55◇真心
――こんな態度を取ってはいけない。
祥華はそう思いつつも、以前のようには振る舞えなかった。
目に見えて黎基が傷ついた顔をする。
それでも、祥華の表情は硬く、目を合わせることはできなかった。
理由はわかっている。自分だけはわかっている。黎基は知らない。
だから、祥華がこうした態度を取ってしまう理由を考え、まるで違うことを推測するのだ。
互いに手が届かない距離を保ちつつ、黎基は机を拠りどころと求めるように触れながらつぶやく。
「君には謝らなければいけないことがたくさんある。……まずは私がした最低の行為からだ」
苦しそうにこれを言った。
最低な行為とは、何を指しているのか。祥華はこの時、黎基が何を言わんとするのかがわからなかった。
「私はあの時はまだ、君の正体は『愽展可の妹』だと思っていた。君が祥華だとは気づいていなかった」
女である以上、愽家の長男である展可ではない。少し探りを入れて浮上したのが展可の妹、桃児ということだ。
その勘違いにはうなずける。何故そんなにも苦しそうに告げるのかがわからないだけだ。
「愽桃児という娘は、医者である晟伯に好意を持っているという」
「それが……何か?」
小さな里の出来事だ。どうしてそんなことを黎基が知っているのかと驚いた。
そうしたら、黎基が赤面したように見えた。
「それで、晟伯に嫉妬した。君は想いを寄せる晟伯のために私のもとへやってきたのかと」
そういえば、晟伯の嘆願をするために来たのかというようなことを口走っていたかもしれない。
あの時は兄の名が出たことで祥華も平常心を失い、ただ慌てたのだ。
その後、すぐに――。
段々思い出してくると、祥華はますます黎基の顔が見られなかった。黎基の声だけが哀切に響く。
「そうではないと否定してほしかった。晟伯ではなく私を見てほしくて、それでもどう振る舞えばいいのかわからず、八つ当たりのようにあんな真似をしてしまった。本当にすまない」
「そうだったのですか……」
あの時、黎基が苦しげに見えたのは間違いではなかったのだ。不興を買ったと思っていたけれど、それも違った。そのことにほんの少し救われる。
それから――と、黎基は続けた。祥華は身構えてしまい、それに対して黎基が苦笑したのがわかった。
「たかが十年だ。それなのに、私は君が祥華だと気づけなかった。父親の蔡先生を奪い、穏やかな暮らしを壊してしまったというのに、顔を合わせてもわからないとは不甲斐ないにもほどがある」
黎基が自分たち兄妹に罪悪感を覚えていたと考えたことはなかった。恨まれているという心配しかしてこなかったのだ。
これには祥華の方が困った。
「い、いえ。私が正体を隠したのですから。それに、父の過失で殿下――いえ、陛下を害してしまったのです。陛下がそのようにお感じになることではございません」
これは建前ではない。黎基は何も悪くないのだから。
すると、黎基は手を額に当て、深々とため息をついた。その仕草はひどく疲れて見えた。
「これを言えば、本当に祥華は私を軽蔑するだろう」
「えっ?」
「蔡先生は私に、薬を飲むなと教えてくれた。過失などはなかった。謀略の中で私の命を救ってくれたのは蔡先生だ。その恩人を、私は己が助かるために見殺しにするしかなかったのだ」
祥華は黎基の告白を愕然として聞いた。
父の過失はなかったと、その言葉は真実なのか。
「私の目は、ずっと見えていた。命を狙われていると知って、目が見えぬ振りをして廃太子となるように仕向け、生き延びるという選択をした。そのせいで蔡先生は処罰されたのだ。あれは私の咎だ」
この時、祥華はどうやって立っているのかが不思議なくらいだった。水の中を漂っているように現実味がない。
ただ、自らのうちに長年かけて凝り固まっていたものが剥がれていくような感覚だった。
蛭のように血を吸い、絶えず痛みを与え続ける罪が消えて、はらり、はらり、と剝がれて落ちて消えていく。
そして、心の奥に残るのは母と見上げた星空だった。
母は父を最後まで信じていた。正しかったのは母だ。
あの優しかった父を再び誇らしく思ってもいいのかと思ったら、涙が溢れた。
「悪いのは、父を巻き込んで陛下のお命を狙った者です。陛下も、御母堂様も、私の家族もすべて巻き込まれて苦しんだだけです。そのようには仰らないでください」
十年嘘をつき続け、恩人を犠牲にしたと自責していた黎基を恨む気持ちはない。
涙を拭いながらやっとそれだけを言う。それでも黎基はまだ悲しそうな目をしていた。
「蔡先生の汚名は必ず雪ぐ。しかし、蘇らせて返してやることだけはできない。……祥華には、こんな私は赦してもらえぬのだろうな」
まるで体のどこかが痛むかのように、顔を歪めてつぶやいた。
どうして祥華が黎基を赦さないなどと思うのだろう。祥華は黎基を恨んだことなどない。
だから、かぶりを振った。
「赦すも何も、私は……」
言いかけて、黎基が考えていることがわかった。
この距離だ。祥華は黎基との距離を詰めようとしない。目も合わさない。
