ここがケツバット村
【黒鉄孝之(2)】
夏の夜明けの白くてまばゆい陽射しを受けて、遠くに眺める山や森の木々が、パステル調の淡い色彩に塗り変えられてゆく。蝉の鳴き声が響きわたる獣道の上では、孝之があのブナ
あれから孝之は、夜通し村中を逃げまわり、何度か尻を叩かれながらも捕まらずにいた。それどころか数人の村人を撃退し、今しがたも1人、奪い取ったバットで殴り倒していたのだ。
木陰や物陰に隠れては息を整え、そして走り出す。ひたすらその繰り返しで、なんとか無事に朝まで逃げ切っていたのだった。
地図の類いを持っていない孝之は、勘だけを頼りに旅館裏手のブナ林の場所へ向かっていたのだが、その途中で山の中まで逃げる羽目となり、一時は迷子となってしまったものの、米蔵老人の所有する棚田まで奇跡的に
棚田近くの木の陰から、注意深く周囲を見まわす。村人や藤木の姿は見えない。藤木が来るまでのあいだ、どこか隠れられそうな場所はないかと探していると、畦道のそばにポツンとそびえ立つ古びた火の見櫓がすぐ目に止まる。
それは、高さが20メートル近くはありそうな鉄骨造で、最上部の円錐形の足場の下には大きなスピーカーが、これでもかといくつも備わっていた。
逃走中に何度も道に迷い、その都度、危険な目にあった孝之は、村全体の様子を少しでも把握しておきたかった。しかし、地上の孝之からでも骨組みだけの櫓の中は丸見えだったので、村人に見つかる可能性が十分に高い。
「んー……まあ、サッと登ってサッと下りれば大丈夫かな」
誰に聞かせるでもなくそうつぶやくと、手にしていたトートバックを肩に掛け直して火の見櫓へと小走りで向かう。
鉄製の
上へ登るにつれ振動で無風でも多少の揺れを感じるようになり、孝之は途中で梯子が折れないか不安になった。
追っ手が来ていないか下を見て確認すると、新緑の棚田を豆粒みたく小さな茶色い生き物が──おそらく、野良犬だろう──軽快に横切り、畦道の雑草のにおいを嗅ぎながら、平和そうに尻尾を振って歩いている。もうかなりの高さまで登ってはいたが、窓ガラス清掃員の経験が活かされ、孝之は怖さを全く感じなかった。
最上部をめざしてさらに梯子を登る。
まだ早朝だというのに、
素手で登るには無理があったかと後悔するが、すでに梯子の半分以上を登っていた。ここからでもそれなりの高さはあるので、孝之は周囲の地形を確認してから下りることにする。
ブナ林の奥には旅館の一部が少しだけ見え、棚田の先には大きな木造家屋と蔵が建っていた。あれは多分、米蔵老人の家だろう。
今度は山のほうへ視線を向ける。切り
火の見櫓の高さからなら、もっといろいろと大通りや村の入り口が見えるのではないか。そう思い梯子を見上げれば、火の見櫓の足場下にある沢山のスピーカーに紛れて、監視カメラが設置されていることに初めて気がついた。
「まさか……全部見られてたのかよ!?」
慌てて降りようとしたその時、遠くから畦道を進む車の走行音が聞こえてくる。
音の出処を探せば、白い軽トラックが棚田沿いの道を猛スピードで走っていて、軽トラックはそのままブナ林の入り口付近まで来ると、砂煙を巻き上げて急停車した。
地上まではまだ大分距離があったが、かといって上へと逃げるわけにもいかない。とにかく、孝之には梯子を降りるしか選択肢はなかった。
軽トラックを気にしながら急いで梯子を降りたせいか、手を滑らせて一瞬落ちかける。なんとか持ちこたえるも、肩に掛けていたトートバックから木製のバットがスポッと、
バットはゆっくりと空中を回転しながら落ちていき、すぐ地面に叩きつけられて大きな音と共に破裂した。
まさかの事態に、孝之は降りるのをやめてそのまま軽トラックを凝視する。やはり気づかれたのか、ドアがすぐに開き、中から男が火の見櫓のほうを見ながら出てきた。
こうなってしまっては、最早どうしようもない。孝之は身動きをせずに男を凝視し続けるが、その男の姿に見覚えがあった。
藤木である。
どういうわけか、藤木は軽トラックを手に入れて、待ち合わせ場所のブナ林までやって来たのだ。
元気そうな姿に安心したのか、孝之はほんのしばらくだけ藤木を見つめてから、すぐに急いで残りの横桟をひとつ飛ばしで降りた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。