後編 彼はカノジョで彼女はカレで
衝撃の女装デビューから数日後。
中学校から付き合いのある学生服に身を包んだ僕は、色濃く隈を浮かべた目をこすりながらろくに寝ていない体にはいささか酷な朝日の下をトボトボと登校している。
あの時不良から助けてくれた彼が脳裏にしっかりと刻まれてしまった僕は、連休が終わってもなお心を燻る表現の難しい感情も相まって、悶々と無為な連休を送っていた。しかも出された課題すら手がつけられない有様で、昨日ようやく重い腰を上げ一息ついた時にはすっかり夜が明けていたという……。
それでそのまま寝てしまったら遅刻は確実だからと、いつもより随分早い時間に出てきたわけなんだけど。
学校まであと少し、ふらふらと今にも夢の世界へご招待されそうな体を御しながら歩いていると、目の前の十字路を見慣れない女子生徒が横切った。
ここが明かり一つない暗闇だったら溶け込んでしまいそうなほどの綺麗な黒髪を押しのけられた風になびかせながら歩みを進める彼女は、均整の整った顔に自身の前髪が落とす影のせいもあってかどこか憂いを込めた表情を横顔に浮かべていて……とても綺麗な子だった。
ちらと僕の存在に気付いたであろう彼女の目から覗く青い瞳。その美しさに眠気も吹き飛んでしまった。
ーーもしかして隣町にある進学校の生徒だろうか。
ちなみに僕の通う高校は、男子は一般的な学生服、女子も紺のセーラー服なので、ブレザーにプリーツスカートといういで立ちの彼女が他校の生徒だというのはすぐに分かった。
遠目から見ても僕より確実に背が高いと分かる彼女。非常に綺麗な姿勢でゆっくりと主張しすぎない華やかさを醸し出しながら歩くその姿からも、僕の通うようなパッとしない学校に籍を置いていないことは歴然としていたわけで。
ーーそれにしてもどこかでみたことがある気がする。それも最近。でも出掛けたところなんてあの商店街くらいだし、あんな女の子はいなかったような。
そういえば彼女の目。あの時助けてくれたあの人と同じ色をしていたような……それに顔もそっくりだし……もしかして双子とか?…………あれ? だめだ、なんかくらくらしてきた。
急に視界が回りだして立っていられなくなった僕は胃から込み上げてくる気持ち悪さに耐えきれず近場の電柱へ縋るようにへたり込んだ。
ーーーーーーーー
「ーーそこの君、大丈夫?」
誰かが駆け寄ってくる。
ふらふらする頭をなんとか上げると、さっき通り過ぎたはずの彼女がしゃがみこんでいた。
どこか聞き覚えのあるその声は、記憶に残っているそれよりも少し高かった。
「ねぇ、顔が真っ青だよ? 気分でも悪いの?」
「い、いえ……すぐ良くなると思うんでお構いなく」
「全然そうは見えないんだけど……」
心配そうに覗き込む彼女の言う通り物凄くしんどい。けれど、なんとなく手を借りる気にはなれなかった。
「その制服〇〇高だよね? 始業時間までまだ余裕があるしよければ送ってこうか? そういえば名前はなんて呼べばいいかな?」
「……犬飼、恭介です……あなたは?」
「私は狛倉、狛倉早苗。短い間になるけれどよろしくね」
自らを狛倉と名乗った彼女はすかさず肩に掴まれと目で促してくる。
「いや本当に大丈夫ですから」
「もしかして私が女だからって遠慮しているの?」
「そんなことはーーってちょっと何してるんですか!」
そんな押し問答に痺れを切らしたのか。
スッと立ち上がった狛倉さんは、いきなり僕の脇と太ももの下に腕をまわしてきた。
絶賛体調不良な僕も流石にこれには抵抗した。
いきなり見ず知らずの人間を抱き抱えようとするなんて……いや、心配してくれての行動なんだろうけど、それにしたって女の子にお姫様抱っこされるって……。
王子様姿の狛倉さんに抱かれる華麗なドレスを身に纏った自分を想像する。
案外しっくり…………うん、こないな!
「だって立てないんだよね? だから抱き上げようとしただけなんだけど」
「もうちょっとやり方ってものがあるのでは?
例えば肩を貸してくれるとか」
「ふふっ……犬飼くんが軽そうなのが悪いんだよ?」
えぇ……それ言っちゃうの。
人によってはコンプレックスが刺激されるかもしれないことを、悪戯小僧のような顔をして平然と言ってのけた狛倉さん。
はっきり言ってドン引きである。
というか近い!
