【浅尾真綾(2)】

 アルミ製のリアカーが急勾配の坂を下りきるのと同時に、物凄い衝撃で荷台は跳ね上がる。その勢いのまま投げ出された真綾は、全身を地面に強く叩きつけられた。

 息ができない。

 身動きができない。

 それでも真綾は、なんとか時間をかけて身体を起こし、四つん這いの姿勢になる。

 顔を上げれば、小さな祠が近くに見えた。長い歳月によって風化したのか、その中では顔が半分崩れた石像が金棒を抱えて胡座あぐらをかいていた。


 この村はどうかしている──


 真綾は顔を伏せ、ケツバット村で起きた様々な出来事を思い返す。心が震え、夏の陽射しで渇ききった地面の土を力いっぱい無意識に握り締めていた。


「おーい! あの女、無事だぞぉー!」


 坂の上から聞こえた村人の声で、真綾はふと我に返る。

 急いで逃げようとしたその時、


「返品だよ、受け取りな!」


 あの妊婦の叫び声がしたので、思わず坂道を見上げた。

 急勾配の坂道を、ゴロゴロと勢いを増しながら人間が転がり落ちてくる。

 真綾の目の前でぐしゃりと止まった誰か。赤茶色の長い髪で顔が覆われてはいるが、血まみれのその姿は麻美に間違いなかった。


「……へっ? ……あ……あさ……あさ、み、さん?」


 みるみるうちに真綾の両目から大粒の涙があふれ、次々と渇ききった地面に吸い込まれていく。


「麻美さん……ううっ……う……いやぁ……嫌だよぉ……嫌ぁぁぁ…………」


 四つん這いのまま近づくと、真綾は麻美を抱き起こし、頬を寄せて泣き続けた。



     *



「ヘッヘッへ、ついやり過ぎちまったなぁ」

「上玉だったのに勿体ねぇことしたぜ、ったくよぉ!」

「けんどよぉ、おめぇアレだ。大怪我してたし、しゃあーないしゃあーない!」


 いつの間にか赤黒い目玉の男たちに取り囲まれていたが、それでも真綾は麻美を抱き寄せたまま、顔を伏せて地面にすわり込んでいた。


「さあ、おめぇはオラたちとんべ!」


 農作業服姿の男が立ち上がらせようと近寄ってきて肩に触れたその瞬間、真綾は隠し持っていた旅館の鍵で男の太股を突き刺した。


「痛ってぇぇぇぇぇぇぇぇぇ?!」


 絶叫する男が傷口を押えて木製のバットを落とす。真綾は素早くそれを拾い、立ち上がりざまに男のあごを打ち抜いた。


「ぶるゴッ!?」


 無様に仰け反って背中から倒れる男。

 その向こう側には、鋭い目つきでバットを握る真綾がいた。


「こっ、このアマぁぁぁぁ!」

「ヒッヒッヒ、東京とうきょうもんは焦らせるのがうまいでねぇかぁ!」


 そして、男たちは襲いかかる。

 耳を塞ぎたくなるような罵声や下卑た笑い声の中、まるで麻美が乗り移ったかのように、真綾はバットを縦横無尽に振りまわして立ち向かう。


「うああああああああッ!!」


 迷いも躊躇いも何も無い。

 コイツらは、人の姿をしているが人殺しだ。悪魔なのだ。

 次々と襲いかかるバット攻撃を、真綾は見事に当たる寸前でかわす。麻美の助言どおり、男たちは真綾のお尻ばかりを狙ってきていた。

 相手がどこを狙うのかがわかれば、避けることなど容易たやすい。それに加え、暇潰しでやっているリズムゲームの経験が活かされて、真綾が避けたり攻撃をするタイミングは実に絶妙だった。


「アンタたち、何やってるのよ!? さっさと尻をっ叩いて捕まえなさいよ!」


 女は焦りの表情を浮かべ、村の男たちをはやし立てる。けれども、自分は決して戦いに加わることはなかった。


「てぇりゃあああああああ!」


 ──ガツン!


 真綾が斜めに振り下ろしたバットが、横一文字に構えた村人のバットに弾かれる。

 このままこうしてはいられない。やがては体力が尽きて捕まってしまうだろう。

 その場で半回転した真綾は、女に素早く近づき、目の前すれすれをわざと狙ってバットをかすめさせる。驚いた女が小さく悲鳴を上げて尻餅を着いたその隙をつき、真綾は女を軽快に飛び越えて棚田へと走って逃げ出した。


「待てぇ、この女郎めろう がぁぁぁ!」


 男たちは次々と追いかけるが、真綾の逃げ足は速く、なかなかその差は縮まらない。

 うしろを気にしながら畦道を走っていると、いつの間に現れたのか、作業帽を目深に被った1人の男が、金属バットを片手に真綾の行手に立ち塞がっていた。


「あれは……米蔵さんのお孫さん!?」


 前方に米蔵勇、後方には大勢の村人たち。

 挟み撃ちにあってしまい、真綾は絶体絶命となった。

 このまま立ち止まれば、確実に捕まる。

 棚田の中は水が張ってあり、底は泥濘ぬかるんでいるので歩くのもままならないはずだ。そうなると、目の前の勇に活路を見出だすしかないだろう。


「でぃぃやあああああああああッ!」


 真綾は叫びながらバットを振り上げて頭を狙い襲いかかる。が、勇はあっさりと道を譲ってそれをかわした。

 避けられた真綾が一瞬体勢を崩し、チラリと勇のほうを振り向く。無言ではあったが敵意は感じられず、真綾はすぐにまた畦道を走って逃げ出した。


「何やってんだぁ、おめぇ!?」

「米蔵さん、なんの真似だぁ!?」


 激昂してさらに追いかけようとする男たちを、勇は振り上げた金属バットを思いっきり地面に叩きつけて制止する。

 男たちが静まり返る。

 少しの間をおいてから、勇が重い口を開けた。


「誰だ、勝手に命令に背いたのは? 指1本触れずに監禁しろと言ったはずだぞ」


 目深に被った作業帽の鍔越しからでも充分にわかるほど放たれる殺気……怯える村の男たちは、お互いの顔を見合わせてごにょごにょと責任をなすりつけ始める。

 その様子を遠くから見ていた女は、そそくさと棚田を離れ、どこかへと消えていった。


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