向き直り軽くため息をくと、両手を振り切り、折り鶴を飛ばす。


 シュ、シュッ。


 その勢いのまま一回転すると、続けざまに次々と折り鶴を放つ。

 四羽の折り鶴が、棗の両手、両足に突き刺さった。


みなん みなん しゅせつ


 巫音は止縛しばくじゅを唱えながら、右手の二本指をジャンケンでいうチョキにし、指を揃えたような形の印――刀印を結び、何かをあやつるように手をクルクルと回しながら上げていく。


 すると、棗は起立の号令が掛かったかのように直立姿勢になり、あたかも見えない縄に縛り付けられたように体が締め付けられ、身動きが取れなくなる。


「ぐぐぐぅ……」


「本当は、こんなことしたくはないのだけど……」


 巫音はゆっくりと棗に近づくと、『妙』の字を刻むように、刀印で棗の胸辺りをなぞりながら、素早くじゅを唱えた。


朱雀すざく げん びゃっ 勾陣こうじん 南斗なんと 北斗ほくと 三台さんだい 玉女ぎょくじょ せいりゅう


『妙』の一画目(一)を書きながら「朱雀すざく」、二画目は「げん」、三画目は「びゃっ」といった手法で唱え続け、八画目を書きながら「玉女ぎょくじょ」と唱える。

 そして、巫音はゆっくりと棗に近づき、そっと棗の首に両手をまわす。

 棗の頭の後ろで印を結び、最後に「せいりゅう」と唱える。


 大自然の中に吹くそよ風のような香りと、巫音のぬくもりが伝わってくる。


 ――したくないことは、しなくていいですよー。


 棗は、複雑な心持ちながら、まんざらでもないのだが、同時にふと思う。


 ――いやーな予感……。


 この流れで、これまでいいことがあったためしがない。

 そして、その予感は当然のように的中する。


 ふたたび、巫音が何らかのじゅを唱え始める。


「オンマカヤシヤ バザラサトバジャ クウンバンクシャ ハラベイシャナウン……」


 同時に、辺りの空気が重たく棗の肩にかり、力いっぱい足を踏ん張っていないと立っていることもままならなくなる。

 心臓が狂ったように波打ち、いくら吸っても酸素が足りず、意識が遠ざかっていく。

 ヤモリのあざが逃げ惑うように全身を駆け巡り、背筋に悪寒が走る。

 棗と巫音の間に、まるで電気でも流れているかのように微細な稲光が妖気をはらみながら行き交う。


 棗は、躰から魂を吸い取られるかのような衝撃を感じつつも、何とかこの状態に耐え続けた。

 呪力を吸収する術ということなのだろうか、耐えること数十分、ふいに呪文が止み、巫音がふらつきながらうずくまる。


「ど、どうして?」


 巫音は肩で息をし、這いつくばりながらも、血走った眼を棗に向ける。

 如何どうやら巫音にとって最終手段の秘策ともいえる呪術が、棗には効かなかったようで、信じられないといった形相で唯々唖然あぜんとするしかない様子。

 実際には、術自体は効いていたのだが、棗の呪力を完全には吸収しきれなかったのだ。


「ど、ど、どう、いう、こ、こと……?」


 棗は棗で、なんとか術からは解放されたが、巫音と同じようにうずくまりながら、息絶え絶えといった面持ちながらなんとか呼吸を整え、意味も分からず、唯々ただただオウム返しに言う。


 巫音は、全力を使い果たしたと言わんばかりに、依然として四つん這いのまま、肩を上下させながら愕然がくぜんとしたようにうつむく。


「……」

「……」


 巫音は、しばらくの間、途方に暮れたようにしていたが、成すすべがないことを自覚すると、この際、棗のことは後回しにして、自分のすべきことをしようと心に決めたようだった。


「美術室に行かなきゃ」


 巫音が、突然、思い付いたように小さく呟く。

 美術室といえば、先日、転落事故が起きた少々いわくく付きの場所だ。


 その言葉は、棗に向けてのものだったのかそうでないのか、まるで独り言のような響きだった。

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