玖ノ妙 夢か現か

 深い淵の底で生まれたあぶくの玉が水面に浮かび上がるかのように、棗の意識はふたたび表層へ呼び戻されようとしていた。

 意識が戻ろうとするなか、棗は躰を動かそうとこころみるが、やはり何かに動きを封じられたかのように身動きができない。


 ――最悪、半身麻痺かもな……。


 棗は、うつろな意識の中で他人事のように思考をめぐらす。

 棗の意識は、ついに、意識の表層にぷかっと浮かび上がった。


 そして、棗は目を覚ます。

 かすむ眼が徐々に視力を取り戻す。


 最初に映ったのは、大きくつぶらな二つの瞳。


 その瞳は、わずかな異変さえ見逃さないようにと近づき、針で刺すような眼力でキョロキョロと棗の躰中至るところをせわしくいまわっている。

 舐めるように近づく瞳に、吐息までもが伝わってくるようだ。


 ――ちっ、近っ!


 棗は、脈打つ心臓を何とか抑え、瞳から目をらし周囲を観察する。

 躰が動かせないため眼の動く範囲でしか辺りを見渡すことが出来ない。


 ――部屋?


 仰向あおむけに横たわる棗に見えるのは、和風木造建築の古びた天井と、種々しゅじゅの呪的文様のほどこされた呪符。

 それらの呪符は、天井から無数に吊り下げられており、異様な空気感をかもし出している。


 そして、視野の隅に、書庫のように立ち並ぶ書棚。

 書棚には、古文書のような書物や怪しげな道具が納められ、納めきれないものは周辺にうず高く積まれている。


 星の位置を示す巨大な天球儀や怪しげな壺の数々、本物なのだろうか刀や弓などの武具などもあり、部屋の中はある種、蔵の中のようである。


 棗は、今までの一連の出来事をながい悪夢を見ていたかのように感じていた。

 そして、その全てを夢だと思い込みたかった。

 だが、棗が額の方に目を向けると、そこに、おぼろげな赤い像が結ばれた。


 赤い折り鶴。


 棗の額には、赤い和紙で折られた折紙の鶴が自らのくちばしによって倒立してるのだった。

 ということは、折り鶴が額に刺さり気を失ったところを運ばれて、ここに連れてこられたのだろう。

 少なくとも折り鶴が額に刺さる前までの出来事は、夢ではないということになる。


 ――こいつが彩乃なのか?

 いや待てよ。

 葛乃葉が、彩乃と言ったのか?

 そもそも、葛乃葉が夢……?


 どこまでが現実なのか混乱を隠せない棗だった。

 とりあえず、彼女のことを彩乃(仮)とする。


 彩乃(仮)は棗の首筋を、ただでさえ大きな瞳をより大きく見開きながら、不思議なものを見つけた幼子おさなごのように口をあんぐりとしながら見つめている。


 彩乃(仮)が巫女装束でなく、護童学園高校のセーラー服を着ているところを見ると、かなりの時間眠っていたようだ。

 長い髪がさらさらと棗の頬をくすぐる。


 ――あっ、いい匂い。


 彩乃(仮)は、棗にまたがり両手で棗の両肘をつかみ、身動きできないようにしながら、棗の首筋にある、あるモノに見入っていたのだった。


 ――どうりで躰が動かせないわけだ。


 それにしてもなんて馬鹿力!

 棗はいくら意識が戻ったばかりとはいえ、女人にょにんである彩乃(仮)に、そうやすやすと押さえ付けられはしないはずと、身をよじってみるがやはり身動きができない。


 彩乃(仮)は、棗が目覚めたことに気付くと、真正面から顔を向かい合わせ、戸惑う棗の瞳の奥をのぞき込みながら一言ささやく。


「呪力ある?」


 棗は素直な疑問を口にする。


「呪力なんてのが、(この世に)ある?」


 彩乃(仮)は、少し困ったような顔をしながら言う。


「結界を破って、ここへ来たでしょ?」


 棗はえて、葛乃葉の言っていた彩乃という名前を使うことで、かまをかけてみることにした。


 同級生なのだが、初対面とも取れる状況に、「さん」付けで話しかける棗。


「オレは彩乃さんを真似て……」


 棗が言いかけると、突然、彩乃(仮)が、物凄い形相で驚愕する。


「彩乃!?」


 言葉を遮るように彩乃(仮)が語気を強める。

 彩乃(仮)は、唖然あぜんとしながらも、棗の躰を両足でジワリと締め付けた。


「うっ、ぐぅっ……」


 棗が、呼吸できずに呻く。


「どうしてその名を……」


 彩乃(仮)が、なおも険しい形相で問いただす。

 棗は、苦しそうな表情で弱々しく叫ぶ。


「ちょ、ちょっと待った」


 セーラー服姿で棗にまたがる彩乃(仮)は、何処どこから如何どう見ても破廉恥はれんちきわまりない姿なのだが、当の本人はいつ暴挙にでるか分からない侵入者の動きを押さえ付けることで必死になのか、自分がはたからどのように見られているかなど考えにもおよんでいないようだ。