彼女が身じろぐ度に揺れる黒髪と、厚手の制服から主張する身長に比べていささか慎ましやかな胸がさっきからちらちらと視界に入ってきて心臓に悪い。
女装好きな僕も、中身は健全な思春期真っ盛りの男子なのだ。
まだ諦めきれないのかさし入れた手を一向に納めようとしない狛倉さんからなんとか逃れようと覚束ない足で立ち上がろうとした僕は、案の定「うわっ」と素っ頓狂な声を上げて体勢を崩した。
「危ない!」
後頭部を地面とキスさせる覚悟すら決まらないまま天を仰ぐ。
……しかしいつまでも衝撃に襲われることはなく、逆に物凄い力で引き寄せられてそのまま僕の顔をとてつもなく柔らかい何かが包んだ。
なんだこの柔らかさは……強いて例えるなら低反発枕。けれど、僕が知りうる限りでもっとも近い感触がそれなだけであって、より正確に表現できるものを僕には思いつくことができなかったのだ。ともかく……どこか安心させてくれる極上の匂いと触感は、今更ながら感じた危機感を洗い流してくれるようで、僕は埋まりながら安堵の息を漏らした。
「あっ」
突如頭上に降り注いだ艶っぽい声。
ハッとして恐る恐る顔を上げると、茹でダコも真っ青になるほど顔を上気させてプルプルと震える狛倉さんと目が合ってしまった。
まさかこれって……。
視線だけを下へ這わすと映るのは紺のブレザーから僅かにそれとわかる双丘が二つ。
三度視線を戻すと彼女は真っ赤な目元をひくつかせて笑っていた。
うわ……狛倉さんもしかして怒ってます?
でもこれは不可抗力……あっ、思いっ切りくんかくんかしてたわ……さよなら僕の人生。
「ご、ごめんなさい!!」
すぐに全身全霊の土下座を披露しようと体を捩ってみたけれど、狛倉さんは腕の力を弱めてくれなかった。
「き、気にしてないからそんなに怯えないで。はぁ……これじゃまるで私が犬飼くんを虐めているみたいじゃない」
「……すみません」
「ふふっ。それで具合はどう?」
そう聞かれてついさっきまで胸をぐるぐると渦巻いていた気持ち悪さが無くなっていることに気が付いたのでそれを伝えると狛倉さんは肩を竦めて仕方無さそうに笑っていた。
「ーーちょっとごめんなさい」
ようやく僕のことを開放した狛倉さんは何かに思い至ったようで、少し僕の顔をまじまじと観察してから地面に置いていた鞄を漁り始めた。そしていかにも高級そうな箱を、まるで白手袋でもはめているかのように取り出したのだ。
「これに見覚えない?」
「それはーー」
彼女から見えるように差し出された箱の中身を見た僕は、思わず出かかった声を両手で抑え込む。
狛倉さんが大事そうに箱へ入れていたのは白いカチューシャだった。
あしらわれた白百合がお気に入りだった僕は、それが先日落とした物だとすぐに分かった。
何故狛倉さんが持ってるんだろうか? ここにきて双子説が濃厚に……でもそれだと大事そうに持ち歩いている理由が無いしなあ……うーん。
「犬飼くん。これを着けてみてくれないかな?」
「へ? ……ああっ!?」
顎に手を当てていた僕は、声を上擦らせた彼女に抵抗する暇も与えられずカチューシャを着けられてしまった。
カチューシャを頭に乗せた男子学生の出来上がりである。
こんなの誰が得するんだよ……うぅ、誰かに見られでもしたら変質者扱いされるじゃないか。
彼女は羞恥に悶る僕を見て合点がいったようにキメ細やかな頬を僅かに上気させて頷いていた。
「やっぱり」「な、なんのことですか? ……それよりも恥ずかしいから外しますね」
実際恥ずかしかったし……そのついでとばかりに言葉を遮るようにしてカチューシャを外すと「ああ」とどこか残念そうな声が聞こえたんだけど何故だろうか。
ちなみに手元へ戻ってきた大切なカチューシャはというと、名残惜しそうにフリーズしている彼女に気付かれないように内心ホクホクでキッチリと僕の鞄へ忍ばせておいた。
元々の所有者は僕だし問題はないはずだよね!
