56◇またいつか
「う……」
呻いて、祥華は目を覚ました。
黎基の腕が祥華を
この
「おはよう、祥華」
「え、あ、お、おはよう、ございますっ」
二人、
祥華は気が遠くなりそうだった。これが現実だと、心のうちで繰り返して自分を落ち着ける。
「どうした? もしや、昨晩のことを覚えていないのか?」
差し込む朝日の中、黎基がそんなことを言って祥華のまぶたに口づけを落とした。
カッと頬がほてり、頭が真っ白になるには十分な状況だが、本気で何も覚えていなかった。覚えていないうちに何が起こったのだろう。
「そ、それは、え、えっと……」
手でそわそわと、自分の襟元を辿ってみる。特に乱れてはいないが、確かめたくなったのも当然だろう。黎基はゆっくりと起き上がると、笑いを噛み殺しているように見えた。
「祥華が急に気を失って驚いたが、思えば疲れていて当然だな。気遣いが足りずにすまない。そのまま横にさせただけで、もちろん何もしていない」
「は、はい、その、すみません……」
恥ずかしくなって顔を隠すと、黎基はそんな祥華の頭を優しく撫でた。
「祥華はもう少し休んでいるといい。私も区切りがついたら戻るから」
黎基はとても忙しいはずなのだ。それをこんなにも長く祥華のそばにいたのは、劉補佐辺りが気を利かせてのことだとしたら、さらに恥ずかしい。
立ち上がりかけた黎基は、ふと衣の襟をくつろげて首から提げたものを外した。それを祥華に差し出してくる。
「祥華、これを」
その守り袋を見るなり、祥華は飛び起きた。
「あっ! それは……」
「祥華のものだろう?」
うなずきかけて、祥華は苦笑した。
「いえ、それは黎基様のものです」
「うん?」
黎基は首をかしげる。中をまだ見ていないらしい。
祥華は手を伸ばして守り袋の中から石の粒を取り出した。
「これは十年前のあの日、離宮で黎基様が首から提げていたうちの一粒です。どさくさで私が持ってきてしまって、いつかお返しできたらと思って身につけていました」
天河石を手渡すと、黎基はそれをじっと見つめていた。
「覚えておられませんか?」
覚えていないらしい。普段から装飾品の数々を身に着けていたのだろう。あの日、どんな装いであったのかも覚えていないのだ。十年も前のことなのだから、そんなものだろう。
それでも、黎基は覚えていないことが罪のように感じたのかもしれない。少し困って見えた。
「この十年、私のお守りでした。でも、もうそれがなくても、黎基様のおそばにいられるのですから、お返しします」
以前は、この石が黎基との繋がりを確かめられる数少ないものだった。
けれど、今となってはそれが必要ないほど近い。だから、もう祥華の手を離れてもいいのだ。
それを言うと、黎基は嬉しそうに、ほんのりと頬を染めて微笑んだ。
「ありがとう、祥華」
祥華もまた、涙が出るほどに嬉しくなって自然と微笑んでいた。
黎基が行ってしまってから、祥華はこの立派過ぎる部屋の中で自分がちっぽけに思えて不安になっていた。しかし、その不安とも戦って、次第に慣れていいかなくてはならない。
ぼうっとして、それから女性の声で我に返る。
「失礼してもよろしいでしょうか?」
「は、はい!」
「お召し変えのお手伝いをせよと申しつかりました」
いつまでも女官の恰好ではいけないのかもしれない。どんな装いをするのが適当なのかはわからないが、黎基のそばにいるのに不都合がないようにということなら、少々は着飾るのだろう。
祥華はその女官たちに向けて言った。
「わかりました。でも、少しだけ待っていてください」
「えっ?」
女官たちの方が戸惑うが、祥華はその隙間をすり抜けて外へ出た。
祥華の行先は玉良のところだ。あれから怪我の具合はどうだろうかと様子を見に行きたかった。
チヌアも負傷しているそうだが、多分違うところにいる。チヌアのことも気になるが、まずは玉良からだ。
あちこち動き回るのにまだ身軽な恰好でいたかった。
祥華が負傷者を集めた宮に踏み入ると、皆が一度目を向けたが、その後すぐに気に留められなくなった。女官の恰好をしているからだろう。
祥華は昨日玉良が寝かされていた場所に別の男が寝かされていたので、その男に声をかける。
「あの……」
その男は比較的軽傷であった。祥華を見て黙ると、ハッと何かに気づいたふうだった。
