第2話 その名はAAA(前編)
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「ふむ……ここもひどいものだな」
長い影が、ゆうらり、揺れる。
石造りの階段――だったらしきものを見上げる長身の人影は、頭から
紫紺のフードをすっぽりとかぶっている。表情は見えない。
ただ、翡翠色に彩られた唇が開くと、その奥に象牙のような犬歯が覗く。
その牙の太さは人間のそれではない。だが、その青ざめた色の肌は、獣人でもなければエルフでもない。それらとはまったく別の種属――いや、「人間ならざるもの」の
「まったく人間とは――遺跡に対する敬意に欠ける蛮族であることよ。とはいえ、この荒い仕事ぶり、よほど慌てていたようだ」
クスリと笑う仕草には相応の若さが感じられる。性別は声だけでは判じがたいが、そもそもすべての種属に雌雄があるとは限らない。
「いやはや、退屈な視察旅行になるかと思うたが――存外愉しめそうだ」
興味深そうに周囲を見渡すと、その人影は独りごちるのであった。
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第五層の人々は孤立していた。
安全区と呼ばれる限られた領域におよそ一〇〇人ほどの人間が閉じ込められていた。大半が探索者たちで、宿泊所や食堂など安全区の施設で働いている人々も混じっている。いずれも魔物の襲来により逃げ道を失った人々だ。
本来なら、安全区の中には上層につながる通路がある。だが、魔物の襲来に慌てた探索者たちが避難する際に、あろうことか通路を物理的に破壊してしまっていた。
上層――第四層は市街区だ。そこに魔物を導き入れたくないという考えはわかる。
だが、まだ、全員が避難しきれていない状況で、その判断が下されたのは遺憾の極みと言えた。
「そもそも、お前がよけいなことをしなければ、あの場で魔物の群れを押し返せていたのだ。全員が避難する時間を稼ぐこともできたはずだ」
アースガルズ騎士団長、アシュタルテが険悪さを声にこめて言ってくる。
「そもそもを言うなら、あんたらが深層から魔物を引き連れてきたのが発端だろう?」
おれも言い返す。
アシュタルテの眉がきゅっと上がる。
「引き連れてきただと? ほざくな。我々は三十四層の探索をおこなっていた。ほとんど未踏とされる三十五層より下へ至る手がかりを探していたのだ。魔族の本拠を突き止めるためにな! そして、これまで知られていなかった、新たな通路を見いだしたのだ! まさかそれが第五層につながっているなど、どうして推測できる? そんな事例、今まで聞いたことがない!」
そう吐き捨ててから、アシュタルテはおれの顔に向かって指をつきつけてきた。
「やはりどう考えてもお前が悪い! お前がしゃしゃり出てきたせいで深層からの魔物の侵攻を許し、我々はこの階層で足止めを食う羽目になってしまったのだ!」
なにおう!
おれは反論を試みようとして、傍らにアーセナの視線を感じて、やめた。
「そんな繰り言を言っていても仕方ないでしょう、団長。それに、あなたも」
白い僧服に身を固めたアーセナが怒ったように言う。
「ここは一応、病院なのですから、お静かに」
そうなのだ。おれとアシュタルテは今、隣同士で横たわっているのだった。
アシュタルテは魔物の大軍に弾き飛ばされ、右腕を折っていた。いまは添え木を当てられ、包帯でぐるぐる巻きの状態で、簡易寝台に寝かされている。
おれはといえば、怪我はそれほどでもないが、またもや義足を失って、杖なしでは歩けない。
安全区の会議所だった場所が今は臨時の病院となって、たくさんのケガ人が運び込まれていた。アーセナはさっきからケガ人の間を飛び回り、治癒魔法をかけてまわっていたのだ。
「さあ、団長、もう一度、今度は患部の深いところにあてますね」
治癒魔法といっても、一瞬でケガを全快させられるわけではない。噂に聞く高級魔族ならば死者でさえ蘇らせることができるという話を聞いたことがあるが、われわれ人間が仕える魔法には限界がある。治癒魔法も、あくまでも人体が生来持つ自然治癒力を高めるものなのだ。
それでも、キングスパイダーのぶちかましをくらって、ぐしゃぐしゃになったアシュタルテの右腕は、すでにかなり治ってきている。
「すまんな、アーセナ、世話をかける」
アシュタルテのベッドの傍に跪き、アーセナは掌に淡い光を灯らせる。その光をアシュタルテの右腕にあてて何か模様を描くようにしながら上下に動かす。
「いいぞ。腕がむずがゆい……骨が再生しているようだ」
なるほどな。戦闘中のアーセナは、騎士団の魔力タンクとして使われていただけだったが、ちゃんと治癒魔法も使えるんだな。ちょっと見直した。
