【浅尾真綾(3)】
棚田の小道からブナ
バットを避けられた瞬間、作業帽の下で垣間見えた顔には、ほかの村人たちのように赤黒くはない普通の目玉が見えた。それに、なんの邪魔もせずに自分を逃がしてもくれた。ひょっとしたら、彼は正気なのかもしれない。
(ケツバット村には、まともな人もいるのかな……)
だとしても、なぜこの村の凶行を止めないのであろうか。
脳裏に一瞬、麻美の笑顔がよみがえる。
真綾は少しだけ瞼を強く閉じ、駆ける速度をさらに速めた。
蝉時雨が緩やかに遠退いた頃、ほどなくして旅館へ辿り着く。数寄門の前に停めてあった2台の車の変わり果てた姿を横目に、真綾は周囲を警戒しつつ、今度は徒歩で正面玄関へ入った。
「孝之……藤木さーん……」
小声で呼びかけるが、返事は返ってこない。死臭を放つ仲居と小太りの男の遺体だけが、この場で異様な存在感を放っていた。
自分たちが泊まる部屋の前までくると、真綾は鍵をさっき使ったことを思い出し、落胆の声を洩らす。
ドアノブをまわしてみても、ガチャガチャと音を立てるだけで期待どおりには開かず、耳をすましても部屋の中から物音ひとつ聞こえてはこなかった。
大階段まで戻り、手摺りを掴みながら眼下のロビーを見渡してもみる。すると、土産物売場に目を止めた真綾は、急ぎ足で大階段を下りた。
確かきのうは、色々と商品が──特に食料品が並んでいたのに、今はその数が著しく減っている。ひょっとしたら、孝之たちが持ち去ったのかもしれない。だとすればもう、この旅館には戻ってこないだろう。
「孝之、どこへ行ったのよ……早く会いたいよ……」
真綾は〝Ι LOVE ケツバット村〟と書かれたトートバッグを手に取る。そして缶詰やお菓子類、ペットボトルをいくつか入れて旅館を後にした。
*
孝之たちはどこへ向かったのか?
もう村の外へと無事に逃げ出して、助けを呼んでくれているのだろうか?
心細くなった真綾は小さく鼻をすすり、村の出入口をめざして大通りに続く道をひたすら歩き続ける。
旅館の周辺は木々が生い茂っていたので暑さはやわらいでいたが、村の中心部は建物や道路が多いその分だけ緑が少なく、アスファルトの反射熱が余計に体力を奪う。
「……暑っ。帽子か日傘、あの土産物売場にあったのかなぁ」
失敗したなと後悔しつつ、額の汗を手の甲で拭う。なるべく日陰を選んで通りを歩いていた真綾は、肩に掛けているトートバッグから早々にペットボトルを取り出し、栓を開けて渇いた唇に水を運んだ。
──のだが、常温の天然水が
太陽で焼けたアスファルトがしっかりと身体を受け止め、剥き出しの腕や太股をわずかに焦がした。
「見ぃぃぃつぅけたァァァァ♪」
濃紺の作務衣を着た坊主頭で髭面の中年男が、年季の入った木製のバットを手にして下卑た笑顔を浮かべながら、倒れる真綾を冷たく見下ろす。
「ウッヒッヒッヒ、きょうはついてんなぁ……ちょうど
そう言い終えてすぐに、男は鼻息を荒くして自らの坊主頭を一撫でし、作務衣の股間を片手でまさぐる。
「ああっ!? なんてこったい、前開きでねぇのを穿いてきちまっただよ!」
ブツブツと文句をつぶやきながら、男は穿いているズボンを下着ごと脱ごうとして前屈みになる。そんな男の脳天を、真綾が起き上がりざまに見舞ったバットが直撃した。
思わぬ反撃にあった男は、股間を丸出しにしたまま白目を剥き、頭から血を流した状態でフラフラと数歩うしろへよろける。
それをしっかりと見据えながら、真綾はバットを構えて男に近づく。
狙うのは尻ではない。
急所の頭だ。
「でぃぃぃ……やあああああああッ!」
快晴を切り裂くほどのかけ声を上げ、万全の体勢で大きく溜めをつくった真綾のクリーンヒットが側頭部に炸裂する。
と、同時に、血飛沫と脳ミソを撒き散らしながら、坊主頭が快音と共に弾けて砕けた。曲線状に飛ぶ血液が太陽の光りを浴びてキラキラと輝き、文字通りの血の雨が地上へと降りそそぐ。
「……この変態」
あられもない姿で絶命した坊主頭の痴漢に振り返ることなく、真綾は凛々しい表情でトートバッグを拾い上げて先へと進む。
そこにはもう、きのうまでの真綾はいなかった。
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