【黒鉄孝之(8)】
真綾が逃げきれるまでの時間稼ぎさえできればいい。
凶器を握る紗綾たちが目前に迫るなか、孝之は襖が開け放たれた部屋の中央で覚悟を決めていた。
紗綾と勇、どちらから相手にすればよいのか──
いや、どちらが相手でも、残念ながら結果に変わりはないだろう。凶器を持つ人間が2人もいるのだ。こんなことなら、何か護身術でも習っておけばよかったと、心底後悔する。
「あれぇ? ねえ孝之、なんで半裸なの? 余裕ぶっこいてセックスでもしてたわけ?」
大げさな呆れ顔で、隣に並び立つ勇を見る紗綾。けれども彼は相変わらずの仏頂面のまま、なんの反応も返さない。
「孝之って、超早漏かよ!」
言い終えた紗綾が大声を上げて笑えば、それをかき消すように外では雷が鳴り響いた。
「うあああああああああッ!」
偶然にもそれと時同じくして、孝之は釘バットを振り上げて紗綾に殴りかかる。
カキィィィィィィン!
だが、素早くそれに反応した勇が割って入り、金属バットでしっかりと孝之の渾身の一撃を受け止めた。
そのまま力任せに跳ね返すと、右へ左へ交互に金属バットを強烈に振り下ろしながら孝之を壁際まで追い詰め、今度はとどめとばかりに、頭めがけて本気のフルスイングを見舞う。
ゴブォン!
孝之が間一髪で尻餅をついてそれをかわす。
頭上では、金属バットが轟音と共に壁を突き破り、粉々に砕けた砂壁が髪の毛にパラパラと降りそそいだ。
「畜生、なんて馬鹿力だ!」
勇が金属バットを壁から引き抜くのに手間取っているわずかな隙をついて、急いで背後にまわり込む。今度は、孝之が勇の腰に狙いをさだめて豪快なフルスイングを
「オラァァァァァァァァァ!」
「──がはッ!?」
勇が膝から崩れ落ちる。
最大のチャンスを孝之は逃さない。
「でやぁああああああああッ!!」
ここぞとばかりに、渾身の力で釘バットを何発も振り下ろす。がむしゃらな乱れ打ちで、勇の背中はみるみると鮮血に染まっていく。
このまま孝之の優勢かと思いきや、猛烈な熱さと痛みが孝之の尻を襲った。
「うぐがぁぁぁぁぁッ!?」
孝之が海老反りになって両膝を床に落とすのと同時に、今度は右肩を攻撃されて横へと身体が吹き飛ぶ。
「意外と素質があるじゃない。でも、早漏なだけあって最初だけねぇ」
紗綾は起き上がろうとする孝之の尻めがけて、燃えさかる有刺鉄線バットをフルスイングして打ち抜く。そしてそのまま、華麗に自らの身体をくるりと1回転させてみせた。
横向けに倒れる孝之の右肩は火傷と出血で彩られ、尻からは焼け焦げた衣服のにおいが漂う。
獲物の苦悶の表情を堪能しようと、紗綾が満足そうに目を細めて顔を近づける。だが驚いたことに、孝之は嬉しそうに笑っているではないか。
「……なーんだ。これから先が長いのに、もう
紗綾は残念そうに大声を出し、誰かに見せつけるような様子でひどく落胆してみせた。
彼女の計画では、真綾と孝之を自分の家畜として無限の苦しみの中で生涯飼い殺しにする予定だったのだが、気が狂った相手をいたぶったところで、何も満たされはしない。
紗綾は小さな溜め息をつき、あらためて落胆した。
「ははは……ゴホッ、ゴホッ……ははははは」
孝之は正気を失ってはいなかった。
もう充分に真綾が逃げる時間稼ぎはできたはず。孝之の顔には、恋人を逃がせたことに対しての満足した笑みがこぼれていたのだ。
「チッ! 今回は不作だ不作。邪魔になるだけだから、
火の粉を巻き上げる有刺鉄線バットを倒れる孝之の頭上で大きく振りかざし、とどめを刺そうとした次の瞬間──紗綾の顔をめがけて、青磁色の花瓶が
紗綾は素早くバットの軌道を変えると、花瓶を見事に叩き割って飛んできた方向を残された赤黒い右目で睨みつける。
そこには肩で息をする真綾が、同じように鋭い目付きで紗綾を睨みつけて立っていた。
「なっ……真綾……!?」
孝之は「嘘だろ」と言いたそうな表情で驚く。壁際では、うずくまっていた勇が、金属バットの力を借りてゆっくりと立ち上がろうとしていた。
「紗綾様……もう……もうやめましょう。真綾様はケツバット村を出た人間。せめて、真綾様だけでも普通の人生を……」
「はぁ!? おまえ、なに言ってんだよ!? この村からは誰も出さない! どこの誰だろうと、絶対に逃がさないんだよッ!」
「しかし……」
「うるさいッ! もうおまえは黙っていろ!」
紗綾は燃えさかる有刺鉄線バットを片手に持ち替えて構えると、鬼のような形相で真綾に襲いかかる。
「真綾、危ない!」
孝之はなんとか助けようと起き上がろうとするが、痛みが邪魔をして身体が思うように動かない。
何も武器を持たない真綾は、襲いかかる紗綾を惹きつけながら、屋敷の奥へと走って姿を消した。
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