 棗は息苦しさに耐え切れず懇願こんがんする。


「その前に、お、下りてくれない?」


 彩乃(仮)は、若干、唇をとがらせながら、より一層棗を強く締め付け、否定の返事を無言で返した。


「うぐっ」


 すべもなく返答する棗。


「葛乃葉という人に……」


 言ってしまってから、他言無用だったことを思い出してゾッとする。


 ふたたび、驚きの表情を浮かべる彩乃(仮)。


 ――葛乃葉!

「葛乃葉と言ったの?」


 棗は、夢の出来事だったとはいえ、あまりのおぞましく生々しい体験に、念のため話してもいいと思われる部分だけを取捨しゅしゃ選択せんたくし、ここに至るまでの経緯いきさつと夢の中で葛乃葉と名乗る女に出会ったことだけを話した。


 彩乃(仮)は、棗の話にしばし耳を傾ける。

 話を聞き終えた彩乃(仮)は、何か納得したように一瞬表情を緩めたが、すぐに凛とした閃光を瞳に宿し、棗に正面から向かい合うと、なおも顔を寄せてくる。


 棗は、どぎまぎしながら視線をらす。


 彩乃(仮)は、棗の額に刺さっている折り鶴の尾に自分の額を当てて、隠形おんぎょうじゅとなえる。

 棗の額には折り鶴のくちばし、彩乃(仮)の額には折り鶴の尾という格好だ。


オン 摩利制曳マリシエイ 莎訶ソワカ


 唱え終えると彩乃(仮)は、棗の瞳の奥をのぞき込むようにして、ゆっくりと念を押すように言う。


「織紙巫音みこと


 その瞬間、棗の記憶の中の「彩乃」という名前の記憶が消え失せ、まるで記憶を書き換えられたかのように、以前から棗にとって彼女の名前は「織紙巫音みこと」だった。


 棗は、巫音みことの自己紹介に対して反射的に返した。


「オ、オレは、青葉棗」


「知ってる」


 巫音みことは、かすかに嘲笑ちょうしょうみを浮かべながら、小声でつぶやく。


 当然、同じクラスのクラスメートなら名前を知っていても不思議ではない。

 棗を含む他の生徒は、隠形おんぎょうの効果によって巫音みことから意識をらされ、逆に彼女の名前すら記憶にないという状態に陥っているのだ。


 巫音みことは、折り鶴にふっとやわらかい息を吹きかける。


 それまではがねのようだった折り鶴は、本来のようである折紙の鶴に戻り、棗の額から、はらりと転がり落ちた。


 巫音みことは、ようやく押さえ付けていた腕の力をき、またがっていた棗から下りると、居住まいを正す。


「全部忘れてほしいけど、これで精一杯」


 隠形おんぎょうによって棗の記憶を消すことができないかとこころみた巫音みことだったが、彼女の呪力では出来ることに限りがあるようだ。


 棗からすれば、そんなことが陰で行われているとはつゆ知らず、言葉の意味がよく分からず唖然とするばかり。


 巫音みことは、さとすように言葉をつなぐ。


「さあ、もう帰って。二度と来ないこと。ここでのことは……」


 巫音みことは人さし指を唇に軽くあてて、シィーという身振りをする。


 棗は、返す言葉もなく、言われるまま従うしかない。


 ――そうだ、そうだ、これ以上、妙なことに関わらない方がいい。


 棗は、少しさみしさを感じつつも、自分に言い聞かせる。


 巫音みことにあのように言われれば、他に出来ることもない。

 巫音みこと、神社、ステップ、これまでのことを全て忘れて、またいつも通りの日常を楽しめばいい。


 巫音みことうながされ立ち上がり、部屋を出ようとしたとき、壁に掛けてあった鏡が偶然目に入った。


 鏡に映った自らの姿。


 その首には、白銀しろがね帯留おびどめが結ばれていた。

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