ゆりちゃんは多分すごいバカ

尾八原ジュージ

どうかしてるよゆりちゃんは

 初めてゆりちゃんに会った日のことは忘れられない。俺を見るなり「一目惚れです!」と初対面のくせにでかい声で叫んだ彼女は、世間一般の基準で言えば相当美少女なはずなのに、やってることはそんな具合だから俺はドン引きした。

「え? なんの話?」

 我ながらアホ面を下げて聞き返すと、彼女は「付き合ってください!」とまたでかい声で言った。

 よく晴れた日の午後だった。窓から明るい光が差し込んでいた。受付カウンターに置かれた花瓶から金木犀の香りがしていた。俺に突然交際を申し込んできた女の子は、白いワンピースの上に紺色の半袖のカーディガンを羽織って、真っ黒な髪をポニーテールにして、その色合いがすごく清潔な感じだった。大きな瞳がキラキラ輝いていて、これが恋する乙女の顔ってやつなのかと俺は思いつつ、いやないわ、と本人を前にして無遠慮にも呟いた。

 本当に「ないわ」のシチュエーションだった。だってここ病院だし。俺は点滴刺さってるし、検査室から病室まで看護師に付き添われて移動してる最中だし。そもそも一目惚れ要素がどこにあったのかわからなかった。やっぱり何かの間違いか、仮にガチ恋だとしたらこの子は結構やばいんじゃないか。

 何にせよつまみ出されるだろうな、と思いながらスルーして、俺は長らく入院している個室に戻った。ところがベッドに戻った俺の前に、うちの母と一緒に現れたのはさっきのヤバい女の子で、しかも当然のように枕元の椅子に腰かけ、横になっている俺の顔をじっと見つめてきた。

 おかしいだろ。どう考えてもおかしい。何でこの子連れてちゃったの母さん。全然知らないひとなんですけど。ちょっと母さん何で泣いてるの。なのに何でそんなに嬉しそうなの。ふたりの間に何があったの。そんな状況下だっていうのに見知らぬ女の子は顔を真っ赤にして、

「葉一くんって言うんですね! 私白石ゆりです! よーくんって呼んでいいですか!?」

 なんてほざく。なんで初対面なのにいきなり「よーくん」でいいと思ったのかよくわからないが、うるさいし面倒になって「いいですよ」と答えたら、彼女はウッシャと言ってガッツポーズをした。

「よーくん疲れてると思うので今日は帰ります! でもまた来ます!」

 嵐のような勢いでそう言うと、ゆりちゃんは頭をぺこっと下げていなくなった。小さな台風が半径一メートルで吹き荒れて過ぎ去ったのに、巻き込まれたような気分だった。


 そして翌日、ゆりちゃんは本当にやってきた。ウワッとなったというか、実際ウワッと言ってしまった。でも彼女は全然ひるまず「こんにちは、よーくん!」と元気に挨拶して、俺の枕元の椅子に座った。母も父も医師も看護師もいなかったので、俺はただ目を白黒させているしかなかった。

 ゆりちゃんは昨日、入院しているお祖母さんのお見舞いに来たのだという。それがなんで小児病棟なんかにいたかといえば、道に迷ったのだ。

「でもそれは、よーくんに会うための運命のいたずらだったんです!」

 そう言われてもはぁ、と返すしかない。

「よーくん、何か私にやってほしいことありませんか?」

「えっ、じゃあ疲れるので寝ててもいいですか」

「もちろん! どうぞどうぞ」

 だが、ゆりちゃんは全然帰る様子がなかった。仕方なく目を閉じてみたが椅子から立ち上がる気配すらない。シャッター音がした。寝顔を撮られたらしい。怖い。

 すぐに目を開けると絡まれる気がしたので、俺はじっと目をつむったまま考え事を始めた。考え事だけが今の俺に許された唯一の娯楽だった。

 まず恋愛とか一目惚れとか以前に、こんなに他人に執着されることがあるとは思いもしなかった。枕元に飾ってある「頑張れ」とか「早くよくなってね」とか書かれた、顔も合わせたことのないクラスメイトの寄せ書き。両親の悟りきったようなひどく疲れた顔。俺はもう生きているというより、死ぬまでの時間をなんとか潰しているような、そんな感じで残りの人生を消費していた。そこに新たにねじ込んでくる奴がいるなんて思いもしなかった。

「ふふふふふ」

 小さな笑い声がした。こっそり目を開けるとゆりちゃんの顔がものすごい近くにあった。俺が眠っていないのに気づくと、彼女は真っ赤になった。

 次の日もその次の日もゆりちゃんはやってきた。

「白石さん、確か同い年だよね? 学校あるでしょ? 親とか先生とか、何も言わないんですか?」

「あっ、全然大丈夫なんで、気にしないでください。あと白石さんじゃなくて、ゆりでいいです」

 いや気になるんですが。絶対大丈夫じゃないと思うんですがそこんとこどうなの? でもゆりちゃんは、そんな俺の小言は都合よく無視してしまう。

 なので、俺は彼女にちゃんと伝えることにした。気持ちは嬉しいけど、俺の病気は全然治る見込みがないどころかそろそろ余命が宣告されそうなくらいなので、お付き合いとかはできません、と。