「ふう……あとは骨がしっかりとつながるのを待つだけです。たぶん、三日もすれば元通りになるはずです」
額の汗を拭いつつアーセナが言う。アシュタルテはうなずき、礼を言った。そしてやや言いづらそうに続けた。
「なあ、アーセナ……騎士団に戻ってはくれないだろうか。騎士団には――いや、わたしにはお前が必要なんだ」
ぴくんと肩をふるわせたアーセナだったが、無言のまま、アシュタルテに背を向ける。だが、アシュタルテは言葉を続ける。
「約束する。もう無理な
「すみません、この人も、いちおう治療しなくっちゃ……」
おれはいちおうか。
いや、まあ、おれの方のケガはたいしたことはない。何カ所か打ち身や擦り傷があるくらいだ。ただ、全力を使い果たしてしまって、足腰がおぼつかなくなっているだけだ。
そういう意味では、俺よりもアーセナの方がよっぽどへばっているはずだ。なのに、この臨時の病院に担ぎ込まれた二十人以上のケガ人、その一人一人にアーセナは治癒魔法を掛けて回っている。
アーセナの他にも治癒魔法を使える者はいるが、こことは別の場所で重篤なケガ人の手当にかかりきりだ。この場所のケガ人はアーセナが一手に引き受けている形になる。
アーセナもキングスパイダーを撃破した際にほとんど魔力を使い果たしたはずだ。その後、ろくな休憩もはさまずにこの重労働である。
「おれは大丈夫だ。それよりもあんたが休まないと」
おれが声を掛けると、アーセナは小さく溜息をついた。
「なに強がってるんですか。レリク・ストレイシ-プさん、あなた、全身の魔力を使い果たして、立つこともできなかったじゃないですか。いちおう、この階層を守ったヒーローなんですから、おとなしく手当を受けてください」
おれが、ヒーローだって?
「そりゃあ、第四層の全員を逃がすだけの時間はかせげなかったですけど……。すくなくともわたしは、あなたのおかげで死なずにすみました。そのことには感謝……してるんですよ?」
アーセナの頬が少し赤らんでいる。
マジか。魔力を汲み出すためとは言え、あんなにエッチなことをしたのに? あんなところやこんなところをまさぐったのに――?
「そ、そういうこと――言わないでください!」
怒られた。
そりゃあそうか。
騎士団の魔力タンクにされているのを見て、助けてやるって言ったのに、結局アーセナの魔力に頼ってしまったのがおれだ。返す言葉もない。
「だ、だから、そういうことは、言わないで……って。治療、はじめますから」
口ごもるとアーセナはおれの身体に手を触れた。傷まみれの胸元に手を差し込んでくる。そこら中をごろごろ転がった際にできた傷だ。
温かい感覚がおれのはだけられた胸元から腹に向かって伝わってくる。
これは……いいものだな。似ているものを想像すると温浴治療だろうか。適度な温かさが患部を包みこみ、痛みが遠のく。
おそらくは血流が盛んになり、患部に活力が送り込まれているのだろうが。
ん? 活力?
アーセナは懸命に治療に集中しているらしいが、ちょっと手の位置がやばい。
おれのヘソのあたりをさわさわしてくる。
そのため、ヘソの下にある部位に血流が集まってきてしまう。
傷を治そうと必死で気づいてないのか?
もういいから、と言おうとしてアーセナの方に目をやったおれの視界に白い丸いものが飛び込んでくる。
僧服に覆われたアーセナの双丘だ。重力に引かれて、ふくらみの部分がきれいなおわん状になっている。そのふくらみの先端がおれの肩に当たったり当たらなかったりして――おおう。
「動かないでください、手がとどかないです……」
覆い被さってくるアーセナからえもいわれぬ佳い匂いがしてきて――
「はにゃ? なにか、盛り上がって――?」
怪訝そうにアーセナが手をとめる。
いかん、いかん、これは、かたちでバレる、
「な……ああっ!?」
アーセナが手を引っ込め、自らの身体を抱きしめながらおれとの距離をとる。
「ま、また! エッチな気分になってるんじゃ!?」
これは不可抗力だ! というか、アーセナも顔が上気して、息がせわしくなってるし!
エロいものをみないように、みないように!
おれは隣の寝台のアシュタルテに目を移した。だが、このアシュタルテも鎧を脱いで、薄手のチュニックだけだ。裾から覗く太ももとか結構やばい。
周囲も、考えてみれば、女の人だらけだ。だって、アースガルズ騎士団は若い女だけの騎士団なのだから。みんな、ケガの治療のために鎧を脱いでいる。見ようによっては包帯とかしている女性はエロい。血がにじんだりしてると、特に。いや、そういう趣味があるわけじゃない! ないよ、マジで!
