54◆過信の果て
新設された宮の奥の房に、虎を飼っていたとされる檻があった。そこは祭壇のように整えられており、妙な違和感を覚えたと雷絃が報告した。
秦貴妃は虎の餌食となり、秦爛石もひどい有様であったが、爛石は雷絃が踏み込んだ時、まだ生きていた。
「おかしなことばかり口走るのです。天変地異が起こる、神がお怒りだと」
「助かりそうか?」
黎基は当座の住まいとする養心殿の中、椅子に座って話を聞いていた。雷絃は首を横に振った。
「いえ、虫の息です。……あの、秦爛石は虎に襲われて気が狂ってしまったと考えるしかありませんが、その、おぞましいことを口にしていて……」
「何を言っていた?」
雷絃は黎基の耳に入れたくない様子だった。しかし、伝えないわけにも行かない。苦痛を堪えながら言った。
「先帝陛下は虎が食ったと」
「な……っ」
思わず椅子から立ち上がったが、今さら何かができるわけでもない。
どこを捜しても未だに見つからない父は、すでにこの世にはいないというのか。
それにしても惨たらしい。
「認めたくはございませんが、虎の檻の中に布が僅かに残っておりまして、それは黄衣の端切れでした」
その色は、皇帝しか着することを許されない。
本当に父は虎の餌食になってしまったのか。それを行ったのは秦貴妃か。
あの毒婦は父を始末して賢思を皇帝にし、裏で操るつもりだったのだ。しかし、己も虎に食われたのだから皮肉なものだが。
「また、蔡祥華からも話を聞きます。彼女は何かを見ているでしょうから」
祥華の名が口の端に上った時、黎基の顔が歪んだのを雷絃はどう思っただろうか。
ただし、この時、無遠慮に昭甫がやってきた。助かったと、黎基は心のうちで思った。
「陛下、入ってもよろしいでしょうか?」
駄目だと言っても入るくせに、昭甫は殊勝な断りを入れた。
「入れ」
許可すると、重たい戸を難儀しながら開け始めた。頭脳は黄金にも勝るが、腕はいたって非力である。雷絃が苦笑しつつ手伝いに行き、逞しい腕で戸を開いた。
そこで黎基は目を見張った。
戸の前にいたのは昭甫だけではなかったのだ。
深緑に赤い襟、女官の恰好をした祥華がいた。髪は結っておらず、背中に垂らしている。表情は硬い。
「あんまりな恰好でしたので、女官の服を借りただけで、女官にしたわけではありませんよ」
と、昭甫が弁明する。祥華は深々と頭を下げ、昭甫と共に中へと入った。
「秦貴妃と秦爛石が話したことをまずお伝えさせて頂きます。とても信じがたい内容ですので、信じて頂けるかどうかわかりませんが」
祥華は以前よりも他人行儀に振る舞って見えた。
見慣れない女官の恰好がそう感じさせるのだとして、そればかりではない。同じ室内にいても、大河を間に挟んでいるくらいに遠く感じる。
祥華がそれを望んでいるからではないのか。そう思ったら切ない。
「それは、先帝陛下が虎に食われたという話か?」
雷絃が黎基を気にしながら口にする。祥華はハッと顔を上げ、躊躇いがちにうなずいた。
「はい。あの二人はそう申しておりました」
「……それは何故だ? 理由については何か聞いたか?」
黎基が声をかけると、祥華はまたうつむいて話し始めた。
「あの虎は神で、五年後に起こる天変地異を抑える力を持つのだと、貴妃と秦爛石は信じていたようです」
はあ? と昭甫が素っ頓狂な声を上げたが、祥華は構わずに続けた。
「それで、先帝陛下は贄として虎に捧げられました。けれど、思うような結果は得られなかったようです。……私には、あれは毛皮が珍しいだけの、ただの虎にしか見えませんでした。それでも、二人は信じきっていて、虎が満足する贄を与えたかったようです」
荒唐無稽な話だ。虎のために天子を犠牲にしたと。
「貴妃が各地に離宮を建設させたのも、この虎を祀るための祭壇を造りたいためだったそうですが……」
黎基と雷絃、昭甫は顔を見合わせた。
爛石のうわ言と祥華の語る話に齟齬はない。それならば、これが事実なのか。
人の妄信ほど恐ろしいものはないとして、それでも貴妃や爛石にそうした愚かしさは似合わない気がした。
――だからこそなのか。
真実を選び取ることができる自分たちだと過信した。結果がこの惨事だ。
謹丈は二人に組しており、呂石は違った。その思想に酔うことができなかった。
彼だけは現実を見て、そして絶望した。ただ権力を欲した彼の野心が最も正常であったとは。
「貴妃は先帝陛下の次にお前を贄に選んだのか?」
昭甫が訊ねると、祥華は言いにくそうに顔を背けながらつぶやく。
「はい。私はついでで、私というよりも、霊薬を口にされた陛下を……」
これには絶句した。
さすがに虎の餌にされるという心配はしたことはなかった。
「それは危ないところでしたね」
笑いを噛み殺しているような、なんとも腹の立つ顔をした昭甫を黎基が睨む。近くで雷絃が嘆息した。
「しかし、虎と戦う娘がどこにいる? こうして無事だったからよかったようなものの、あまりにも無茶だ」
これを言われると、祥華は小声で、すみません、と零した。
祥華のことだから、虎を野放しにしたら食われる人々が出てしまうから放っておけなかったのだろう。それでも、危ない。
昭甫はこの時、ふと雷絃に目配せをした。雷絃は複雑な面持ちで一度黎基を見遣り、それから戸口の方へと向かった。
「それでは陛下、本日は下がらせて頂きます」
祥華がこのひと言に肩を跳ね上げた。しかし、昭甫は祥華を連れてきた時から連れて戻るつもりはなかったのだろう。
「では、お休みなさいませ」
澄ました顔で去った。
二人の忠臣には感謝しかない。ここからは黎基が一人で立ち向かわなくてはならない問題だ。
祥華は身の置き場がないと思うのか、縮こまって見えた。虎にでも向かっていくくせに、怯えている。
「祥華」
名を呼ぶ。黎基が机の前に回り込むと、祥華はさらに身構えた。
それ以上近づけず、そこから声をかけるしかなかった。
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