「あっ、昨日の!」
昨日、なんだというのか。
虎と戦っていた娘だと言いたいのか。それとも、黎基に抱き締められていたと言うのか。
祥華は男に余計なことを問われる前にこちらから切り出す。
「あの、昨日ここに寝かされていた人はどこに移ったのでしょう?」
すると、男は困ったように太い眉を動かした。
「ああ、あの線の細い女顔のやつだろ? 結構ひどい怪我だった……」
まさか、あの後に容体が急変してしまったのかと祥華はゾッと体を震わせた。
しかし、そうではなかった。
「ひどい怪我だったのに、いないらしいんだよ。どこにも」
「え……っ」
どこにも、いない。
祥華は驚いて医者や患者、手当たり次第に玉良を見なかったかと訊ねて回った。
しかし、皆が忙しく、治療や自らの痛みと戦っている中、他人に気を取られる者は少なかったのかもしれない。あやふやな返答ばかりだった。
「意識もはっきりとしていた。少なくとも、誰かに連れ去られたということではないと思うが……」
医者の一人がそんなことを言った。
本当は、祥華にはうっすらとわかっていたのかもしれない。
もう爛石に縛られることはなくとも、玉良は黎基にかしずいて生きるつもりはないのだ。
この国の片隅の、どこかでひっそりと過ごすつもりで出ていったのだろうか。
捜しても、きっと見つからない気がした。
だとしても、またいつか出会うことがあればいい。互いに生きてさえいれば、そんな日が来るかもしれない。
それが欲張りなことだとしても、今はそれを願うしかなかった。
複雑な思いを抱えながら祥華が戻ろうとすると、入り口で見知った二人と出くわした。
「ああっ! 策瑛! 鶴翼!」
ただ、策瑛はまるで気づいていなかったのだ。展可――祥華が女だということに。
しかも女官の装いをしているから余計にわからなかったのだろう。鶴翼はぽやんとしていて、何を考えているのかやっぱりわからない。
「私だよ。展可だ」
仕方がないから笑いを含みつつ名乗った。すると、鶴翼は驚いているのかもよくわからないのんびりとした声で、あ、と言った。虎から助けてもらった時、祥華は男装ではなかった。もしかすると、あの女の人は展可に似ているな、くらいには思っていたのかもしれない。
策瑛はというと、理解が追いついていないようだ。呆然としている。
そんな策瑛の脇腹を鶴翼が肘でつついて、ようやく我に返っていた。
「展可……?」
「うん。本当の名前は蔡祥華って言うんだ。嘘をついていてごめん」
「蔡? それって、蔡晟伯先生の妹ってこと?」
「そうだよ。里の人の名前を借りて従軍したんだ」
「どうりで袁蓮と仲が良かったわけだ」
女同士だったんだから、と策瑛は言いたいのだろうけれど、ここはややこしくなるから苦笑するしかない。その響きにも心が痛む。
二人も袁蓮はどうしたのかと訊ねない。それを訊いてはいけないと思っているのかもしれない。
何かを知っているのだろうか。それを訊ねたい思いと、訊ねたくない思いとがあった。
結局、怖くて話を変えてしまうのだ。
「鶴翼、虎から助けてくれてありがとう。あの時は助かったよ。すごい技だった」
すると、鶴翼は得意げに笑った。大きな蜻蛉を捕まえた幼子にしか見えない。
「あんなのたいしたことないよ。だって、僕――」
何かを言いかけた鶴翼の口を何故か策瑛が塞いだ。もぐもぐ、何かを言っているが聞き取れない。
「蔡先生の妹ってことは、殿下が見初めたっていうのは……」
劉補佐辺りが教えたのだろうか。祥華は照れながらうなずいた。
策瑛は、出会った頃と何も変わらない笑顔を向けてくれた。
「展可――じゃない、祥華さん、だな。幸せを願っているよ」
「ありがとう、策瑛」
策瑛のことは劉補佐が手放さない気がする。里には帰らずここに留まりそうだ。宮仕えをするには善良すぎる人だが、この善良さに皆が影響されたらいいのにと思う。
あまり長くは話せなかったが、別れができただけでもよかった。
女官たちのもとへ戻ると、祥華は着替えた。あまり飾り立てすぎず、簡素な衣を選んだが、それでも十分に上等だった。
それから食事を取らせてもらうと、しばらくして黎基がやってきた。
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