今までよく平静でいられたものだなと思うが、気づいたら、ここ、おれしか男いないじゃん!
「あっ! やっぱり、エッチな気分になっているんだ! こんな非常時なのに……! へんたい! あっ! んんんん……」
苦しそうに身もだえするアーセナのお腹のあたりが光っている。僧服の生地を通じて淫紋の発光が見て取れるのだ。でも、見えすぎじゃない?
ま、まさか、アーセナさん!? その下って裸? は、はいてないの!?
「だって、だって、だって――今日ので下着、汚れちゃってぇ――替えの下着なんてないし、みんなたいへんなのに、自分だけ、わがままいえないもん!」
だ、だからってノーパンでそんなヒラヒラの僧服――!
想像するとやばい。じかに見るよりやばい。僧服の下がどうなっているか想像したらやばい。いろいろやばすぎる。いかん、語彙力がどっかいった。
「ひ、ひどい……です、心配して……治療して……たのに……ぃ」
それを言われるとおれもつらい。
つらいけど、股間はもっとつらい。
女性だらけの空間で、こういう状態になってしまっているのを知られるのはつらすぎる。
そう思うとよけい収拾がつかなくなってしまう。と、いうことはアーセナの淫紋が活性化してしまうわけで。
「あっ! あああっ! ひゃああああああんっ!」
アーセナが声をあげつつのけぞった。胸元を絞って、ふくらみを自ら刺激している。白い生地だから膨張して見えて、おもちをこねているように見える。
ああ、もう、辛抱たまらん!
「お前らッ、いい加減にしろおおおッ!」
アシュタルテが怒号をはなった。
ぎゃふん。
2
「ほんとバカですねえ、先輩は」
探索者仲閒のオルカにジト目で言われた。
「ケダモノとはこういうやつのことをいうんだろうな」
同じく探索者仲閒で、獣人のイギスも呆れている。君に言われてもな。
風紀を乱した罰として臨時病院から追い出され、物置小屋に移動させられたおれのもとにやってきたのは、オルカ・オーガスタとイギス・マンティコワだった。
相変わらずおれへの当たりは強いけど、ややこしいものを当ててこないだけありがたいよ、本当に。アーセナに悪気がないことはわかっているが、あんなものを押しあてられたら変なコトになっちまうって。
「へんなもの、ねえ。まあ、確かに僕には、先輩に押しあてて楽しませてあげられるまぁるくて柔らかいものは備わっていませんけどね」
からかっているのか、からんできているのか、分かりづらい。ともあれ、だ。
「――あった?」
というおれの問いにオルカはにっこり笑って、包みを差し出した。
「先輩、探してきましたよ」
おれは包みを受け取り、中身を取りだした。
それは義足だった。
「目分量で、だいたいですけど、前に先輩がつけてたやつと同じ大きさですよ」
オルカが言う。
おれは自分の右脚――膝の下からなくなっている――に義足を当ててみた。
ちょっと長いかもしれないが、許容範囲だろう。
「お? これ
木材を芯に、革張りで仕上げられた、なかなかの品だ。歩行補助のための魔法があらかじめ仕込まれた高級品だ。
探索者はダンジョン内でケガをすることがままある。その際に手足を失うことだって希ではない。そのため、義足や義手はレア・アイテムというわけではないのだ。
この安全区にも、そういったアイテムを扱う店はあり――店主は逃げ出した後だが――オルカとイギスに見繕ってもらったというわけだ。
「ちゃんと値札をみてくださいよ。四層に戻ったら、その分払わないと」
「え、タダじゃないの?」
「騒動に乗じて義足をパクる気なんです? 信じられませんね、先輩って、そーゆー人だったんですか?」
オルカの視線が痛い。こいつ、いいところこの出だけあってモラルは高いんだよなあ。……ってあれ、おまえ、そのポケット。なんか光ってね?
「あ、これですか? 魔法具屋の前で拾ったオーブですよ。これ、よく使うコードが五種類くらい埋め込まれていて、便利なんです。ほしかったんですよねえ。でも小遣いじゃたりなくて」
オルカは光る珠を掌にのせてニコニコしている。
「それ、おまえ、金払うんだろうな?」
「は? 壊れたお店の外で、偶然、拾ったんですよ? それにこれはもともと、このアリノスの迷宮にあったものですよ? 迷宮で見つけた聖遺物にお金を払う人がいますか? バカなんですか、先輩?」
笑顔を崩すことなくオルカは言い切った。
「じゃ、じゃあ、おれの義足は……」
おそるおそる質問する。
「それ、加工品ですよね? 作った人がいるんですよ? はい論破」
オルカが、目を大きく開いて言う。顔立ちが整っているぶん、なんかよけいに腹立つ。
そのせいか、その後、オルカが小声で付け加えた言葉はうまく聞き取れなかった。
それに、それ、先輩の足に合いそうなヤツを探して、探して、探しまくったんですからね……!
