第41話 雷帝は健在なり(1/2)

 ━━2036年4月26日午前1時00分(モスクワ・ロシア第2標準時)

 ━━2036年4月26日午前7時00分(東京・日本標準時)


「夜も更けてまいりました。お体にさわります。そろそろ休みにはなられてはいかがでしょうか」

「なあに構わないとも、イズコリエフ。

 歴史の変わり目だ……私は特等席でそれを観戦したい。ただ、それだけのことなのだ」

「はっ」


 日本人の父とロシア人の母を持つハーフの青年ユーリ・イズコリエフが『雷帝』の身の回りを世話するようになってから、既に2年が経っている。


(私のように未熟な者をおそばにおいてくださることに感謝すべきなのだろうが……)


 今にして思えば。

 モスクワ大学を卒業する半年ほど前……そう、ロシア政府機関の者が声をかけてきたあの日から『雷帝』は今日という日を最初から予測していたのではないかとすら思う。


「どうしたイズコリエフ。ウォトカのグラスが空だ。おかわりをそそいでくれ」

「……失礼いたします、ウラジーミル」


 ナイトガウンを纏ってベッドに横たわりつつ、グラスを掲げる男の名はウラジーミル・プーチン。

 10年ほど前にロシア大統領を退任し、黒海沿岸のリゾート地・ゲレンジークにて余生を楽しむ隠遁者である。


(だが、そのような説明を信じる者は……我々の敵対国にも、そして我がロシア国民にもいない)


 今やプーチンは隠遁者どころか『雷帝』の二つ名をほしいままにする、恐怖の圧制者そのものであった。

 経済の停滞と国民の不満を強権によって抑え付け、さらには内戦によって分裂・大混乱に陥った中国からは大量の人材を迎え入れた。

 それも人権弾圧や少数民族抑圧の最前線にいた技術者たちを率先して招聘したのである。


(結果として現在の我がロシアは……かつて中国で猛威をふるった『金盾』や『天網』をバージョンアップしたような一大監視国家となっている……)


 だが、その機能は中国におけるそれとはいささか異なる。


 かつて中国大陸をあまねく覆い尽くした監視網は、たしかに人権を弾圧するシステムではあった。

 しかし、それ以上に一般の中国人民にとっては底辺の治安を向上させる効果が著しかった。古き悪しき時代の中国で横行していたつまらぬ窃盗やくだらぬ不正……それらが放置され人民が泣き寝入りすることはなくなった。


(中国の監視カメラは……わずか5元の万引きですら、たちどころに犯人を特定したという)


 零細商店主の喜びは説明するまでもないだろう。

 ささいなプライバシー保護の懸念など、商品を盗まれる悔しさにくらべたら比較にすらならなかった。


(狭い路地裏に違法駐車するクルマは、監視員が巡回するまでもなくナンバーと運転者を照合して罰金が科されたという)


 地域住民や善良なドライバーは溜飲を下げ、快哉を叫んだことだろう。

 安全運転する者が評価され、不正は罰される。そんな当たり前がようやく庶民の世界に到来したのである。


 そういった意味では、確かに中国が築き上げた歴史上最大・人類史上空前絶後の監視抑圧システムは効果があったのだ。


 少なくとも彼ら中華文明にとっては『史記』の『商鞅列伝』を紐解くまでもなく、厳しい法を実際に守らせるシステムさえ整備すれば、道に落ちている物すら盗まない世界が誕生することは2400年前に証明済みだったと言える。


(だが、このロシアでは違う。

 悪意と不公正と実力主義のみが支配しているのだ)


 イズコリエフは知っている。

 内戦中の中国から亡命してきた『金盾』や『天網』の技術者をロシアがどのように扱ったかを。


 まず彼らは外界と隔絶された北極圏の封鎖研究所に監禁された。

 表向きの理由は安全を確保するためというものだったが、勘の良い亡命者はこの時点ですでにロシアの意図に気づいていたという。


 そして、彼らはすべての技術を強要され、徹底的に奪い尽くされた。

 知っていることを知らぬとはぐらかしたり、のらりくらりと取引を持ちかける中国大陸のテクニックはロシアに通じなかった。


 ロシアは老若男女の区別なく、定期作業のように苛烈な拷問を行った。

 毎日のように命乞いの悲鳴と処刑の銃声が響き渡り、なんとか脱走を成功させた者も自然の猛威にわずか数分で諦めざるを得なかった。


 北極圏の氷結地獄は中国大陸のいかなる土地よりも人間の生存を拒む世界だった。

 そして、そんな場所でロシア人は国家と社会と文明をつむいできたのである。


(……かくして、ロシア式の『金盾』と『天網』は中国の内戦勃発からわずか4年後の2033年に稼働した)


 しかしその運用はあまりにもいびつで、そして徹底的に特権階級を優遇したものだった。


 不正の証拠を記録するはずの監視カメラ網は、庶民を救うために運用されることは一切なかった。

 通信の検閲は『大衆のガス抜き』などまるで考慮することがない苛烈なものであり、誰もいない場所で不満を叫べるだけソ連時代の方がマシだという老人がいるほどだった。


 さらにロシアの支配者たちは極限まで効率化したシステムよりも、人間がいつでも介入することのできるシステムを好んだ。

 それはすなわち、恣意と悪意と不正がいつでも割り込んでくるということなのだ。


(その頂点にいるのがこの方……『雷帝』ウラジーミル・プーチンだ)


 当年とって84歳のプーチンの肉体は、全盛期に比べるとずいぶんと衰えている。

 隆々とした筋肉はわずかな皮下脂肪と骨だけになり、こけ落ちた頬とくぼんだ眼窩はもはや別人というべきだった。


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