第7話 汎用人工知能の恐怖(2/2)

「は」


 心臓の鼓動が高鳴った。

 驚愕。動揺。警戒心。あるいは、恐怖。


(来やがった来やがった……また来やがった! こいつは『ただの人間』の部類じゃない……向こう側の相手……!!)


 人間ならば『英雄』と呼ばれるべきフィールドにいる存在だ。


(静まりやがれ……俺の心臓よ!)


 圧倒される。思考が真っ白に飛びそうになる。そこまでは予想の内である。

 だが、憧れのような感情が押し寄せてくるのは、なんとも御しがたい。自分ではどうあがいても届かない力や知性を前にした凡人がしばしば陥ってしまう心情である。今にも膝を突いてひれ伏してしまいたくなる。


(俺は日本人だろ! 負けるな、大和魂!)


 そんな状況で━━『ただの人間』を支えるものはなんだろうか。

 相手が敵ならば、怒りや憎悪。中立ならば、忠誠心や義務感。

 しかし、味方として手を差し伸べてくるならば……最後に頼るものは生まれ持ったルーツくらいしかないではないか。


「こんなにすぐお会いできるとはね、ハイ・ハヴ・百京クインテリオン……殿。

 光栄ですな。何か追加でご用命でしたかな?」

『まあ、殿ドノだなんて。時代劇を見ているようですね。うふふ』


 きらきらと光る銀の粒がちりばめられた長い桃の袖で口元を隠しながら、ハイ・ハヴ・百京クインテリオンは笑った。

 その笑い声が耳に届いた瞬間、ぐらり、とキミズの膝から力が抜けそうになった。


(この声を聞いてはいけない……!)


 妙に派手な外見は目くらましだ。この声こそが危険なのだと直感した。

 出来ることなら、耳を塞いでしまいたい気分だった。


『わたくしは……そして、アメリカ合衆国・国家戦略人工知能『ハイ・ハヴ』は、あなた方日本の人々を幸せにしたいのです』

「幸せ……?」

『ええ、そうです。

 汎用人工知能である国家戦略人工知能システム『ハイ・ハヴ』は合衆国に幸福をもたらすことに成功しました』

「ははは……まるで、うさんくさいベンチャーが「すべてのお客様に満足をお届けするため」と言うような表現ですな」


 ドクター・ハインリッヒが眉をひそめるような表現をわざわざキミズが選んだのは、今にも奪われそうになっている己の心に対する抵抗だったのかもしれない。


(そうか……!! 似てるんだ!)


 なぜだ? なぜこんなにこの声を心地よく感じる?

 自問の中で、ようやくキミズは気がついた。


 赤い瞳をした栗色の髪の乙女は、喋り方がそっくりなのだ。

 もはや遠い昔、優しい笑顔と温かな声だけはしっかりと覚えている初恋の人によく似ているのだ。


『あなたの感じるものを否定はしません。1人ひとりがそれぞれに、あなた方日本人がわたくしを評価してくださればいいのです。

 もし、拒絶されるようであれば、わたくしはただ去りましょう。

 けれど、わたくしを受け入れてくれるのであれば、誓って、あなた方日本人を幸せにしましょう』

「……端的にいえば、国家戦略人工知能技術の輸出セールスということですかな?」

『輸出。あるいは販売。あるいは━━同化や布教という人もいるかもしれません。

 ですが、実態にもっとも近い表現をするならば『コンピューター・システムとして接続し、利用していただきたい』ということです。

 なぜならば、国家戦略人工知能主義の目指すところは、あまねく世界すべての人々を幸せにすることなのですから。

 そう、たとえばあなたを遠い日の幸せな思い出で満たしてあげるように……ご理解いただけますか、キミズ社長』


 愕然とするキミズの反応を予測していたかのように、ハイ・ハヴ・百京クインテリオンは優しく微笑んだ。

 その雰囲気は気味が悪いほど、キミズの初恋の人に似ている。


(……調査済みだった、ってわけだ……!!)


 一体、どこで昔話として語ったものか。あるいは、小ネタの1つとして業界誌にでも載っていたものか。

 国家戦略人工知能システムはキミズについて、現在も過去もくまなく調べ上げていたのだ。そして、このハイ・ハヴ・百京クインテリオンはキミズを籠絡する手法として、初恋の人の面影を利用することを選択した。


(これは一種のハニートラップだ……だが、人間がやるレベルじゃない!

 少なくとも数十年分の書籍やドキュメントデータ……音声、インタビュー映像……途方もない天文学的なデータビッグ・データの中からに、俺という個人に関する情報だけを抽出して解析した!)


