【黒鉄孝之(4)】
足音を忍ばせて
すぐ隣は使用人の詰所なのか、10畳ほどの床が板張りの簡素な部屋には、大きな焦茶色の木の机と同じ材質の椅子が何脚かあった。
(よし! 誰もいないぞ)
用心深く進んで行けば、そこはもう襖廊下になっていた。
どこに何が、誰が隠れているのやら──足音も息もひそめたまま、孝之はさらに進む。すると、突き当たって右に曲がる方角から、男と女の話し声が聞こえてくる。
(やっぱり村人が居たのか。ほかにも大勢いたら、マジでヤバイな……)
孝之は見つからないように極限までなんとか近づき、前屈みになってそっと聞き耳をたてた。
「なんのつもり?」
「いえいえ、お手を煩わせないようにと思いまして、いっさい手出しはするなと命令しておきました」
「だからって、誰とも会わないのはおかしいわよね? 普通に考えてもおかしいわよね?」
どうやら、男と女は揉めているようだ。
「それに何よ、天然水って。わたし、全然聞いてないんですけど?」
「あれ、そうでしたか?
孝之が恐る恐る顔を出して覗いてみると、真綾が細身の背広姿の男と立ち話をしていた。
(あの男は……どうしてアイツが
孝之はその男に見覚えがあった。
今のように眼鏡はしていなかったが、その男こそ、孝之にケツバット村を勧めた人物だったのである。
*
夏休みの旅行先を決めかねていた孝之は、アイスコーヒーのSサイズ1杯だけを注文して、ファストフード店2階のコンセントのある席で充電器を差し込みながら、スマートフォンを使ってネット検索をしていた。
急がなければ8月になってしまう。交通手段はなんとかなるにしても、日にちが過ぎるにつれて宿泊施設の予約は厳しくなるだろう。
もう時間は無い──孝之は焦っていた。
そんな時に突然、背後から男に声をかけられる。
「おやおや? ひょっとして、旅行先をお探しですか?」
そんな言葉に振り返れば、細身の背広を着こなす色白の男が、セールスマンのような笑顔でこちらを見ていた。男と面識が無い孝之は一瞬困惑するも、その問いに答える。
「えっ? ええ、まあ。すぐに決めなきゃいけないんですけど、まだ全然で」
「それは丁度いい! 実はですね、私もある村へ旅行の予定があったのですが、急な用事で行けなくなったんですよ」
「はあ……」
この男はいったい何者なのだろうか。
随分と馴れ馴れしい上に話が長引きそうなので、孝之は男から離れようと、スマホの充電器に然り気なく触れた。
「そこの村の旅館はかなりの人気なんですけどね、せっかく予約が取れたのに、キャンセルするのが勿体なくって……ですが、あなたは宿泊先をお探しだ!」
男は視線を自分の懐に向けると、上着の内ポケットから宿泊券を2枚取り出す。やはり、新手のセールスマンだった。
「これがその旅館の宿泊券です。はい、どうぞ」
「あ、どうも」
謎の男の話術に孝之は思わず宿泊券を受け取ってしまったが、すぐに慌てて突き返す。
「いやいやいや! ダメですよ! そんな人気の宿を支払えるほどオレは稼ぎがありませんし、申し訳ありませんけど──」
「いえ、いいんですよ。これも何かの縁。おふたりの初旅行にこそ相応しいのです……アハハハハ」
そう言ってさらに笑顔を見せた男は、宿泊券を気前よく
*
その男がなぜ、この村に居るのか。
それにどうして、真綾と親しげに会話をしているのか。
そもそも、初旅行のことを話していないのに、男はなぜか知っていた。藤木も人に勧められてケツバット村へ来たと言う。
(まさか……そんな……!)
何者かの思惑のもと、自分たちが村へと誘い込まれていた事実に驚愕する孝之。それと同時に、突き出していた尻にいまだかつてない激痛が走った。
「うあああああああああッ!?」
孝之は絶叫しながら前へ飛び出して倒れこむ。背広姿の眼鏡男はもう消えていて、無言で冷やかに自分を見下ろす真綾と目が合った。
「ヒャッハッハッハ!
米蔵老人は釘バットを両手に握り直しつつ、赤黒い目玉を細めてみせる。すると今度は、うつ伏せで倒れる孝之の尻にふたたび狙いをさだめながら構え、全力で釘バットを一気に振り下ろした。
「がぁはあああああああッ!?」
孝之の顔は苦痛でゆがみ、臀部は着衣越しでもハッキリとわかるほど鮮血でみるみる染まっていく。
「米蔵、もういい」
真綾は無表情のまま、薄い背中を向ける。
「へへぇ。この野郎、どうしますかい?」
「地下にでも繋いでおけ」
そう言い残して立ち去る真綾のうしろ姿が消えるのを待たずに、米蔵老人は孝之の髪を掴んで引き起こそうとした。
「ぐっ……このクソ爺め……」
抵抗してなんとか四つん這いで踏ん張る孝之を鼻で笑うと、米蔵老人は孝之の顔に唾を吐いてからゆっくりと足側にまわり込み、釘バットを野球選手のように構えてフルスイングで尻へと叩きつけた。
気を失った孝之を引きずるため、釘バットを鼻唄まじりで廊下の柱に立て掛ける。
と、その時、何やら視線を感じた米蔵老人は、ゆっくりそちらへ顔を向ける。
そこにはポツンと1人、おかっぱ頭の愛らしい幼女が無表情で立っていた。
「ねえねえ、棚田のおじいちゃん。おにいちゃんをいじめてるの?」
「ああ、そうだよ飛鳥ちゃん。これからね、もっといじめるんだ……よぉっ、こら、せいっと!」
小さな
「ねえねえ、棚田のおじいちゃん」
「ああ? もう……なんだい、飛鳥ちゃん?」
米蔵老人が面倒臭そうに振り返るのと同時に、年輪が深く刻まれた褐色の顔に釘バットが吸い付くようにして深くめり込む。目鼻が一瞬で潰れ、血飛沫が様々な曲線を描いて白い襖障子に赤黒い紋様を施した。
「あぶぶぶ……あばぶふぅん……プシュルルルルッ……!」
「おにいちゃんのお尻は飛鳥のだから、誰もいじめちゃダメなんだよ?」
両脇に挟んだ孝之の足が板張りの廊下に落ちるよりも早く、米蔵老人の身体が先に崩れ落ちる。
飛鳥は無表情のまま、倒れて
「うふふふふ……うふふふふ……」
飛鳥のころころと笑う声が、とても楽しそうにひんやりとした廊下にいつまでも響き渡った。
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