「ーー犬飼くん。〇〇日に〇〇商店街でナンパされてたでしょ?」
ごほんと咳払いを一つして気を取り直した狛倉さんに、いきなり核心めいたことをぶつけられてむせてしまった。
何故それを知っているんだ……。
「な、なんの話ですか?」
「ふっふっふっ。今更誤魔化しても私の目は騙されないんだから」
自身の目元を指してドヤ顔を繰り広げる狛倉さん。
実は僕の顔には大小二つの泣きホクロが並んでいるんだけど、どうやら彼女はそのことを言っているようで僕が目元を指すとそうだと頷いた。
「き、気のせいじゃないですか? それにナンパって……僕、男ですよ?」
「あれだけ可愛い格好をして一人でウロウロしていたら間違われるのも仕方ないと思うんだけど?」
ああ……この人絶対知ってる。
さっきとは別の意味で人生終わった。
「そんな顔をしないで……悶え死にさせる気なの?」
えぇ……狛倉さん、そんな恍惚そうな笑みを浮べてどうしちゃったんですか?
もしかして生徒会長やってそうなナリをしておいて実はそういう人だったりするんですか?
「……ナンパされてたって人と僕が同一人物だという根拠は?」
「ふぅ。きっかけは犬飼くんの目元にあるホクロだったんだけど、カチューシャを見せた時の君……正直見つかって嬉しかったんでしょ?」
「うっ」
「あんなに大きな目を一杯に輝かせちゃって。しかも心底大切そうにしまうところを見せられたんだもの。もうあの時の子だって確信するしかないじゃない」
ばっちり見られてました……それも表情までしっかりと。
なにこれぇ……凄い恥ずかしいんですけど!
「だとしたらどうするんですか」
「え?」
「どうせ目的はお金なんですよね?」
「ちょっと待って」
もうそれしか考えられないじゃんか……でも目の前にいるのは恩人。しかし一度口を突いて出た言葉を止められなかった。
「あんな"気持ち悪い"格好してることバラされたくなかったらってーー」
「落ち着け!」
今まで柔らかな口調だった彼女から飛び出したとは思えない低く短い喝に言葉を封じ込められてしまった。
「犬飼くん。本当に自分で気持ちが悪いことしてるなんて思ってたの?」
一瞬で元の口調に戻った狛倉さんはとても悲しそうな顔をしていて、そんな表情をさせてしまった罪悪感から逃げるように目を逸らす。
「ほら、私を見てーーあの時に君を助けたの私なんだよ?」
腰丈まである綺麗な黒髪を後頭部で一束に纏めて僕に見せつける彼女は、格好こそ女の子だけどまさしくあの時悪漢から救ってくれたヒーローそのものだった。
「なんとなく……分かってました」
「気持ち悪かったかな?」
「まさか! むしろその、とてもカッコ良くって……素敵だと」
ああっ!! 本人を目の前にしてなに言っちゃってるの僕!
「ふふっ。ありがと」
本当に嬉しそうに後ろ手にはにかむ狛倉さんは、朝日をバックにとても輝いてみえた。
なにとも代えがたい芸術のような一瞬に僕の心はドクンと跳ねる。
「じゃあどうして」
「それは……君が今抱いた感想を私も抱いたから、かな?」
「え?」
「最初はか弱い女の子が不良共に絡まれてたからなんとなく放っておけなかっただけで私も気づかなかったのよ? でも君の体に触れたときにこの子男の子だってすぐ分かったの」
「なのにこんなに素敵で愛らしい姿になれるんだってびっくりしちゃった! 男の娘なんて想像の産物でしかないと思ってたのに……それが目の前に現れるなんて」
「オトコノコ? ちょっと狛倉さん?」
「ああ……きっと神様が私の元に遣わしてくれた天使に違いないって。それなのに名前を聞く前に逃げ出しちゃうんだもんなあ、君」
天使って……。
評価してくれるのは嬉しいけれどその表現はやめてほしい。
にわかに様子がおかしくなっていく狛倉さんは、自身を腕で抱きしめて興奮の度を増したかと思いきやいきなり切れ味鋭い青い瞳を細めてこちらを睨んできた。
そんなジト目で睨まれても……確かにお礼も言わず逃げ出した僕が悪いんだろうけど。
あの時は狛倉さんの事を男の人だって思っていたわけだし、僕も男バレは避けたかったから仕方なかったと言いますか……。
「お、落ち着いて」
「でもやっと見つかった! そんな犬飼くんにお願いがあるんだけど!!」
お、おお?!
さっきからコロコロと忙しい人だなこの美人さんは!!