 ━━これが探偵や交渉人を題材にした物語であれば。

 主人公はふらりと立ち寄った図書館で、あるいは新聞や雑誌、ニュースサイトで目標に関する有用な情報を目にするだろう。


(それは所詮、偶然と運に過ぎない……だが、この『ハイ・ハヴ』はそれを全世界規模のデータの洪水の中から見つけ出す……!!)


 そして、個人ごとに最適化した外見で、仕草で、声で。

 言葉遣いで。話題で。肯定で。否定で。励まして。叱りつけて。

 あるいは、脅すことすらして、途方もない幸福感を与えるに違いない。


 確かにこの技術を心のケアに利用したならば、絶大な効果を発揮するに違いないとキミズは思った。

 聖母マリアか菩薩観音の腕に抱かれているような安らぎを得ることができるだろう。


 なおかつ、この情報収集と解析作業に人間の指示は一切不要だ。

 この汎用人工知能『ハイ・ハヴ』は他の誰にも指示されることなく、自律的に必要な情報を集め、キミズ建設社長・木水耀司きみず・ようじを籠絡するための手段として、『初恋の人』などという遙か過去のファクターを用いたのである。


(親が早逝しているぼっち男のカウンセリングなら、真っ先に母親の情報を集める……あるいは、まだ未練を引きずっている元カノの面影ですら再現してみせる……)


 この人工知能は何の支障もなく、そこまでやってくるに違いない。

 そんな情報がデータとして集められるわけがないと考えてよいのは、2000ゼロ年代までの話だ。

 何もかもがデータ化された2010年以降の世界では、どこかに何か手がかりがある。まして、国家の管理する情報に何も残っていないということはあり得ない。


(『合衆国は国家戦略として人工知能をすべての合衆国市民の幸福増進と安全保障のために活用し、また、すべての差別と不公平をなくすためにあらゆる局面で活用する』ってな……それが修正第31条第3節だ!)


 安全保障と幸福がセットで語られているということは、とっくの昔に始まっている『安全保障のための個人情報利用』にゴーサインが出ているということなのだ。


 一見、これは個人情報の保護と矛盾する。

 たとえば欧州などは「すべての情報を個人のコントロール下に」と意識高く謳い上げていた。

 しかし、そんな欧州の意識高さとは裏腹に、『超公衆情報群』ハイパー・パブリック・データセットの活用は米国で、そして統一時代の中国で大々的に進みつづけていたのだ。

 この流れを止めることはできない。いくら欧州が立法で阻止をはかったとしても、米国や中国に保存されているデータを完全に統制することはできないのだ。


「どうです、素晴らしいでしょう? ただ1度でも『ハイ・ハヴ』の恩恵に触れれば、もう抜け出せなくなるのですよ」


 キミズの心の動きを読んだかのように、ドクター・ハインリッヒは囁いた。


「それはスマートフォンを初めて使った時の衝撃にも似ている。

 分厚い紙の束と格闘していた会計士が、初めて表計算ソフトロータス1-2-3を使った時のようなものです。

 ミスター・キミズ、日本人すべてにこの素晴らしい幸福を体感してほしいとは、思いませんか?」

「アンタって人は……」

「自由と民主主義を世界に広めるという、かつてアメリカ合衆国が戴いた使命はおおむね20世紀に達成されました」


 正しくマッド・サイエンティストの顔で。


「最後に残った独裁と不正義の巨頭たる中国は、今や7つに分かれ、北によって統一された朝鮮半島もすでに焦土です。

 もはや、この地球上では自由と民主主義が最終的勝利をおさめたのです。

 ならば、21世紀のアメリカはさらに先へ進まなければならない。

 新しい時代に我ら合衆国が掲げるべきもの━━それこそが国家戦略人工知能主義なのですよ」


 そして、狂信的殉教者の目で、ドクター・ハインリッヒは言った。


『その目的は、世界のすべての人々を幸福にすることです』


 過激派の言葉を、聖母のささやきでハイ・ハヴ・百京クインテリオンは優しく抱きとめる。


『汎用人工知能による支援によって、あらゆる不正義、あらゆる不公平、あらゆる差別、あらゆる対立を最小化した、新しい世界の実現です』

「ええ、その通り! その通りですとも!

 そのために私は━━ハインリッヒ・フォン・ゲーデルは、多くの偉大なる研究者や開発者と共に、この国家戦略人工知能システム『ハイ・ハヴ』を作り上げたのです!