その態度が黎基にそう思わせるのだ。それに気づくと、祥華は自分の胸元をグッと押えた。鼓動が、虎と戦った時よりも乱れているのではないかと思えた。
黎基はそっと、これ以上祥華を傷つけないようにと気遣いながら声をかけてくれている。
「私といれば、波乱続きかもしれない。なんの苦労もかけないとは言えない。贅沢をさせてやれるかと言えば、それで祥華が喜ぶとは思えない。……結局、私自身が祥華に与えられるものは己だけだ。傷つけた分だけ、祥華には真心を持って接したい。それではいけないだろうか」
立場も取り払って、黎基はただ一人の人間として祥華にこう言ってくれている。それに向き合っていないのは祥華の方だ。
この距離を保つのは、自分のため。
黎基は祥華が蔡桂成の娘だと知っても突き放さなかった。むしろ、こうして詫びて受け入れてくれている。だからこそ――祥華は戸惑う。
これまでは償いだとして黎基のそばにいた。そして、これは長く続くことではないと思っていた。
許されないことだから、今だけだからと言い訳ができていたのだ。
いくつもの障壁があって、それを理由に祥華は己の心を護っていた。黎基とは到底結ばれるはずがない。その理由は自分以外のところにあって、祥華がどうにかできることではないのだと。
しかし、その壁が徐々に壊れていく。黎基のそばにいられない理由が消えていく。
そうしたら、不意に怖くなった。
祥華はただの平凡な娘でしかなく、長くそばにいれば、そのことに黎基がいずれ気づいてしまうのではないかと。惜しまれながら去った方がいいような気がしてしまう。
踏み込めない、この臆病な心が黎基を傷つけている。
「私は……」
祥華の何ということもないつぶやきに、黎基が過敏に肩を揺らした。
強張った顔をして、ただ真剣に祥華からの返答を待っていてくれる。黎基の言葉通り、誠実に祥華を想ってくれているのだと、嫌でも伝わった。
ドクリ、ドクリ、と心臓が主張する。
祥華が黎基についてきた嘘は、ほとんどが明るみに出た。
けれど、たったひとつだけまだ本当のことを自分の口から伝えていない。
本当は、ずっと、十年前から黎基のことが好きだった。再会して、この気持ちは強まるばかりだった。そばにいるのは贖罪であって、惹かれていないなんて嘘だ。
自分の心に嘘をつきたくても、隠し通せるほどの気持ちではない。
このまま、何事もなかったかのように里に帰り、すべて忘れることができるのなら、嘘をつき通してもいい。
それができないと本当はわかっている。今、ありったけの勇気を奮い起こさねば、死ぬまで後悔してしまうのは目に見えていた。
ただし、これを口にしたら後には引けない――。
「私の世界と、陛下の世界は、まるで違うもの、なのです。住む世界が、違いすぎます」
言葉が震える。黎基は痛みを感じたふうに目を細めた。
だから、と声に出した時、涙で前が霞んだ。それでも、この時になって初めて、まっすぐ黎基に顔を向けた。
「だから、陛下のところに飛び込むには、とても勇気が要ります。二度と離れない覚悟をしないと飛び込めません。それでも、陛下は私を受け止めてくださいますか?」
声が上ずる。祥華の告白に、黎基はただ目を瞬いていた。
しばらく、言葉の意味を噛み砕いているように見えた。その僅かな間が、祥華には耐えがたいほど長く感じられた。
けれど、祥華の気持ちは伝わったのだ。黎基は両手を広げ、ふわりと微笑む。
「他の誰とも比べることはできないから、祥華の他に妃は娶らない。私のただ一人の妃として迎えたい」
誰よりも焦がれ続けた人の伴侶になる。
この現実を捕まえて、死ぬまで決して手を放さないように生きていく。
それを選びるのだ。自らの意志で――。
その腕の中に、祥華は思いきって飛び込んだ。黎基の首に腕を回すと、足が浮くほどの勢いで抱き締められた。
「本当は、ずっとお慕いしておりました」
ようやく言えた。本当の気持ちを。
黎基の鼓動が祥華にも伝わる。それは言葉よりも雄弁だった。
「祥華」
「はい」
「祥華。祥華……」
何度も何度も、耳元で名を呼ぶ。甘く、切ない響きに胸の奥がギュッと痛んだ。
「君のことをずっと『展可』と、他人の名で呼んだ。これからはそれを取り返すくらいに呼びかける」
「陛下……」
すると、黎基は祥華を抱き締めていた腕の力をゆるめ、顔を合わせた。正面から泣き顔を見られると恥ずかしくて、顔を背けてしまいたくなったが、黎基は祥華の顔を包み込み、ささやく。
「その呼び方は慣れない。祥華も私の名を呼んでくれ」
「えっ」
「私がそうしてほしいだけだ。嫌か?」
「い、いえ。……黎基、様」
心の中ではたくさん呼びかけたけれど、声に出したのは初めてだ。
黎基は嬉しそうに微笑み、そして二度目に呼びかけようとした祥華の唇を塞いだ。それからは、気が遠くなるほど口づけを繰り返した。
まだまだこれから為すべきことは多くあるのに、今だけはすべてのことから護られているような心地がした。
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