第8話 猪籠草は七色琥珀の香り(3/3)

「感動的、という顔ね」

「え? ああ、いや……凄いな、って思いまして」

「ふふふ、そうね。あなたはそうやって、凄い凄いという無邪気な顔をしている方がかわいいわ」


 特別展示室というだけあって、通常の展示エリアでは許可されていない行為も許されるらしい。

 S・パーティ・リノイエは広いソファへとコウを招くと、コーヒーメーカーのスイッチを入れた。


「本当は汎用作業ロボットに持ってこさせることもできるけど、ここは大事なお客様を接待することも多いから、こうして部屋の中で抽れるのよ」

「なるほど」

「コウくん、このシュガーを是非試してみて? スミソニアン財団がNASAと共同で研究した宇宙ステーション滞在用のシュガーなの」

「宇宙ステーション滞在用……ですか? 凄い色ですね……」


 ミルクは何杯か。あるいはブラックか。

 味の好みを訊ねることもなく、S・パーティ・リノイエはコウのカップへ七色に着色されたスティックシュガーを投入した。


「ええ、そうよ。宇宙空間が人類にとって過酷な環境なのは知っていると思うけど……必須栄養素や身体の健康を維持する成分を、完璧にミックスしているわ。

 もし補給が絶たれても、毎日このシュガーと一緒に水を飲めば、最大21日生存できるようになっているの」

「へえ……それは本当に凄いですね。でも僕はできればブラックが良かったですね。そっちのまだ砂糖を入れてない方を━━」

「ダメよ! とっておきなんだから!

 飲んでくれないと、お姉さんは悲しいわ。それとも、国家戦略人工知能主義の話……もっと聞きたくないの?」

「……そ、それは」

「コウくん-kunがお姉さんの言う通りにしてくれれば、本当は話してはいけないことも聞かせてあげてもいいのよ?

 この合衆国に存在する人工知能システムの詳しい仕組み。なぜ8柱が存在するのか。これからまもなく起こる『より良きな何かSomething nicer』。

 そのすべてを━━全部教えてあげてもいいのよ?」

「………………」


 沈黙する青年の脳内で「何かがおかしい」という警報音と、「目的に近づけるぞ!」という声援が同時に鳴り響いている。


(焦るな……ここにいるのはリノイエさん1人だ……多少の危険を冒したところで……何も取って食われるわけじゃない。

 僕は幸い、好感を持たれている……向こうから話そうとしてくれているんだ……警察に捕まるようなリスクもない……!)


 そう、取って食われることはない。

 それが致命的な判断の誤りだった。


「わかりました。いただきます」

「しっかり飲んでね。全部飲んでね。吐き出したりなんてしたら嫌よ」

「そんなことしませんよ……あっ、こういう味か。へえ、ほとんど甘みは感じないんですね」

「そりゃあ、糖分なんて入っていないもの」

「えっ……」


 獲物を前にした野獣の目で、うっすらと笑うS・パーティ・リノイエ。


(━━まずい)


 周回遅れで背筋を走り抜けた悪寒に、コウが身を固くしようとした時にはもう遅かった。


「う、ぐ……!」


 体に力が入らない。視界が明滅する。

 それは白と黒のライトオンオフではない。当たり前のトーンで見えていた室内の光景が、異様な色彩で受け止められていた。

 白かったはずの壁は紫の渦が巻き、S・パーティ・リノイエのゴシックドレスが赤黒く光ったと思ったら、緑と黄色の波模様に見える。


(き、気持ちが……悪い……!)


 目に見えるものがぐるりと90度回転した。肩に力が入らない。ぐったりと両腕が垂れているのがわかる。

 まぶたが異様に重い。今すぐにも意識が途切れそうだ。


あらあらOh,my-Oh,my、まあ大変。とっても魅力的な日本人青年にこんなところで押し倒されてしまったわ」


 自分の体の下にいるらしいS・パーティ・リノイエの白々しい声がかろうじて聞こえる。

 細く、いささか柔らかさのピークを過ぎた感触があった。


「ふふふ……アプローチをかけてきたのはあなたよ、コウくん。情熱的な極東の美形を歓迎します。お姉さん、そういうのは好きよ」

「う……あ……あなた、は……何を……混ぜ……て……!」

「据え膳食わぬは女の恥━━だったかしら、日本のことわざ。

 あくまで行動を起こしたのはあなたよ、コウくん-kun。大丈夫、何も心配はいらないわ。これは合意の上と判定されるから。

 30分もすれば目が覚めるわ……前後の記憶をぽっかりと欠落させて……ね。

 ふふふ……ふふふ……あははははははははははははっ……いい、いいわ……若い日本人美青年の肌……すばらしいわ、コウくん-kun……!!

