【浅尾真綾(8)】

「真綾ァァァァァァァァッ!!」


 赤黒い右目をぎらつかせ、紗綾は部屋から部屋へ、襖を開けて逃げる真綾を追いかける。

 真綾はついに逃げ場を失うと、半狂乱の紗綾へ向き直り、睨みをきかせながら両手を大きく広げた。


(いったいなんのつもりだ……!?)


 真綾の行動に一瞬だけ疑問を抱くが、紗綾は躊躇わずに奇声を発して燃えさかる凶器を頭めがけて振りかざす。


 ゴスンッ!


 鈍い振動が左足を伝って頭蓋骨に届く頃には、紗綾の身体はくの字に傾き、燃えさかる有刺鉄線バットを畳の上へ転げ落としていた。

 そして紗綾は、真綾の胸の中へ吸い込まれるようにして崩れ、その勢いのまま姉妹ふたりは重なって倒れる。

 やがてバットの炎は畳を燃やし、その炎が紗綾の死角となる左側を徐々に照らしだす。

 そこには、真新しいバットを両手に握る飛鳥が倒れる姉妹ふたりに笑顔を向けて立っていたのだが、鼻や上顎の骨が砕けているため、その顔はひどれて膨れ上がり、泣いているようにもさえ見える。


「畜生……おまえたち、わたしをワナめやがったな……!」


 真綾は身体に覆い被さる紗綾を、目を閉じたまま、強く、優しく抱きしめる。

 紗綾の激しい心音が時間と共に弱まり、やがて、真綾の胸の鼓動と同調シンクロしていく。

 気がつけば紗綾の右目は、もとの色に戻っていた。


「何が……この村で何があったの?」


 穏やかに問いかける言葉に、紗綾の身体がピクリと小さく跳ねた。


「お願い紗綾、教えてくれるかな?」


 真綾の耳元で、息づかいが次第に荒くなる。


「ああ……教えてやるよ。この村も、わたしのこともすべてな!」


 突き放すように言葉を吐き捨てて腕を振り払うと、紗綾は起き上がりざまに真綾の頬へ強烈な平手打ちをした。そして、すぐそばで燃える炎の中から有刺鉄線バットを拾い上げると、数歩踏み込んでから近くに立っていた飛鳥にフルスイングで殴りかかる。


「飛鳥ちゃん、あぶない!」


 けれども飛鳥は、炎とバットを器用に避けて逃げまわってみせた。そのたびに紗綾は、部屋の壁や古民具の調度品やらを燃えさかる有刺鉄線バットで叩きつけてしまい、その結果、火の手はさらに強まり部屋の中は火の海と化してしまった。


「もう1人のおねえちゃん、使って!」


 逃げまわっていた飛鳥は、手にしていたバットを立ち上がった真綾のもとへ投げるが、あと少しのところで届かずに途中で落っこちる。

 握り手から畳にぶつかったバットは、跳ね返ってからコロコロと転がり続けると、先端部を壁に当てて止まった。

 それでも飛鳥は気にすることなく、そのまま部屋を出てどこかへと走り去っていった。


「わたしは……おまえたちが出ていった、その時からッ……!」


 鬼の形相の紗綾が、燃えさかる有刺鉄線バットを勢いまかせに左右に振り乱して追いつめてゆく。

 やがて狙いを頭に絞り、勝機とばかりに渾身の力で縦に振り下ろすが真綾は寸前でそれをかわしてバットは畳に直撃する。


「クソ爺どもの慰み物になった!」


 その姿勢のまま、紗綾は残された右目で真綾を睨んだ。



     *



 真綾と紗綾の母親は刀背打家の女中として十代の頃から働いていたが、嫡男のお手つきにあって姉妹ふたりを身籠り、形だけの正妻として迎えられた。

 だが、夫や義父の横暴な振る舞いに堪えきれず、とうとう真綾を連れて村を逃げ出してしまう。

 なぜ真綾だけを連れ出したのかはわからない。逃げ出せる機会に、真綾だけが身近にいたのかもしれない。


 その結果、残された紗綾は実父や祖父から虐げられることになる。父親が若くして病に倒れると、祖父はまだ幼い紗綾に暴力や性的虐待を執拗に繰り返した。さらには、実の孫の肉体からだを自分の政治目的にも利用し、有力者の男たちに差し出したのだ。


