58◇願い

 祥華は黎基の傍らで兄を見つめた。

 緊張で胸が痛い。祥華は黎基と生きることを決めたけれど、兄はこれからどうするのだろうか。

 これからは何に縛られることもなく、自分のためだけを考えればいい。兄は、どのように生きたいのだろう。


 チヌアは長く話して疲れたのか、まぶたを伏せた。しばらくはそっとしておいた方がいい。

 黎基もそれを感じたようで、祥華と兄とを伴ってその場を抜ける。そこで兄に呼びかけた。


「晟伯」


 兄はすでに、黎基が何を言わんとするのかを察していたのかもしれない。苦笑気味にうなずいた。


「祥華の了承は得た。私の妃として迎えたい」


 こうはっきり告げられると祥華も恥ずかしさが勝り、自分の顔が赤くなっているのがわかった。そんな祥華を兄が見ているから余計に。

 ただ、口を開いた兄の表情は優しかった。


「妹は十年前、そのつもりでいました。陛下に嫁ぐと言い出して家族を困らせましたから。成長すれば現実を知って諦めるだろうと考えていたのですが、結果として妹の決断は変わらなかったということですね」


 十年前、貰い手がないとされた祥華を迎え入れてくれると言ってくれた。

 その約束が果たされる。

 ただ、この時、黎基はボソリ、と言った。


「十年前から?」


 何故そんなにも不思議そうにしているのか。

 まさかとは思うけれど、覚えていない――なんてことがあるのか。


「……あの時、私にかけてくださったお言葉を覚えていらっしゃらないのでしょうか?」


 そんなことはないと言ってほしかった。

 あの言葉をささえに生きてきた身としては。

 しかし、黎基はいつになく焦って見えた。


「え、それは……」


 十年も前の、子供同士のことだ。

 覚えていなくても仕方がない。わかっていても切ない。

 そうか、覚えていないのか。


 祥華が目を潤ませていると、兄がそれくらいにしておけというように、祥華の頭にポン、と手を載せた。


「いつまでも子供だと思っていたけれど、気がついたらこんなに大きくなっていたんだな。祥華、お前には願いを貫き通す力がある。その意志がこの結果を引き寄せたんだ。これからは、どうか幸せになってくれ」


 祥華の一番の理解者で、唯一の家族だった。

 そんな兄の幸せも祥華は願っている。うなずくと涙がポツリ、と零れた。


「妹をよろしくお願い致します」


 黎基に頭を下げる兄。そんな兄に黎基もうなずく。


「誓って、大切にする」


 その答えに、兄は満足しただろうか。

 黎基はそこで少し間を置くと、言った。


「……それとは別に、晟伯。ここに残り、私のもとで働いてくれぬだろうか? 償いや祥華のためにというのではない。晟伯の腕を見込んでのことなのだが」


 兄が京師みやこにいてくれたら嬉しい。どのみち、軽々しく会うことはできなくとも、そこにいると思えるだけで違う。

 ただし、兄が祥華の気持ちを察していたように、祥華もまた兄がどう答えるのかがわかるような気がした。


 兄はそっと微笑む。

 その笑顔はささやかなものであったが、祥華の目にはとても晴れやかに感じられた。


「お誘いは大変光栄に思います。けれど、私は、私たち家族を受け入れてくれた姜の里に恩があります。そして、あそこにも多くの患者がおります。今もこうして離れているのは心配で、できるだけ早く戻りたいと考えております。どうか、お許し頂きたいのですが」


 やはり、兄はそれを選ぶ。

 地位も名誉も何も、この兄には魅力的には映らないのだ。

 兄らしいと思う反面、もどかしくもある。ただし、そんなものはお互い様だと兄は言うだろう。

 祥華にはどれだけもどかしい思いをさせられたことかと。


 黎基はチラリと祥華を見遣った。祥華はそれでいいのかと問いたげな目だ。

 だから、そっとうなずいてみせる。


「兄さんが身の回りのことをちゃんとするのかが心配。私がいない間、食事はどうしていたの? 桃児が世話を焼いてくれた?」

「ああ、よくしてくれた。でも、これからは自分でする」


 いつまでも桃児の世話になってばかりはいられないと思うのだろう。しかし、桃児は世話を焼きたくて焼いている。気を遣って、もういいと断ったりしたら、かえって泣かれてしまいそうだ。

 それでも兄は断るのか、押しきられるのか、その結末を早く知りたいような気がした。


 祥華が少し笑うと、黎基も納得した様子だった。


「それでも、時には祥華と私に会いに来てもらえるだろうか?」


 その問いかけに、兄は静かに、まるで父や母の分も合わせたような重みでうなずいた。


 以前とは違うのだ。里から出るなとあの地に縛られるのではない。

 兄自身の意志で選び取り、里に根を張る。それは風に飛ばされた綿帽子が、遠い地で芽吹いたかのような奇跡ではあるのかもしれない。


「はい。またいずれ……」


 十年、互いに抱えた苦しみから解き放たれた。

 三人、手を握り合ってこれからの明るい未来を願った。

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