【黒鉄孝之(1)】

 夜とはいえ、風が無いために蒸し暑かった。

藤木と別れた孝之は、全力疾走で大通りの脇道からどこかの民家へと続く私道を抜け、草叢くさむらの中に身をひそめて隠れていた。


「まったく、これからどうすりゃいいんだよ……」


 思わず言葉にして出すが、答えらしい答えが思いつかなかった。とにかく今は、追ってくるであろう村人のことだけを考えることにする。


 まず、自分の手元には武器が無い。たとえ何かしらの武器を所持していたとしても、大勢のバットを持つ村人を相手に戦って勝てる自信など孝之には無かった。

 やはり、ケツバット村から逃げるしかない。

 1秒でも早く真綾を見つけだし、この地獄のような村から逃げるしか──


「おめぇ、人の敷地で何しちょる?」


 声が聞こえた。

 背後から聞こえた男の問いかけに反応して、血の気が引いた顔で孝之は振り返る。

 黒い人影。その片手から伸びる凶器が、月明りをわずかに浴びて浮かんで見えた。


東京とうきょうもんはこれだから困るんだぁ。逃げても無駄だって、ちぃーっとも、あきらめちゃくんねぇもんなぁ!」


 男はそう愚痴りながら、ゆっくりとした動作で近づいてくる。赤黒い目玉がハッキリと見えた頃、孝之は無意識に体当たりをしていた。

 もしも、このまま背中を向けて逃げ出していたら、容赦ない一撃が見舞われていたであろう。だが、孝之は本能で戦うことを選んでいた。騒ぎを聞きつけた村人たちが集まってくる可能性など、全くもって考えてなどいなかった。


「わっぶぅ!? こんの野郎ぉ!」

「うおおおおおおおおおおおおッッッ‼」


 地べたで縺れ合いながらも、なんとか馬乗りになれた孝之は、何度もこぶしを振り上げて頬や顎を狙って殴りかかった。


 何度も、何度も、何度も、何度も………………


 男は気を失ったようで、ぐったりと動かない。孝之は勝利したのだ。


「はぁ……はぁ……はぁ……クソッ、なんてこった……」


 冷静さを取り戻した孝之は、相手が持っていたバットを戦利品として頂戴する。

 握り締めたバットを見つめていると、そう遠くはない距離で村人らしきものと思われる奇声が聞こえてきた。

 人数まではわからないが、1人だけだったとしても、なるべく会わずに──狂人とはいえ、極力傷つけず、戦わずに村から脱出したいと考えている孝之は、外灯の何もない暗い道に向かって走り出していた。

 なるべく目立たないようにと、この道を選んではみたが、そもそもケツバット村には外灯自体が少なく、ひたすら月夜の下をなんのあてもなく逃げ続ける結果になっていた。

 畑に撒かれた肥料なのだろう。畦道を進むにつれ、時たま周囲には鶏糞のにおいが強く漂う。


「うっぷ! くさっ……なんだよ、これ!」


 鼻を塞ごうにもハンカチを持っていない孝之は、しかたなく手のひらで鼻を覆いながら駆ける足を徐々に弱める。少しでも遠くまで逃げたかったが、鶏糞のにおいが混じった酸素を大量に吸い込みたくもなかった。

 そう遠くはない距離にある真っ黒い雑木林の中で、もう夜だというのに蝉がまだ鳴いている。そのすぐそばには、平屋の細長い形の建物が浮かんで見えた。

 と、同時に、追ってくる村人たちの騒ぎ声もどこからともなく聞こえた。

 周囲は夜とはいえ月明かりで思いのほか見わたしが良く、障害物もない。今から走ったところで、すぐに目視されてしまうだろう。焦る孝之は、なんとか隠れられそうな場所を探してはみるものの、やはり1軒の平屋しか見つからなかった。

 やって来た道を振り返れば、松明の灯りが闇の中で小さく燃えている。もう時間が無かった。


「マジかよ……マジかよ、マジかよ、クソッ!」


 もはや、深く考える余裕も無い。孝之は村人たちを気にしつつ、平屋をめざして一気に駆け出す。

 近づくにつれ、その荒れ具合から建物は廃家のように思われたが、獣のにおいが畜舎であることをすぐに教えてくれた。

 それでも孝之は村人たちをやり過ごすべく、開け放たれていた闇の中へと吸い込まれるようにして踏み入る。


「失礼しまーす……」


 つい言葉を発してしまったが、極度の緊張感からなのか、孝之はその事にいっさい気づかなかった。


「どこだぁー!? どこ行ったぁ、東京とうきょうもんのクソガキがァァァ!」

「逃げても無駄だぁー! 村からは生きて出れねぇぞぉぉぉぉぉッッッ!!」


 飼育小屋は吹きさらしも同然で、外の様子がハッキリと見えた。ざっと5、6人のバットを持った村の男たちが、松明を掲げて自分を探している。


「やばっ!」


 またもや無意識で声を出した孝之は慌ててその場にしゃがみ込むと、そのままブリキの玩具おもちゃのように小刻みで奥へと進む。すっかり獣のにおいには慣れてしまったのか、鼻呼吸も平気になっていた。


「ブゥ」

「ぶぅ?」


 間近で感じた気配と鳴き声に顔を向ければ、月明かりをわずかに浴びて蠢く大きな塊と目が合う。

 それは豚の鼻だった。

 辺りには、真横に連なる金属製の狭い檻。

 その中の1つ1つに、1頭の豚が身動きもとれずに納まっている。そして、すべての窮屈な牢獄の鉄柵の真下からは、豚の頭が自由を求め、転がる生首のように顔を覗かせていた。


「なっ……豚小屋かよ、ここ!」

「ブヒィィ」


 足元の虚ろな目をした豚が、かぼそい声の独り言に答えて鳴いた。

 するとその直後、目の前の豚が鉄柵を噛み始める。



 ガチガチガチガチ……ガチガチガチ……



「おっ、おい! 静かにしろよ!」


 今度はそれに呼応した何頭もの豚が、狂ったように一斉に騒ぎだす。まるでそれは、助けを請う囚人の泣き叫ぶ声にも聞こえた。

 見つかる──孝之は生きた心地がしなかったが、村人たちは気にすることなく、畜舎に近寄りもせずに通り過ぎていった。

 ゆっくりと中腰になって外の様子をうかがおうとしたその時、鉄柵に備え付けられている給餌器の中からはみ出ていた長い髪の束に気づく。

 覗きこんでみるが、強烈な腐敗臭に孝之は一瞬で顔を背けながら咳き込み、逆流した胃液を飲み込む。

 そしてそのまま、足元の豚たちに見送られて畜舎を後にした。


「…………ブゥ、ブゥ、ブヒィン! しゅるるる……ピチャ、ピチャ、カリッ、コリッ!」


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