【黒鉄孝之(5)】

 孝之が意識を取り戻すと、頭上でしゃがみ込んで覗き込む真顔の飛鳥と目が合った。


「うわっ!?」


 驚いて飛び起きようとしたが、尻の激痛でそれがかなわず、孝之は顔をしかめてまた横になるしかなかった。

 ふたたび飛鳥の赤黒い小さな目と見つめ合うかたちとなり、孝之が苦し紛れに笑いかけると、飛鳥も嬉しそうに可愛らしくにっこりと頬笑んでみせた。


「おにいちゃん、大丈夫?」

「いや……うん、大丈夫だよ。もう少し休んだら動けるかな」


 そう言いながら孝之は、何が起きたのかを思い出そうとして辺りの様子を見る。すぐ近くに、顔や頭がぐしゃぐしゃに潰れた死体と血まみれの釘バットがあることに気づく。


(そうだ……オレは確か、このジジイにやられて──)


 誰の仕業かわからないが、なんとか命拾いしたことに感謝した孝之は、痛みを堪えながら釘バットを杖がわりにして立ち上がる。すると、飛鳥は孝之のもう片方の手をそっと握り、困惑する孝之の顔を見上げた。


「ねえねえ、おねえちゃんのところに行くんでしょ?」

「ああ……そうだよ。飛鳥ちゃんは、お姉ちゃんをよく知っているのかな?」

「うん、知ってる。きっと、あのお部屋にいるよ」

「あのお部屋?」


 飛鳥は孝之の手を強く引っぱり「こっちだよ」と笑顔をみせて、襖廊下を元気に先導して歩きだした。

 迷うことなく、まるで何かに吸い寄せられているかのように、飛鳥は武家屋敷の奥へ奥へと孝之の手を引いて歩く。

 村長の親類にあたるらしいこの幼子を信じるのはいささか不安ではあるが、手がかりのない今となっては、飛鳥に導かれるまま進むしかない。

 孝之が〝あのお部屋〟とは何か訊こうとしたその時、飛鳥は渡り廊下の手前で立ち止まり、「あそこだよ」と小さくつぶやいて少し先にある離れ座敷を指差した。


「あそこがお部屋かい?」

「うん。でも、今はおねえちゃん以外は誰も入っちゃいけないんだよ」

「どうして入っちゃいけないのかな?」

「わかんなーい。ダメって怒られるの」

「そうなんだ……お部屋には何があるのかな?」

「しらなーい」


 飛鳥は頭を何度か強く横に振ると、不機嫌そうな表情になって黙りこんでしまった。

 孝之は「ありがとう」と御礼を言い、うつむいた濡羽色のおかっぱ頭を優しく撫でてから、渡り廊下を1人で進んだ。


 真綾はあそこにいる。


 いつの間にか、夏の陽射しは傾いていた。

 中庭の木々が風にそよげば、不意に鼻をつく異臭がしたので、孝之は思わず足を止めてむせかえった。釘バットを持たない片方の手で鼻と口を押さえるが、進むにつれて異臭の濃度が増していき、すぐにでも胃液を吐き出してしまいそうになる。

 なんとか吐き気をこらえながら離れ座敷へ入ると、中は茶室のようだった。目立つ調度品は特に何も無く、部屋の中央には頭部が潰れた男の死体がひとつだけ転がっていた。

 その死体は羽織と長着姿で、下の畳も着衣と同様に腐って溶けた肉や体液で赤黒く変色していた。

 傷口や目鼻からは、数えきれないほどの蛆虫ウジむしがこの世に生を受けて蠢いてはあふれ出し、それを祝福するかのように、羽化を済ませた成虫が黒い渦となって死体を軸に飛び回っている。

 羽を休める成虫も、ほとんど白骨化している顔や手のわずかに残る腐肉に喰らいつき、新たな命を産み落とすかてとしていた。

 身につけている高級そうな衣服や、ケツバット村のパンフレットに記載されていた村長の顔写真と髪型や顔の骨格が同じだったこともあり、この死体は刀背打真右衛門ではないかと思われた。


 ──いつ頃、誰が殺したのだろう?


 孝之に法医学の知識はまるでないが、夏のような暑い時期だと腐敗は早いはずなので、そんなに死んでからは経っていないのかも知れない。

 それでも、この状態になるまで数週間以上は経過しているだろう。すると、殺害犯は真綾ではないほかの誰かの可能性も十分にある。孝之は少しだけ安堵した。

 茶室から出ると、飛鳥が渡り廊下の中央でポツンと立っていた。


「おねえちゃん、いないの?」


 孝之は尻の痛みをこらえながら笑顔をつくり、足を引きずるようにして飛鳥に近づいてから、前屈みになって視線を合わせる。


「うん……誰も居なかったよ。ほかにお姉ちゃんが行きそうな場所は…………いや、ここまで本当にありがとう。飛鳥ちゃんは、みんなの所へもう帰ったほうがいいよ」


 そう優しく話しかける孝之の視界の片隅に、ゆっくりと人影が映り込む。孝之は前屈みの姿勢を戻しながら、渡り廊下の先に立つ真綾を見つめた。

 無言でたたずむ真綾の手にはバットが握られていたが、握り部分から上は有刺鉄線がいびつに幾重にも巻かれていた。庭から射し込む斜陽に照らされ、有刺鉄線バットは鈍い光と殺気を強烈に放つ。

  だが、陽があたる手元とは対照的に真綾の上半身は深い影となり、その表情はこの距離からだと見てとれない。孝之はつばきを飲んで真綾を見つめ続けていた。


「飛鳥、こっちに来なさい」


 抑揚はないけれど、孝之を怒っている時と同じ雰囲気を含ませた言葉で真綾がそう言うと、飛鳥は孝之のうしろへ急いで隠れる。


「嫌っ! 飛鳥のお尻ぶつんでしょ!? ぜったいに嫌っ!」

「いいから来なさい!」


 真綾はその声に怒気を宿らせて叱りつける。怯える飛鳥は、とうとう声を張り上げて泣きだした。

 このままでは、必然的に真綾とバットで殴り合いが始まってしまう。こんな狭い渡り廊下の上で、しかも、真綾は冷静に話せそうな状態ではない。どうするべきか、最善策を必死になって考える。そして──


「うおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉッッッ!!」


 突然、孝之は無意味に大声で叫んだ。

 それに反応して真綾の注意が孝之に向き、同時に、握っていた有刺鉄線バットの先端部がぴくりと動く。その間に孝之はうしろにいた飛鳥を脇に抱え、茶室へと全速力で走って戻った。

 そのまま出入口を蹴破って突入し、死体を横目に中庭へ飛び出す。

 美しく剪定せんていされた松などの障害物をうまく避けながら、追って来ているかどうか後ろを振りかえる。真綾の姿はどこにも見えなかった。


「ねえねえ、おにいちゃん。さっきの死体って、おじいさま?」


 脇の下からの問いかけになんの返事もしないまま、孝之は片手に握る釘バットを上下に激しく揺らして芝生の上を鬼気迫る形相で走り続ける。


「うふふ、ざまーみろぉー」


 必死な孝之とは対照的に、飛鳥はころころと笑いだしたかと思えば、今度は何かの童謡を楽しそうに口遊くちずさんだ。


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