「はい、知ってます」

 彼女はそう答えた。いや何で俺が伝えてないことを知ってるんですかね。やっぱり怖い。で、ゆりちゃんは一点の曇りなき眼で続ける。

「それでもよーくんのことが好きなんです。一日でも一分でも長く一緒にいたいんです。後悔したくないので。だめですか?」

 心配そうな彼女の顔を見ていると、俺はどうにも悪いことをしているような気持ちになって、だめですと言えなくなってしまう。俺は弱い。

 ゆりちゃんは学校を休み、部活(演劇部らしい。道理で声がでかい)を休み、あらゆる予定をキャンセルして、俺の病室にやってきた。毎日、毎日、毎日。

「何か食べたいものとかないですか!?」

「いや、ないです。あんまり食欲ないし」

「お花でも生けましょうか!?」

「いや、いいです。そんな興味ないし」

 ほんと、ゆりちゃんにやってほしいことなんてひとつも思いつかなかった。何か食べたいとかどこか行きたいとか、あるいは女の子とえっちなことしたいとか、そういうのはそれなりに体力のある人間がやることだ。だけど俺はもう植物みたいなものだから、そういう欲求はほとんどなかった。まったく動かなくていいはずの映画鑑賞すら、途中できつくなってやめてしまうのだ。ゆりちゃんがここにいたいなら、別に何もせずにただそこにいてくれればよかった。

 ゆりちゃんはその日たまたま、不思議なブラウスを着ていた。色んな花が一面に描かれていて、でもそれは黒いチューリップとか青い桜とかこの世に存在しなさそうなものばかりだった。その服なんか面白いな、と言うと彼女は喜んだ。

「じゃあ今度、なんか面白いもの持ってきます!」

「ハードル高くない? その宣言」

 で、ゆりちゃんは翌日オセロを持ってきた。俺は笑ってしまった。俺の体力が尽きるまで、俺たちはオセロを打った。


 こうして、何もやることのなかった生活に強引に入ってきたゆりちゃんの存在感は、どんどんどんどん大きくなっていった。

 正直、ちょっと楽しかった。でも迷惑だった。不思議な柄の服も、強くも弱くもないオセロも、毎日見せる恋してる乙女のキラキラ笑顔も、俺と話しているうちにワントーン上がってしまう声も。

 死ぬまでの暇つぶしだった俺の人生に、ゆりちゃんは突然生きる意味をぶち込んできたのだ。なのにもうどうにもならない残り時間の少なさ、砂時計の砂は落ちることを絶対にやめないし、上にある砂が増えることもない。だから迷惑だった。なんて残酷なことをするんだと思った。

 その日は雪が降っていた。とても静かな日だった。俺は思い切ってゆりちゃんに告白した。

「もう来ないでほしいんです」

 ゆりちゃんは真っ青な顔になって、お芝居みたいにガタガタ震えだした。俺は人間ってこんなになるんだ、と思った。これどうやって止めよう、なんて動揺していたら、ゆりちゃんが「じゃあもうよーくんに会えないってことですか」と言った。小さな声だった。

 だって遠からずそうなるでしょ、と俺は答えた。

「だったらその、遠からずそうなる日まで会いに来たっていいじゃないですか」

 ゆりちゃんは全然譲らなかった。大きな瞳から涙がぼたぼた流れて、それだけならまだしも鼻水まで垂らしながら「いいじゃないでづがぁ」と汚い顔で言うのが、俺にはなにひとつ笑えなかった。

 だってこんなことはよくないよ、ゆりちゃん。俺、君になんにも返してあげられないもん。付き合ってくださいったって、デートも何もできないもん。「遠からずそうなる日」まで、いたずらに君をここに通わせることしかできないんですよ。来たって別に話が弾むわけじゃないし、せいぜいオセロ打つくらいで、なのにどうしてそんな奴に会いたいんですか。

 彼女は真面目な顔で答えた。

「まずですね、よーくんの顔がめちゃくちゃ好きなんです」

 いや顔かい。でも確かに一目惚れって言ってたな、そんなに好きなタイプの顔なんかい。あまりに単純明快なので俺はうっかり笑ってしまった。ゆりちゃんも笑った。涙と鼻水をきちんと拭いて笑ったら、彼女は本当にかわいかった。

 バカだ。この子はバカに違いないと思った。勉強も部活も友情もほかの人との恋愛も全部ほったらかして、貴重な青春の数ヵ月をためらいもなく俺なんかに注ぎ込んでしまうなんて、多分すごいバカだ。