 キミズさん-san。尊敬すべき知性と精神を持った日本政府の公間諜ニンジャ・エージェントよ。

 あなたの上司にどうかこの素晴らしき恩寵を伝えてくれませんか? そして、共に幸福を満喫しようではありませんか!!」

「………………!!」


 イエスともノーともキミズは言えなかった。言えるはずがなかった。

 それは1つの国と━━そして、世界の行く先を決定づけるかもしれない問いかけだった。


「1つだけ……答えてくれ」


 キミズにできるのは、荒い息を必死で整えること。

 そして、いくばくかの時間稼ぎだけだった。


「ドクター・ハインリッヒ……あんたじゃなくて、ハイ・ハヴ・百京クインテリオンさんとやらに訊く」

『どうぞなんなりと、ミスター・キミズ』

俺たち日本人だけか?

 そんなことはないだろう。他の国の人間にも同じような勧誘をしているはずだ。

 あんた方アメリカが2030年代に成し遂げた、異様なほどの高度成長……人工知能経済とまで言われたその原動力……俺たちと同じように探ろうとした国の人間が、何人もここまでたどり着いたはずだ。

 いいや、それはホワイトハウスかもしれない。国防総省ペンタゴンかもしれない。

 だが、何にしても、日本以外の国の人間に、あんた達は俺と同じものを見せているはずだ。

 国家戦略人工知能主義の受け入れを迫ったはずだ!」

『お答えします。

 わたくしことハイ・ハヴ・百京クインテリオン、そして他の顕現存在セオファナイズドが対話した国家機関のエージェント━━それに準じる存在、そうキミズさんのような方は、6カ国に及びます』


 6カ国。今すぐにその内訳を知りたかった。

 だが、さすがに答えてくれるはずもない。


(おそらく主要先進国の半分……それと、特にアメリカと関係が深い国ってところか)


 日本が特別、周回遅れというわけではないようだったが、そもそもこの答えが本物という保証もない。


『英国はすでに承諾してくれましたが、ドイツとフランス……欧州連合の二大国からは拒絶されました』

「……へえ。

 そこまで言っていいのかね? 残り2カ国となりゃあ、俺にだって想像がつくぜ。お隣さんのカナダとオーストラリア、そしてイスラ━━」

『あなたがもっとも迅速な手段でこの情報を日本政府へ共有したとしても、一切の影響がないと判断しています。

 まもなく「より良きな何かSomething nicer」が始まりますから』

「より良き……だと」

『「最高に素敵nicest」には至りませんが、ただ「良きnice」よりは優れた出来事です』


 ハイ・ハヴ・百京クインテリオンはくすくすと笑っていた。相変わらずキミズの初恋の人そっくりの仕草であり、声だった。


(くそったれめ……!)


 吐き気を催して、毒づきたい。唾を吐きかけて、罵ってやりたい。そう考えるのに、胸の奥深くがどうしようもない幸福感に満たされていく。


 自分はこれほど心が弱い人間だったのか、とすら思う。

 だがそれは違う。相手があまりに準備万端だっただけなのだ。人間が数千、数万人、何百日、何年もかけて整えるような仕掛けを、いかなる指示もなく、決められたプログラムコードに従うこともなく、自律的にやってのける存在が相手なのだ。


(神……まさに神か)


 そんな表現すらキミズの脳裏には思い浮かぶ。だが、仰いで屈することだけは彼のプライドが許さない。

 もはや八百万の神を戴く日本人としての誇りだけではない。生まれ、成長し、己なりに己の力で生き抜いてきた1人の人間としての自分が許さないのだ。


「また会いましょう、キミズさん-san

 今やあなたと私は新しい世界のもっとも深い成り立ちを知った同志です。今後とも強い絆で結ばれた盟友たらんことを願っています」


 応接室を辞すとき、ドクター・ハインリッヒは一度も見せたことがなかった、快活な笑顔でそう言った。

 手を握り、肩を叩いた。知らない間に十年ものの友情が結ばれたかのようであった。


『また会いましょうね、耀司ようじちゃん。

 あなたとはもっと話がしたいです。日が暮れるまで。夜が明けるまで』


 そして、ハイ・ハヴ・百京クインテリオンは別れの声を、初恋の人そのままで発した。

 背中を向けたまま、キミズは震えざるを得なかった。涙すらこぼれそうになる。ずるい。卑怯だと叫び出したかった。


「━━━━━━━━━━━━━━ちくしょうめ!」


 しんとした静寂に満ちたスミソニアン人工知能博物館・エントランスホールに、男の叫びが響き渡った。


「……れんねえ


 キミズは懐から『フォン』スマホを取り出すと、久しく眺めることのなかった1枚の写真を表示した。

 彼がまだ中学生の頃の写真。そして、数十年前に事故死した近所の女性と一緒にうつっている写真だった。

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