57◆仁術

 この状況下で、まず何から手をつけていいものやらというのが黎基の本音である。


 しかし、まず、何よりも優先したいのが母のことだ。母に、もう出てきても安全だと伝えねばならない。だからこそ、黎基は地方へ、皇帝の崩御、皇太子と秦太師の死去、政権の交代を伝える触れを出した。


 この機に乗じて改易革命を目論む者も出るかもしれない。地方の豪族が反旗を翻したとして、それを討ち果たすだけの余力はあるつもりだが、そこに母が巻き込まれないかだけが心配だった。


 母方の親族も今にこの禁城へ集結するだろう。黎基は間違いがないように地盤を固めてしまわなくてはならない。


 戦死者への慰霊、家族への見舞い、法体制、後宮の解体、すべきことは山のようにあり、自身の即位式などは後回しでいい。実質、先帝の男児は黎基の他に誰もいないのだから、異論の唱えようもない。


 本格的に忙しくなる前に、黎基は祥華を晟伯のところに連れていくつもりだった。

 祥華から返事をもらったことだから、正式な妃に迎えたいと晟伯に告げる。あと、晟伯にもこのままここに留まってほしかった。


 チヌアの容体が落ち着いてきたと聞いた。それでも、まだ心配なところである。チヌアが帰国できるようになるまでいてほしいというのもあるが、それが終わっても、できれば残ってほしい。

 それは祥華のためであり、そればかりでもない。



 祥華を迎えに行く。黎基が指示しておいた通り、祥華は着替えを済ませていたけれど、思いのほかあっさりとした装いだった。けれど、爽やかな青緑の襦裙がよく似合っている。結局のところ、男装だろうと、どんな格好をしていても、祥華のことだけは誰よりも美しく見えるのだ。


「よく似合っている」


 正直に言うと、祥華はほんの少し恥じらうような仕草をした。その肩を抱き、黎基は言う。


「晟伯に会いに行こう。チヌアのところにいる」

「はい……」


 祥華はうなずいたが不安そうだ。兄には反対されると思っているだろうか。晟伯の性格なら、妹の栄達を喜ばないのはわかっている。地位にも名誉にも動かされない人だから。


 ――チヌアは中和殿の方に運ばれている。武真兵たちの多くは禁城の外に待機しているのだが、数名の兵だけはチヌアについていた。殿の入り口を護る番犬のようにして立っていた兵は、黎基に頭を下げた。うなずいて中へ進むと、しんだいに寝かされているチヌアの細い声が聞こえた。


 何を話しているのかまでは聞こえないが、チヌアの声だとわかる。

 話せるほどに回復したようでほっとした。


「入るが、よいか?」


 声をかけてから戸に手を添えると、内側から開いた。開けてくれたのは晟伯だった。

 晟伯は祥華に目を向け、労わるような表情を見せた。その途端に祥華の目にも涙が滲んでいたが、ここで泣くことはしなかった。


「チヌア様のご容体は?」


 祥華もまずはそれが気になっているようだ。

 すると、晟伯は後ろに下がって黎基に拝礼した。


「奥におられます。少々ならお話もできますが、ご負担にならない程度で」

「ああ、わかった。ありがとう」


 横になったチヌアは、黎基と祥華とを認めるなり、土気色の顔で微笑んだ。顔色は悪いし、肩から胸にかけて巻かれた包帯に目が行く。痛々しい姿ではあるのだが、怪我をした直後のことを思うと、それでも随分回復した方だ。


「チヌア、具合はどうだ?」


 気遣いつつ声をかける。しんだいの脇に控えている武真兵の目つきが厳しかった。怪我人に無理をさせるなと言いたいのだろう。

 チヌアは持ち前の穏やかさで答えてくれた。


「ええ。もう平気です」


 それは言いすぎだろう。黎基は苦笑した。


「いや、過信はよくない。チヌアには随分と助けられたから、ここでゆっくりと怪我を癒してくれ」


 すると、チヌアは乾いた喉で声を立てて笑った。傷は絶えず痛むだろう。額には脂汗が浮いている。

 それでも、目には確かな光があった。


「平気だと申しましたのは、心のことでしょうか」

「心?」


 そのまま問い返すと、チヌアはうなずいた。


「ええ。私はこの戦で散る覚悟でおりました。二度と祖国へは戻らぬつもりで来たのです」


 チヌアの家臣がそのような憶測を口にしていた。

 ダムディンがそのつもりでチヌアを送り出したのだと思い込んでいると。


「兄上は絶対君主ですから、私の助けが必要だとは思いません。それどころか、先王の子である私がいる方がかえって兄上の周囲が騒がしくなるのも事実です。けれど、私は兄上に逆らったことはありません。不安要素であっても断罪する理由は乏しかったのでしょう。兄上は私が自ら最良を選び取れる方法を与えたのだと考えました」


 語りながら、チヌアの胸は苦しげに上下していた。あまり喋らせない方がいいのかと思ったが、チヌアは吐き出してしまいたいのかもしれない。


「戦死ならば名誉は保たれます。これでいいのだと、私は生きるつもりはありませんでした。それなのに、軍医の方や晟伯殿はそんな私の手当てを、それは懸命に施してくれたのです」


 それが仕事――いや、使命だと感じているのだろう。王族も庶民も同じように診る。特に晟伯はそうだろう。


「寝る間も惜しんで、生きる気のない私の世話を焼いてくれるのです。もういい、放っておいてほしいと思っても、そんなことは言えぬほど、それは懸命に。私は、晟伯殿たちに対して申し訳ないような恥ずかしい気持ちになりました。何故、ここまでされて生きようとしないのか……」


 チヌアの目に涙が浮き、それがまなじりから零れた。


「私が、勝手に恐れただけなのです。兄上は私を迎え入れてくれるだろうかと。本当は、祖国の空にも大地にも焦がれてやまないのに」


 穏やかなチヌアが抱えていた葛藤に触れると、黎基もかける言葉に躊躇った。ダムディンのような男を兄に持つ苦悩だ。何を言っても滑稽に上滑りしてしまう。

 しかし、チヌアはふと笑った。


「この不安を聞いてもらって、そうしたら晟伯殿に言われました。弟妹というのは可愛いものなのだと。特にたった一人ともなれば尚更だから、それを兄王から奪ってはいけないと。あの兄上にそうした気持ちが本当にあるのかはわかりませんが、私は望みを繋いでみたいと思えました。……だから、もう平気だと申し上げたのです」


 チヌアは生きる気力を取り戻した。

 もう死ぬことを願ったりしない。生きてダムディンのところに帰る。

 それでいい。ダムディンはチヌアを待っていると黎基も思う。


 晟伯の方を振り返ると、穏やかに微笑みらしきものを浮かべていた。それほど表情が変わる男ではないが、チヌアの心を喜ばしく感じているのが受け取れた。


 医術は仁術である。

 治療法や薬の知識ももちろん大事ではあるが、こうして患者に生きる気力を与える者を名医と呼ぶではないだろうか。

 晟伯は父を越える医者になる。もしかすると、すでにそうであるのかもしれない。


 そして、あの時チヌアが放った一矢が晟伯を黎基の軍に留まらせた。その晟伯がチヌアを救ったのだ。チヌアは自らの行いによって命を長らえたとも言える。


 運命は巡っている。

 悪しき行いは自らに返り、秦一族が亡びるように。

 黎基もまた、それを常に心に留めておかなくてはならない。

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