――と言ったんじゃないことは、たぶん確かだろう。
「足はくっついたか!? 早く
イギスが割り込んでくる。けっこうイライラしているようだ。
「こんなところでグズグズしていられない! ウタタが心配だ!」
まあ、第五層がこんな状況だから、はやく第四層に戻ってウタタちゃんの無事を確認したいというのもわかる。たった二人の家族だもんな。おれだって、リッカさんやスウちゃんのことが気にならないと言えば嘘になる。
過去の記憶のないおれには家族はいない――憶えてないだけでどこかにいるかもしれないけれど――でも、アリノスに来てからのおれの世話をなんだかんだ焼いてくれたのはリッカさんだし、癒やしてくれたのはスウちゃんだった。
オルカにしたって、家族のことが気になっていないことはないだろう。
「ん、そうでもないですけどね」
クールにオルカは答える。
「協会に与している魔術師は二百人はいますからね。それに第二層のウチの屋敷、あれ、ほとんど要塞ですよ。ぶっちゃけ、ナイショの防御装置とかあるし。そもそも、魔物はこの第五層で押しとどめてるんだから、問題ないでしょ」
まあ、そのせいでおれたちは安全区に閉じ込められてるんだけどな。
ともあれ、いつまでここにいればいいものやら――だ、
「こんなとこにいたんですか?」
そこに、アーセナがやってきた。
白い僧服の上に、騎士団の旗を肩掛けをのように羽織って、胸のふくらみを見せないようにしている。アシュタルテの差し金だろうな。
アーセナはジト目でおれを見下ろしている。まるで汚物を見るような目だ。
思えば、おれはこの子からは、ジト目か、欲情した上目遣いか、どっちかしか向けられたことがない気がする。振り幅が大きすぎるだろ。
「いやらしい目でわたしを見ないでください――その、あの……レ、レリクさん」
言いづらそうにおれの名前を呼ぶ。さっきはフルネームで呼んでいたような気がする。なんというか、距離感がわかっていないのだ。おれもそうだ。アーセナのことをどう呼んだらいいのか、わからない。
「えーと、あの、なんでしょうか、アーセナ、さん」
「名前を呼ぶのやめてください!」
うわ、いきなり距離をはかりそこねた! でも名前呼んだらダメって、キツすぎんか? じゃあ、なんて呼んだらいいのよ?
「できれば、おたがいの記憶から、おたがいの存在を消し去ることが望ましいです!」
そんな高難易度な記憶操作はできねーよ! まあ、気持ちはわかるけども! 好きでも何でもない男の性欲に連動して、その、なんというか、アレな刺激を受けるとか、地獄の苦しみだろうしな。
「ここを脱出できれば、そうしよう。少なくとも、今度こそ、出逢ってもたがいに話しかけないようにすればいい」
おれは言った。
アーセナがアースガルズ騎士団に戻りたいと思うならば、それはそれでしかたがない。アシュタルテだって悪人ってわけじゃない。今回のことで反省して、アーセナにあまり無理はさせないんじゃないか、っていう気もする。
それにアースガルズでなくとも、魔力の供給者としても治癒魔法の使い手としても有能なアーセナは引く手あまただろう。
それに引き換え、おれは探索者としてもへなちょこで、浅い階層をうろちょろすることしかできない。アースガルズにせよ、別の騎士団にせよ、主な活動域は
「……ずるいですよ」
ぽつりとアーセナは言った。顔を伏せている。
「で、お嬢さんは何の用なのかな? 先輩を探していたようだけど?」
如才なくオルカが入ってくる。こいつはこういう時うまいよなあ。顔がいいだけではなく、コミュ力が高い。
アーセナはハッとして、我に返る。そして言う。
「団長が呼んでるんです。レ……レリクさんのこと。これからのことについて相談したいって……」
3
「これからの行動を決めなければならない」
簡易ベッドの上でアシュタルテが言った。
今は、完全ではないものの最低限の防具を着けている。騎士としての威厳をとりもどそうというのだろうか。兜はさすがにかぶっていない。
先ほどまでの仮病院は元の機能に戻っていた。会議所――安全区におけるさまざまな問題について議論する場所――だ。
まわりには、治療を終えたアースガルズ騎士団の面々と、第四層の安全区の人々がいた。
おれたち――おれとアーセナ、オルカとイギス――もそこに加わった。
現在、安全区で動ける人々――およそ五十名ほどだろうか――そのほぼ全員が集まっていた。
「今は何とか魔物たちを押さえているが、魔物たちは深層からどんどん上がってきている。このままではもって数日、というところだ」
アシュタルテがきっぱりと言った。事態は思った以上に深刻なようだ。
「さよう、水や食料もその頃には尽きましょう」
アシュタルテに対して首肯して見せたのは安全区の顔役だ。顔役だけに、偉そうな顔をしている。彼がいまここにいるのは、逃げなかったのか、逃げ損ねたのか、どちらだろうか。
「何とかして、突破口を開かねばならない。だが、今の我々の戦力では、正面突破は無理だ」
アシュタルテの声は暗かった。自分が万全ならば、という思いがあるのかもしれない。深層の魔物とはいえ、彼ら騎士団はその魔物を倒しながら探索を続けていたのだ。だが、これほどまでに大群で押し寄せられてしまっては……ということだろう。