や、やめ、やめろー!!
肩を掴んでそんなに強く揺すられると中身が……。
「こっ狛倉さん!わかっ分かりましたからそんなに揺すらないで!」
「あっごめんなさい……」
僕があからさまに青い顔をしていたのか、それに気づいた狛倉さんは一瞬でしおらしくなって開放してくれた。
「うっぷ……それでお願いってなんですか?」
「ーー私と友達になってほしいの」
「……」
「どうしたの?」
「い、いえ……思ってもいなかった展開に頭がついてこなくてですね」
「私とじゃ……いや、かな?」
「いいえ!狛倉さんみたいな可愛くてカッコいい方の友達なら是非……ハッ!!」
「……可愛い?」
コシがあり柔らかそうな髪に細指を絡ませてもじもじするいじらしい彼女の姿につい本音が出てしまった。
男なら美少女から友達になって欲しいと頼まれて嬉しくないわけがない……なんだか変態っぽいけれど、それを差し置いてもお釣りが帰ってきそうなほど破格の提案だった。
「……その、僕なんかで良ければ」
「本当!? じゃあ今週末私の家に来てくれるかな?」
「…………え、狛倉さんのですか?!」
自分の耳を疑った。けれど狛倉さんはさも当然のように「そうよ」と慎ましやかな胸を張る。
友達を家に呼ぶのは当然の流れなんだろうけど相手は友達になったばかりでそれも異性である。何故いきなり家へ呼ぶなんて無警戒すぎやしないだろうか……もっとこうカフェとかゲームセンターとか……あれ? どの選択肢をとってもデートになるのでは?
「いや、でもいきなり家にお邪魔するというのは……それじゃあまるで」
「ふふっ大丈夫。その日は誰もいないから何も気にすることはないのよ?」
違う、違うんだよ狛倉さん。僕が心配しているのはそのことじゃなくて……。確かにお呼ばれされてご両親と遭遇なんてしたくはないけれど。
有無を言わさない迫力でせまる狛倉さん。その威圧感に堪らず「……それじゃあお言葉に甘えて」と返すと、「決まりね!」と極めて満足そうに両手を腰に当てて頷いていた。
「あっ、この前の格好で〇〇駅前まで来てくれればいいから」
「え!?」
「私も着替えてから迎えに行くし……もしかして不満?」
「いやそんなことは…………ははは」
この前の格好って……まさか女の子の格好してこいってこと? あの、僕は健全な男女の友達としての交流を……ああ、またそんなジト目を向けないで! それをされると本当に心臓ごと真っ二つにされそうな気持ちになるんだよなあ。でも不思議と不快にならないというか……僕にそんな隠れた性癖が!? ははっそんな……そんなことあるわけないよね?
「良かった……あのね、犬飼くんにはいっぱい着てほしいものがあるの!」
「さいですか……」
パアッと顔を幼子のように輝かせて指折り数えだす狛倉さんに、僕はもう驚く元気もなく適当に相槌を返すしかなかった。
よくよく思い返せば狛倉さんとのファーストコンタクトはあれなわけで……彼女が気に入ってくれたのはその時の僕である。当然そこにノーマルな関係が生まれる余地なんてあるはずもなく。
確かに好きなことを共有できる友人が持てるというのは喜ぶべきなんだろうけど……いささか男としての沽券に関わるというか……とても言えた義理じゃないのは分かってるけどさ。
「じゃあもうそろそろ行かないとだから……これ連絡先。ちゃんと登録しておいてね」
「はい……それじゃあまた」
僕に番号云々を可愛らしい字で殴り書きした紙を押し付けた狛倉さんは、「バイバイ」と今日初めて遭遇した時に僕が抱いた清楚さで今までの全てを内包するように手を振ってから、黒髪をなびかせて行ってしまった……後から漂ってきた彼女の残り香が鼻をくすぐる。
ーー本当に嵐のような人だった。
影のある美人さんかと思って蓋を開いてみればまさかのナンパから助けてくれたあのイケメンで、しかも変態チックな本性を隠すことなく押し出してくるような残念美少女。「まあいいか」なんて軽く流せる僕も残念な部類に入るかもしれないけれど、これから巻き起こりそうな面倒事よりも、たくさん訪れるであろう楽しい出来事の数々に思わず胸を膨らませずにはいられなかったのだ。
これからまぁ色々とあるんだけど、それはまた別の話。
男の娘と男装の麗人が出会うだけの話 赤城其 @ruki_akagi8239
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