 これだけは人工知能でも得られない……私のかわいい『ハイ・ハヴ』にも作り出せない……肉の快楽……あは、あはははははは……!!」

ハイHY……ハヴHV……?」


 どろどろに溶けた濃いスープをゆっくりとかき混ぜているような感覚だけが、青年の脳内を支配していた。

 ほとんど何も見えない。モザイク模様の視界がちらりと映ったかと思うと、ぎらぎらと目を血走らせたS・パーティ・リノイエの腰が上下に動いていた。

 激しい耳鳴りの中で、荒い息と粘液の泡立つ音がきこえた。そして、ドレスがこすれる感触があり━━彼は意識を失った。


 コウが次に目を覚ましたのは、およそ1時間近くが経過したあとだった。

 服は乱れ、下半身はしびれるような違和感に棒も穴も包まれていた。眠気は去っていたが、激しい頭痛と意識の混濁があった。


(なんだこれ……何かあったはずなのに……おかしい……何も覚えていない……)


 それが本来、一般人の入り込めない特別展示室であることにも気づかず、ふらふらと体を揺らしながらコウは部屋を出た。


 なんとなく見覚えがあるスミソニアン人工知能博物館の通路を歩き、エントランスロビーへやってくると、呆れたような顔のキミズと笑顔満面のS・パーティ・リノイエがいた。


「まあ、気がついたんですね、コウくん!

 急に倒れて、眠りはじめてしまうから、びっくりしたんですよ! ふふふ、でも仕方ないですよね? ミスター・キミズ、14時間の時差はあなたはもお辛いでしょう?」

「いやいや……まったく、お手数かけて申し訳ありませんな」

「でも、ミスター・キミズも顔色が悪いようですけども」

「いやー、こっちも時差ですよ、時差。ぶっ倒れるほどではありませんがね。ほれ、行くぞ、コー坊! もう約束の時間はとっくに終わってるんだからな」


 珍しく不機嫌さを露わにしてキミズが言う。どうやら自分は展示内容の説明を受けている最中に、時差から来る眠気に負けてしまったらしい。

 関係者用のソファの上でしばらく休み、ようやく目を覚ましたのが現在━━およそ1時間後ということだそうだ。


(そう……なのか?

 おかしい……なんだこれ……あの人、リノイエさんに何かを聞かされていたような……入っちゃいけない場所に入ったような……くそっ、なんなんだこれ)


 目の前で展開する事態を否定しようとする意識が、脳裏のどこかあったが、その根拠を青年は掴むことができなかった。

 若いくせになんだそのざまはたるんでるぞ、と叔父が妙に強く当たってきたが、1時間も待ちぼうけを食わされたのだから当然の怒りだと、コウは思った。


(くそっ。やっちゃった、ってことか……ダメだな、僕は……大学の研究室でも、ここでも、誰かに迷惑をかけて……)


 ああ、そうだ。疲れていたのだ。たるんでいたのだ。

 まったく情けない。自分はうまくやることができなかったのだ。

 そう思って、がっくりと肩を落とすしかなかった。


 博物館から出ようとしたとき、忘れ物を渡すように白衣の老人が走り寄ってきて、キミズに囁いた。


「ああ、そうそう。

 言い忘れておりましたが、あなた方が帰国される便ですが……悪いことは申しません。出来るだけ早い便になさい。

 出来れば今夜にも。これは彼女・・からの忠告です」


 その人物をコウは知らなかったし、叔父が顔を真っ青にしていた理由もわからなかった。


 ただ、事実としてキミズとコウはそれからワシントン・ダレス国際空港のターミナルへ直行した。

 本来、数日後だったはずの帰国便を今夜の便へ予約変更すると、早々に出国する。まだ倦怠感にさいなまれているコウを尻目に、キミズはラウンジのバーで酒を痛飲し始めた。


「叔父さん、何があったんだ……」


 どうもキミズの様子はおかしい。そして、自分の体調はもっとおかしい。


(やっぱり……)


 自分が急に1時間も眠りこけてしまったのは、何か別の要因があったのではないか?


(何かがあったんだ……僕にも叔父さんにも……あのスミソニアン人工知能博物館で、何かがあった!!)


 嫌な汗が出た。頭がクラクラして、また倒れそうになった。

 少し1人になって、気を落ち着けようとコウはトイレに入った。さすがに会員制ラウンジ設置のトイレは豪華なものである。ゆっくりと腰掛け、息を吐く。雑念が晴れ、気持ちを整理できた気がした。


「……なんだこれ?」


 だが、戦慄は再び襲い来る。

 青年は気づいた。股間に絡まった明らかに自分のものでない複数の体毛。そして、尻にまとわりついていた奇妙な粘液。


(まさか……!!)


 その可能性を直感しつつも。

 今はまだ訴えることも、叫ぶこともできないまま、未熟で無力な青年は自分が『取って食われる』側だったことを自覚した。

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