「正面突破が無理だとすれば……」
騎士団の誰かが呟くように言った。よく知らない人なので、騎士Aということにしよう。
「しかし、この安全区の出入り口の前は魔物でぎっしりだ。侵入を防ぐのがやっとなのだぞ!」
この人もよく知らないので、騎士Bだ。
「とはいえ、第四層に向かう通路は塞がれている……!」
ええと、今度は騎士Cだ。このペースで発言者が増えていくと二十七人目は呼び名に困ってしまうな……
「落ち着け」
アシュタルテが抑えた声で言った。おれは、ハッとした。アルファベットではなく、騎士その1、騎士その2と数えればいいのだ。それならば、騎士その無量大数までいける!
「おまえは黙っていろ」
アシュタルテが恐ろしい目でおれを睨む。いや、別に声に出していたわけではないのだが……。アーセナもそうだが、おれが考えていることがダダ漏れになってしまうのはなぜだろう。怖いな。こんなだとエッチな妄想などできやしない。アーセナが傍にいる現在は、もちろんしてはならないのだが……。
「この安全区は、第五層のちょうど中央辺りにある。第五層は、不定形ではあるが、その広さはおおむね第四層の四倍ほどだ」
ほぼ全域が居住区になっている第四層に比べ、第五層の広さはかなりなものだ。その大半が探索済みとはいえ、魔物は出てくるし、聖遺物の掘り残しも見つかることがある。おれのような弱々な探索者はこの五層から、潜ってせいぜい数層が行動範囲なのだ。
「この第五層と第四層をつなぐ回廊は、この安全区の中にあったものの他に、あと一箇所、存在している。それくらいは知っているな?」
アシュタルテはなぜかおれに視線を向けたまま、問うてきた。先生に目をつけられたダメ生徒の気分で、おれはうなずく。
当然だ。探索者にとって、階層間をつなぐ回廊の位置は命にかかわる情報だ。
第五層には中央と東に門があり、それらはそれぞれ第四層への回廊に続いている。
回廊――と呼ぶのは便宜上のことで、階層同士は物理的につながっているわけではない。ダンジョン内ではしばしば
そのため、回廊は時として不安定になることがある。ごくまれなことだが、回廊から出られなくなり、そのまま「遭難」することもある。おれたち探索者が階層から階層に移動するとき、決まっておまじないをとなえるのも、その「万が一」が起きないようにするためだ。
安定した回廊に人々が集中するのは当然のことで、第四層と第五層をつなぐ回廊の場合は、それが中央回廊だった。そこを中心に安全区ができたのも当然の流れだった。探索者たちが東回廊を使うことはまずないことだった。
「中央回廊への入口が破壊された今となっては、東回廊から第四層に脱出するより他にない……」
アシュタルテは噛んで含めるように言う。
「われわれの活路は東回廊だ。そこへなんとか辿り着き、第四層へと脱出するしかない」
会議場の中の人々はざわついた。「しかし、どうすれば」とか「危険すぎる」といった声も混ざっている。
「皆の心配ももっともだ。今、こうして安全区の周囲を魔物に埋め尽くされている状況で、門をあけて全員で東回廊に移動することはできない」
そこでだ、とアシュタルテは指を一本立てる。
「志願者を募ろうと思う。その者が単独で東回廊につながる門へと赴き、第四層への脱出路を確保するのだ」
アシュタルテの言葉に、そこにいた誰もが口をつぐんだ。
それは決死隊、なんてものじゃない。安全区から外に単身で出ていったら、あっという間に魔物の餌食だ。
ほとんど「死刑」に近い任務だ。
会議場が沈黙に包まれた。へたに発言して、自分にその任務がまわってきては困る、みんなそう思っているのだ。
いやな時間が流れる。
アシュタルテは無事な方の左手の指を一本立てた。
「本来ならば、わたしを初めとする、アースガルズ騎士団から精鋭を選ぶべきところだ。だが、わたしもこのていたらくで、騎士団の面々も多くが手負いだ。だが、一人、わたしはこの困難な任務に好適な人物を知っている」
ほう、そうなのか。命知らずの豪傑だな、それは。
おれは会議場を埋める騎士や探索者の中にその人物を探した。きっと雲を突くような巨漢で、筋肉ムキムキで、歴戦の強者らしく顔に大きな傷跡があったりするやつだ。
アシュタルテと目が合った。あれ、変だなと思っておれの周囲を見渡したが、豪傑っぽい人物はいない。獣人のイギスだろうか? だが、イギスはガラは大きいものの、おれと同じく探索者としては駆け出しで、さほどの実績があるわけではない。オルカに至っては、魔法についてはなかなかなものだが、とても荒事に向きそうな見た目ではない。
だが、アシュタルテは依然としておれのことを見ている。他の誰でもない、おれをだ。
「そうだ。キングスパイダーを一撃で屠り、この安全区が魔物に呑み込まれるのを防いだ、われらが英雄、レリク・ストレイシープくんだ。彼こそが、この難局にあたってわれわれが頼るべき人物だ」
口元に笑みを浮かべながらアシュタルテが告げると、会議場に集まった人々の視線がおれに集中した。
え? おれ?