 結局、もう来るなと言ったことはなかったことになってしまって、ゆりちゃんは翌日も翌々日も俺のところにやってきた。


 ゆりちゃんが来るようになってから、俺の体調はちょっとだけ持ち直した。でもちょっとだけだった。いよいよ俺と両親は、次の夏には俺はもうこの世にいないだろうと、主治医から告げられた。

 そのことを伝えたとき、ゆりちゃんは黙って聞いていた。と思ったら、いつかみたいに汚い顔で泣き出した。

「夏なんてすぐじゃないですか」

「だから言ったでしょ」

 ゆりちゃんはガタンと大きな音を立てて立ち上がった。見上げた彼女の顔はどう見ても怒っていた。

「なんでそんな風に言えちゃうの!?」

 聞いたこともないような声で怒鳴って、彼女は病室を出ていた。相変わらず嵐のようだった。

 ゆりちゃんのいない病室はものすごく静かだった。枕の上にばたんと頭を戻して目を閉じたら、涙が後から後から流れて仕方なかった。もう来ないんだろうな、と思った。

 でも次の日、ゆりちゃんは何事もなかったみたいに顔を出した。拍子抜けしてしまった。

「色々考えたけど、やっぱり好きだし会いたいので来ました!」

「つえーな恋。じゃあオセロする?」

「それよりしたいことがあります」

 ゆりちゃんはニヤニヤニヤニヤしていた。「ちょっと目を閉じてください」

 俺は言われたとおりにした。鼻先になにか柔らかいものが当たった。なにこれ、と思ったら、それが離れて唇に触れた。目を開けると、睫毛が触れ合いそうなほど近くにゆりちゃんの顔があった。

「キス! 奪っちゃった!」

 ゆりちゃんはその後しばらく「むふふふふ」と嬉しそうに笑っていた。俺たちそもそも付き合ってたっけ? そういうことしていい間柄だっけ? でもまぁいいか。何かしら彼女に返してあげられた気がして、俺も嬉しかった。


 ある日からゆりちゃんの分厚いダッフルコートが軽やかなトレンチコートに変わって、ああ冬が遠ざかっていくんだな、とわかった。

 ある日からゆりちゃんがマフラーをしなくなって、そのうちコートを着なくなって、ロングブーツを履かなくなって、頭に桜の花びらをつけてきて、俺はオセロを一局打つのが精いっぱいになり、時々どこに石を置いたらいいのかすら全然わからなくなって、そんなときゆりちゃんはどこかが痛むようにぎゅっと細い眉をしかめた。

 そうやってどんどんどんどん、砂時計の残りの砂は落ちていった。


 梅雨が始まるにはもう、俺自身そろそろだな、というのがわかった。起きている時間は全身にひどい痛みが走って、でも鎮痛剤を投与されると今度はぼんやりして、ほとんど何もわからなくなってしまう。そんな中でもゆりちゃんがくると、そのことだけはよくわかった。白い霧がかかったみたいな頭に思い浮かぶのは、いつだってゆりちゃんの顔だった。両親でも主治医でもないなんて俺は恩知らずだなと思ったけど、そうなってしまうんだからどうしようもなかった。いつか彼女と話した「遠からずそうなる日」がぐんぐん近づいてくるのがわかった。ゆりちゃんの前でぼんやりしているのも嫌だけど、苦しんでいるところを見せるのも嫌だった。やっぱりゆりちゃんは残酷だ。それだけじゃない、自己中で、空気なんか読まなくて、面食いで、変な服着てて、学校もサボリだし、普通にしてたらモテるだろうに全然普通じゃないし、テンションの上下がおかしいし、ゆりちゃんに出会いさえしなければ俺はたぶんもっと早く死んでいて、今こんなに苦しい思いをしなくて済んだはずなのに。でも彼女がいると何か救われたような気持ちになって、手を握られると温かくて、今年の夏空を見たかったななんて柄にもないことを思ったりして、手をつないで海岸を歩く夢まで見て、それはすぐに白い霧の向こうに見えなくなるか、痛みに負けて消えてしまうかで、そんなときもやっぱりゆりちゃんが枕元にいるとそのことだけはわかるんだからすごい。グイグイ来るだけある。願わくば俺に一生操を立てたりしないで、そのうち他の男にもグイグイいってほしい。そいつの顔だけじゃなくて、性格とか健康状態とかいろんなことを総合的に判断して、俺のことなんか忘れてしまって、幸せな結婚とかしてくれると嬉しい。でも時々、たまに、まれに、思い出してほしいなと思うくらいは、俺もわがままでいいんじゃないかな。もう、こんな俺に残されていたはずの、考え事っていう娯楽も、どんどんできなくなって、息が、吸えない、肺に、脳に、酸素が、入っていかない、それでも、ゆりちゃんのことは、覚えている、一目惚れだと言ったときの、あの顔、声、ポニーテール、紺色のカーディガン、白いワンピース、金木犀の香り、いきなり付き合ってなんて、変な子だよ、ほんと、ゆりちゃん、ありがとう、俺も、君のことが、大好きです。

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