エピローグ1. 君子は豹変し、脅威は転換を強制する

 ━━2036年5月6日午前8時00分(東京・日本標準時)

 ━━2036年5月6日午前7時00分(台湾・台北標準時)


「ロシア艦隊は反転して遠ざかりました。

 ……さらに変針して函館あたりを狙う可能性もゼロではないですが……まずあり得んでしょう。

 貴国の支援のおかげです。心から感謝しますよ、総統」

「礼には及びません。もっとも苦しい時の友人こそが、真の友人なのです。

 これは東洋の知恵であり、真理ですからね、首相」

「まったくですな。

 その言葉は助けてくれた側が言うからこそ輝きを持つ。助けを求める側ではなくて、ね」

「ええ、そうですとも。

 あなた方日本人からそんなことを言い出していたなら、我々はとっくに見限っていたことでしょう。もう消えてしまったあの国のように」


 その2国間直通回線の秘匿度は、おそらく2036年の世界において極限と言える水準だった。


 通常はホットラインといっても、単なる通信ケーブルに過ぎない。

 少なくとも国と国をまたぐ場合において、それは無数のパケットと混在して取り扱われ、それぞれの首脳のもとへ届く。


 あるいは単なる秘書のメールボックスであったり、ボイスチャット・アカウントであることもしばしばだ。

 冷戦時代ですら電話回線でなく、テレタイプシステムへの接続だったこともある。


 だが、この回線だけは違った。

 そう。2034年に接続されたばかりの日台ホットラインにおいては、正真正銘の機密回線であり、物理的な独占回線でもあった。


「それにしても、私たちの会話だけで光ファイバーの一線を占有するとは、贅沢なシステムもあるものですね、首相」

「私にもわからんですが、一線占有だからこそ、盗聴時は即ノイズが出て分かるとかなんとか……量子波長がなんとか……そういうことらしいですよ、総統。

 ま、貴国のオードリーさんにいつか解説をお願いしたいところですな」

「ははは、まったくですね。タンのことですから、きっと喜んで話してくれますよ」

「………………ふう」

「どうなされたのです?」


 日本国首相が漏らした不意のため息に、台湾総統は気遣いの声をあげてみせる。


 だが、それは演技に過ぎない。

 気心の知れた相手━━しかし、見事に自分の計略へはまってくれた相手を、からかうようにいたぶる勝ち組の仕草だった。


「亞倍さんからそれとなく忠告を受けていたのに、結局今回もあなた方、台湾の思い通りですか……なんというか、あなただから言うのですが、すっかりやられてしまった感がありますな」

「自分でも驚いていますよ。

 安生さんにかつて言われたのです。我々の振る舞いは……少なくとも危機における外交のフィールドにおいて、国民党政府のようであると。

 ……長らく我が台湾に戒厳令を敷き、数々の民衆弾圧を繰り返し、遂に民主の手によって交代させた蒋介石のDNAを感じると」

「ええ、そうです。総統。

 あなた方台湾は人口2000万人台の島国です……我々日本よりもずっと小さな国です……それなのに、どんな柔道の名手よりも上手に、大国を投げ飛ばす。

 新型コロナウィルスの時もそうでした。

 あなた方は統一時代の中国を放り投げ、アメリカを引き倒し、欧州を寝技で思い通りに操ってみせた……」

「時代がそうさせるのでしょう。

 あるいは……『広い意味』での民族政府とはそういうものなのかもしれません。

 確かに我々台湾政府は、蒋中正の遺伝子を受け継いでいるのです。ですから、私が先の選挙で再び総統の座に呼ばれたのですよ」


 しばらくの沈黙があった。

 ふと、にゃーん、という猫の声がして、両者は笑い合う。


 声の主は2代目蔡想想ツァイ・シャンシャンだろうか。

 きっと先代と同じように、総統の膝の上でくつろいでいるに違いない。


「さて、それでは遠くないうちに今回のお礼を頂戴しますよ、首相」

「ええ、ええ。わかっていますとも、総統。

 まったく、私は歴史に断罪されるかもしれませんですよ。あのポピュリズム型のクソ強面野郎が、とんでもない密約を結びやがったと。

 台湾の大陸逆侵攻の暁には、好意的中立国として積極支援するなどと……私はね、民衆向けの宣伝塔がせいぜいです。

 欠点だらけの男です。勢いで押し切るのが得意なだけなんです。パワハラ野郎と罵られたこともあります。

 せいぜいオヤジみたいに官房長官くらいがいいところです。首相なんていう重責には向いてないのですよ」

「気落ちしてはいけません。

 亞倍さんだって、最初に政権を去った時は落ち込んだかもしれません。でも力を付けて、返り咲きました。

 あなたも何度だって活躍できる方だと、私は思っていますよ」

「感謝します。あなた方、台湾の支援と好意に。

 我が航空機の緊急潜伏基地を提供し、すべてのミサイル戦力を失った我々に補給を行い、そして米国との調停まで取り持ってくれた━━その大いなる温情に」

「期待します。あなた方、日本の支援と誠実さに。

 100年の時を経て、中国の『正しい』再統一を図る我々を助けてくれるという確約に」

「………………ああああああああああ~~~~!!

 俺はなんて約束してしまったんだ! ここはいっちょ、米国に負けといた方が良かったかもしれませんねえ!」

「ほほほほほほほほほ! 負けさせるはずがないではありませんか!

 何しろあのまま日本が『人工知能勢力圏』になっていたら、次の目標は間違いなく台湾の電子産業でしたからね!」


 それは歴史の闇に消えるであろう密談だった。

 だが、100年の友人のようにざっくばらんな会話だった。

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