自分でも間抜け面をさらしていただろうと思う。
人々はごしょごしょ喋りはじめていた。
――あんな若僧が?
――このあたりをうろちょろしている下っ端だろ?
――そんな手練れだったか……?
明らかに不信感にまみれている。
おれを知らない人間よりも、知っている連中のほうが疑わしい目をむけてくる。
いや、そうですとも! おれが手練れなんてわけはないでしょ! そんなキツい任務無理だって!
「謙遜はよせ、レリク・ストレイシープ。おまえは深層からこの第五層につながった通路にいち早く気づき、誰よりも早く探索に訪れたというではないか。さらには先ほどの戦いでは、その過程はどうあれ、皆の危機を救った。おまえが余計な――いや、英雄的な振る舞いをしてくれたおかげでな」
いちいち言葉に棘があるが、アシュタルテのやつ、どうやらおれを
新たに生まれた通路に行ったのはリッカさんから話を聞いたからだし、さっきの戦いの九割以上がアーセナの魔力のおかげだ。そもそも、おれは英雄なんてガラじゃない。
――しかし、じゃあ誰が行くというんだ?
――おれはいやだぞ、自殺行為だ!
――でも、誰かが東回廊の状況を確認しなければ……!
人々の視線に熱気が増して、おれに向けられていた。
いかん、いかんぞ、この空気は――
面倒くさい役割をクラスで一番目立たないヤツになすりつける時の空気感だ。探索者養成学校でも、たいてい厄介な仕事はおれに降ってきた。その時の黒幕はたいていオルカだったが――
そのオルカはおれから絶妙な距離をとってそしらぬ顔をしている。
イギスもだ。イギスの場合は現在の状況を理解できていない可能性もあるが……。
よせばいいのに、ついつい、アーセナへも視線を向けてしまう。アーセナに至っては座り込んで何か作業している。治療用の器具なのか何かわからないが木を細く削っている。
味方、ゼロ!
「頼むぞ! レリク・ストレンジシープ!」
「そうだ! おまえこそ適任だ! ストライクカーブ!」
「よくぞ、志願してくれた! ストロガノフ、シープ!」
人々が口々におれの名を呼ぶ。大半うろおぼえで間違っているが。しまいにゃ羊が煮込まれている。
「そうら! 英雄を胴上げだ!」
「頼むぞ大将! おれたちを救ってくれよ!」
人々がおれに押し寄せ、有無を言わさず抱え上げる。
「ちょ、ちょ……」
前回のラストじゃあるまいし、今度はほんとうに英雄に奉られてしまった。
一度、二度とおれは宙に放り上げられる。
胴上げなんて、いいもんじゃない。いつ地面に叩きつけられるかわかったもんじゃない。
「下ろしてくれ! 頼む!」
おれは叫んでいた。
「東回廊に行く! だから下ろして!」
4
けっきょく、東回廊への偵察に行かされることになった。
一人でだ。
それには理由があるといえばある。
安全区の門の前には魔物たちが群れを為している。複数の人間がそこから出ていったらたちまち餌食になる。
門以外の、外壁の小さな隙間をくぐって、こっそりと外に出るしかないのだ。
それに、オルカにせよイギスにせよ、こんな任務で命を落とすいわれなどない。
アーセナに至ってはいうまでもない。
それにだ、考えようにとっては一人の方が生き残る確率が高いともいえる。
安全区に留まっている限り、いつか時間的な限界がくる。魔物の襲撃を跳ねかえせたとしても、食料や水には限りがある。中央回廊の門を修復を試みるにしても、おそらくタイムリミットには間に合わないだろう。
一人で行動して、魔物から身を隠しながら東回廊まで辿りつくことができれば、そのまま第四層に逃げてしまえばいい。もちろん、先に一人だけ逃げるのは気が引けるが、第四層に辿りついたら人々に助けを求め、救助隊を呼んでくればいいのだ。
それに、深層探索をやっているような騎士や手練れの探索者は、第五層など、一瞬で通過してしまうが、おれにとっては主な仕事場だ。どこにどんな通路があって、どうつながっているかは一通り頭に入っている。そういう意味ではアシュタルテの人選もあながち間違ってはいない。
まあ、おれに対する悪意はなかった、とも思わないが。
それでも少しはすまないと思ってくれたのか、二日分の水と食料を持たせてくれたのはありがたかった。