 今年の夏、ついに紗綾は憎き祖父の頭をバットでかち割った。きっかけは、祖父の魔の手が飛鳥にまで伸びていたからだった。

 知らぬ間に祖父は飛鳥を──孫に産ませた自分の子供にまで虐待を行っていたのだ。

 けれどもそれは、娘への愛情で殺した訳ではない。それは起こるべくして起きたことで、紗綾は何かのタイミングを待っていただけなのかも知れなかった。


 祖父を殺して自由の身となった紗綾は、まず手始めに母親と姉の真綾を探すことにする。

 興信所や弁護士を使っても見つけられなかった居場所を、胸糞悪いあの眼鏡男が意図も簡単に見つけ出してきた。


 迷うことなく紗綾はふたりのもとへと向かうが、母親はすでに事故で亡くなり、真綾は叔母夫婦に引き取られて幸せそうに暮らしていた。

 その時、わずかに残されていた〝何か〟が紗綾の中で崩れ、噛み締めた唇から流れる赤い筋と混じって流れ落ちた。

 さらに眼鏡男からもたらされた情報によれば、真綾には彼氏がいたので、そいつもろとも、このケツバット村へ連れ戻そうと計画を企てる。

 事はいつも通り順調に進んだが、それでも、紗綾の心は満たされなかった。


 何が足りない?


 紗綾にとって、母親はどうでもよい存在だった。それは父親や祖父の影響かもしれない。毎日のように、ふたりから母親を罵る言葉を聞かされ続けた結果であろう。

 彼女の中では、母親は道端の小石以下の存在でしかなかった。しかし、真綾は違う。


 幼少期の紗綾は、毎日考えていた。


 同じ血肉を分けた姉妹にもかかわらず、なぜ自分だけがこのような目にあうのか?


 苦しみ虐げられるこの時にも、ひょっとしたら、片割れは笑顔で過ごしているのではないか?


 もしかしたら、身体だけでなく幸福と不幸もふたつに別れていて、もう1人の自分が幸福の部分すべてを持っていったのではないか?


 いや、そうに違いない!

 そうに決まっている!


 こうしてまだ幼い紗綾の中で、ひとつのドス黒い想いが、憎しみが、脈打ちながら熱気を帯び、みるみる育まれて肥大していった。



     *



「そんな……」


 真綾は絶句し、開かれたままの唇が震える。

 紗綾の口から語られた過去は自分の日常からは想像できないほど凄惨で、悲しみと苦しみ、怒りに満ちあふれた、とても残酷な物語だった。


「おまえが……おまえが全部、悪いんだ。やっぱり殺してやる…………ねえ、死になさいよ。……死んじゃえよ、おまえ! その顔をわたしがグシャグシャに叩き潰してやるから、さっさと死んじゃえよぉぉぉぉッッッ!!」


 紗綾の右目からは涙がにじみ、燃えさかる有刺鉄線バットが縦横無尽に唸りをあげる。真綾は今にも泣きそうな悲しい顔をして、それを避け続けた。


 どうすれば紗綾を救えるのか。

 真綾にはわからない。

 きっと、誰にもわからないだろう。


 狙いが外れた有刺鉄線バットは次々と火の粉を撒き散らし、全てを焼き尽くさんと燃えたぎる。

 真綾と紗綾は、火の海の中で円舞曲ワルツを踊るようにお互いの位置を入れ替える。火の勢いからして、終演は近かった。



 真綾は覚悟を決める。


 紗綾とこのまま、死んでもかまわない──と。



 妹の苦しみや悲しみ、憎しみを全て受け入れて、この炎と共に消えてなくなろう。すべて残さず消し去ってあげよう。


「紗綾、おいで」


 真綾が笑顔で両手を広げると、紗綾もなぜか笑顔に変わり、この一瞬一瞬が不思議とお互いに愛おしく感じられた。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る