第37話 戦うことができる者、戦うことができなかった者(2/2)

「うっわ、クソゴミExcelだ。はじめてみた。まだ現存してたんだ。

 しかもただプリントしただけのPDFとか。文字検索もできねえ。なにこれスクショより役に立たねえ。死ね」

「官公庁というのは保守的なものだからにゃ~。まあ、きーちんも働いてみればわかる!」

「私はこーにぃのお嫁さんに永久就職したあと、そのまま新中華人民共和国総書記に就任予定だから知りません。もちろんクソゴミExcelは焚書します」

「まあ、それはともかく、これをアメリカに放り込んでほしいのだよ。

 いよいよ戦争始まっちゃって、ワタシ達が使ってた離島経由の回線もジャミングひどくて使えないし。何とかお願いしたいんだよね」

「とりあえず言うだけ言ってみるけどね。期待はしないでねー」


 キノエはいかにも暇を持て余したように、巨大なテディベア型のチェアに体を沈めながらそう言った。


 実際のところ黎明の政府会議でも報告された通り、日本国内から海外への通信はシャットアウトされた状態である。


(コーにぃがなんて言うかなあ……どっちみち、広域ジャミングじゃ抜け道も見つからないし……あたし達にはどうしようもないけど……)


 街角のセンサー1つまでが無線通信をするこの時代では、離島のどこかで電波の届く距離にある異国の基地局と通信をしていたとしても、発信源の特定や通信の取り締まりは困難である。

 なぜなら、この時代の無線はクルマや自転車どころか、鳥の背中にのせて移動させることも可能だからだ。とても追いかけきれるものではない。


(だから広域ジャミングで無線通信全体を殺したのは正しい判断。

 アメリカからのサイバー攻撃対策が1番大きいだろうけど、とにかく大正解。もちろん地域住民も巻き添え食うけど、非常時にそんなこと言ってられないし)


 日本の領土内において他国の基地局と現実的な通信が可能な場所は、ロシア・統一朝鮮・台湾と接する区域である。

 この中でも特に広大なのが国後島が『目の前』に見える北海道・道東の一帯だった。その領域は知床半島から根室方面まで、海岸線の距離だけでも100kmにも及ぼうかという長大なものだ。


 こんな領域でロシアの基地局経由で危険な通信をされたら、守る日本側としてはたまったものではない。初動のサイバー攻撃で国家のインフラをズタズタにされた欧州の惨劇が待っているかもしれない。

 論理的に考えても、広域ジャミングで全面シャットアウトする以外の手はなかったのである。


(だけど、巻き添えを食ってあたしたちの活動はほぼ停止。

 それだったら日本政府に協力してた方が『戦後』の扱いもいい。

 負けたら負けたで保身に動くこともできるってわけで……うーん、これが今の最適解!

 キノエちゃんほんと頭いい! 最高! 天才! 宇宙は私のために動いてるぅぅぅぅぅぅぅぅ!)


 怜悧な思考がじわじわと自尊心とうぬぼれに塗りつぶされていき、キノエの体はぐねぐねとナメクジのように蠢き始める。

 口元には下品な微笑みが浮かび、ろくでもないイマジネーションが支配的となった。


「ぐへっ……えへっ……げへへへ……あたしが活躍したら、こーにぃも惚れ直してくれるし、愛の絆は盤石……こーにぃとの愛の巣は緑の丘にある白いおうちがいいなあ……男の子は2人、女の子も2人、あと男の娘が1人いても許す……あっ! こーにぃ、だめ! こんなところで! 確かに裸エプロンとかMBを用意したのはわたしだけどっ! 阿ッッッッッッッッッッッッッ!! 保ッッッッッッッッッ! 於ッッッッッッッッッッッッッッ!!」

「いつ見てもきーちんの妄想ダイヴは汚物が叫んでるみたいで、最悪だにゃあ……」


 普段ならば、うるさいやかましいと義兄が殴り込んでくるタイミングだったが、ここ数日はそんな光景も途絶えている。


(戦争が終わるまでは、この家も貸し切りだろうねー)


 鄭月ジェン・ユエは思う。

 後輩とその叔父が情報戦の最前線へ駆り出されている間に、盗聴器の1つも仕掛けておこうかと。

 現在キノエが使っている外窓設置のマイクよりは、よっぽど明確に音がひろえることだろう。


(いやいや、でもそれはそれで一線踏み越えちゃってるかにゃー……)


 他人の尊厳を気にしなくなったのはいつからだったか。

 自らのそれが中国官警の拷問によって奪われてからだろうか。


(でも、日本人ですら国家存亡の前には通信の自由を制限する……広域ジャミングに住民を巻き込む……反政府集会でもやれば、保守派がなだれこんで撲殺するのを警察は知らんぷりしているだろう……聖域の自由なんてない……だとしたら、それはどこまで守られるのか……いつまで守るべきなのか……『閾値』は一体なんなんだろうにゃあ……)


 少なくとも自分が生まれ育った香港の『閾値』は大幅に低かったのだろう。

 だから中国は香港の自由と繁栄を土足で踏みにじり、蹴散らした。


 今やそれは歴史の彼方に消え去った。

 2035年の香港にとっては━━少なくとも庶民にとっては、自由よりも先に本日の腹を満たすことの方が大切だ。


(日本の『失われた20年』じゃないけど、本当に香港は貧乏になった……おまけに、香港を超える勢いだった深センや広州まで内戦で何発も核が落ちた……だからこそ『広州および深センマカオ香港連合国』なんて呉越同舟が成立している……)


 鄭月ジェン・ユエは悩む。

 どこまで行っても他人事でしかない、この日本における戦争を思って悩む。

 日本が勝とうが負けようが知ったことではないからこそ悩む。


 なぜ、自分の故郷はその選択肢すら与えられずに叩き潰されてしまったのか。


(戦うことすら選べずに、香港の独立と自由は終わってしまったのか)


 せめて、あの新型コロナウィルスによるパンデミックがなかったならば━━などと。


(……防疫の名目でデモを取り締まられなければ、もっと時間が稼げたはずなのに)


 歴史にifはない。後悔しても過去は戻らない。

 それでも彼女は悩む。命あるかぎり悩み続けるだろう。


(2022年……2025年まで時間が稼げたならば……叔母さん、あんたもアメリカに逃げ出したりせずに、香港にとどまって戦っていたんじゃないかね……)


 ディスプレイの端に表示した世界地図を見ながら、彼女は思う。

 その視線は米国における政治の中枢━━ワシントンD.Cへ注がれている。

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