東回廊のある門まではおおむね一日かかる旅程だ。門の状況を調査して戻ってくるには十分だ。というか、「確認したらそのまま逃げずに戻ってこい」というメッセージかもしれないが。
特段の見送りもなく、おれは安全区を脱出した。
時刻は、地上ならそろそろ夕闇迫る頃合いだ。といって、おれは「地上」に出たことはない。アリノスの深層で発見されてから、ずっと迷宮都市で過ごしている。そういう探索者は少なくない。地上には、他国から来た旅人や商人たちのための施設しかない。おれたちの街は、仕事場は、生きる場所は、アリノスなのだ。
迷宮の中には本来は朝も夜もない。だが、壁や天井は第一層にある〈時告げる天蓋〉に応じて、昼にあたる時間にはほのかに光を放ち、最低限度の視界を与えてくれている。夜になれば、光は薄れていき、完全な闇に沈む。
いま時分は、ちょうど夕闇に似た薄暗さで、姿を隠しながら進むには都合がいい。
周囲に魔物の気配はない。安全区の門のあるあたりに集中しているのだろう。
だが、油断は禁物だ。夜の時間帯になると魔物が活性化するのは迷宮のお約束でもある。できるだけ、安全区から離れて、東回廊を目指さなければならない。
おれは小走りで駆けていった。ふしぎと未練はなかった。
清々した、とまでは言わないが、自分はやはり単独行が向いているのかな、と思う。今後のことを考える余裕はないが――どうなんだろう。おれは、このアリノスでどう生きていけばよいのだろう。
次の瞬間、魔物に襲われて死ぬかもしれないのに、おかしなものだ。もう、明日やそれ以降のことを考えている。
まずは第四層に戻って――リッカさんやスゥちゃんの無事を確かめたいな。そうしたら――
アリノスを出るのもいいのかもしれない。
アリノスに住み続けていたら、アーセナと二度と会わないというのはやはり難しい。向こうが深層探索専門の騎士団に所属したとしても、暮らすのはアリノスの一層から四層のどこかだろう。探索者や騎士たちの行動範囲はどうしても重なる。
昨日の今日であっさり再会してしまったしな。
おれは昏さを増した迷宮を進みながら考えていた。
地上か――
どんなところなんだろうな?
アリノスの第一層にまで上がったことは何度かある。
そこは地上とは、巨大な円盤、〈時告げる天蓋〉で隔たれている。
第一層で天井をあおぐと、そこには空が広がっている。いや、正確には空ではなく、空を模した天球だ。太陽の役割を果たす光の輪がからくりで動き、黄道を描く。夜になれば、そこには星座が映し出される。
季節によって、光の輪の描く軌道は変わり、星座もその位置を変える。
いわば、それは巨大な暦であり時計なのだ。
いつ、誰がそれを造ったのかはわからない。
数百年昔――いやもっと前かもしれない――人間がこの迷宮の存在を知った時から、その天蓋はあり、その内側では巨大なからくり時計が動いていた。
第一層以外の階層にも、この天蓋が生み出す
天蓋は迷宮の第一層をすっぽり覆っているが、完全に封絶しているわけではない。
からくりによって大きさの変わる月の部分だけが、地上との通路となっている。だからその面積が最大になる満月の頃に、大勢の商人たちが各地からアリノスを訪れる。そして、月に一度の大規模な市場、〈望の市〉が立つのである。
その期間はアリノスの第一層のみならず、他の階層でも人出が増えて賑やかになる。
逆に、からくりの月が見えなくなる朔の時期になるとアリノスへの出入口も閉ざされる。この間は何人たりともアリノスに踏み入ることはできないし、アリノスから去ることもできない。
おれはいつのまにか、「次の望はいつだったろうか」などと考えていることに気づいた。詰まるところ、「アリノスの外」に思いを馳せる、なんていうことは自分にはできないのだ。
「アリノスの外」には山があり川があり海があると聞かされても、様々な国があり多くの種族が暮らしていると教わっても、同じようなものはすべてアリノスにもある。むしろ未知なるもの、新しいものはすべてアリノスに属していると言っていい。深層からは、常に発見がもたらされるのだ。
今回のような、魔物の大群はたまったものではないが。
いつしか周囲は闇に包まれていた。第一層を除き、迷宮の夜には月はない。
おれは携行用の松明に火をつける。
本来、明かりをつけて目立ちたくはない。だが、さすがに闇の中では道に迷ってしまうし、野営するには早い。できるだけ東回廊に近づかなければ――
第五層に巣くう魔物は、おおむね小型であまり好戦的ではないやつらが多い。
深層から押し寄せてきた巨大蜘蛛に比べれば、かわいいものだ。
とはいえ、おれ一人では、
敵に遭遇しないことが最善の攻略法なのだ。
だが、いつまでも魔物にエンカウントしないわけにはいかない。
その襲撃は頭上から来た。
足元には注意していたのだ。何しろ暗いからな。
頭の上はその分、おろそかだった。
初撃が浅かったのは幸運だった。
鋭い声とともに羽音が耳に届いた時、反射的に身体を沈めていた。
それでも右耳に痛撃をくらう。
この翼手目は、掌にのるほどの小型の魔物で、単体ではたいした脅威ではない。だが、営巣地に侵入してきた者に対しては集団で襲撃してくる。どうやらおれはまずい場所に踏み入ってしまったらしい。
昼間ならどうということもない相手だ。向こうも人間には興味がなく、迷宮内に生息している昆虫類を捕食している。
それが夜の闇の中となると脅威だ。こいつは目はほとんど見えないらしいが、自らの叫び声を迷宮に反響させることで、闇の中でも自分の位置を正確につかむことができる。第五層に普段から生息している魔物の中ではでは最も危険な相手かもしれない。
さっきの一撃にしろ、とっさにしゃがみこんで助かった。喉元に爪を打ち込まれていたらと思うとぞっとする。
ギロチンプタランは一匹だけではなかった。次々と襲ってくる。
おれは持っていた松明を振り回す。
キィキィ喚きながら、有翼の魔物は松明を器用に避けていく。
仕方ない。向こうには「見えて」いるのだから。
おれは後方からの羽音におびえながら、めちゃくちゃに逃げまわった。
だが、かえってギロチンプタランの生息地に深く踏み込んでしまったらしい。振り仰ぐとそこは天井が一段と高くなっていて、見渡す限り、びっしりとギロチンプタランがぶら下がっていた。
耳をつんざく声とともに、黒い羽を羽ばたかせ、数十におよぶ群れがおれをめがけて襲ってくる。
万事休すか――いや、おれにはまだ〈光の槍〉《スピア》がある。
着けたばかりでまだ馴染みきっていない義足をはずそうとして愕然とする。
この義足に残存している魔力は新たな呪文の贄にするには少なすぎる!
――駄目か、
ギロチンプタランの爪は一撃では致命傷にはならない。だが、こんな大群に襲われたら、遠からず全身をズタズタにされてしまう。
金属的な響きをともなう小さな殺戮者たちが、おれの頭部を、首筋を狙って
襲ってくる。
「レリクさん! これを!」
その時、おれを呼ぶ声とともに、棒を十数本束ねたものが足元に跳ねた。
見ると、半タウ(約15センチ)ほどの細い、先端を尖らせた串のようだ。なんというか、こういうので肉を刺したものをよく露天で売っている。
だが、その串にはなにやら文様のようなものが彫り込まれていて――
「
その声は、白い僧服をまとった少女が放ったものだ。
「――アーセナ? なぜ!」
「そんなことどうでもいいですから! コウモリを追い払ってくださあい!」
見れば、アーセナの周りにもギロチンプタランが群がりはじめている。
おれは慌てて串の束を拾い上げる。数本を抜き出し、驚く。本当だ。一本一本に
これなら、やれる!
「光の
手の中で串が光に変じる。
それをアーセナに襲いかかろうとするギロチンプタランの群れに投げつけた。
〈光の槍〉《スピア》が幾筋もの軌跡を描きながら、標的を射貫いていく。
「ひゃあっ!」
アーセナは頭を抱えてしゃがみこむ。よかった、無事みたいだ。
おれは翻って、おれの腕や背中に切りつけていた魔物たちに〈光の槍〉《スピア》を叩き込む。
だが、敵の数が多すぎる。おれはアーセナを急いで立たせると、なんとかギロチンプタランの巣から逃げ出したのだった。
アリノス戦記 琴鳴 @kotonarix
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