53◇責任
やっと会えた。無事に生きていてくれた。
心臓が張り裂けそうなほど嬉しいのに、祥華はそれを伝えられない。
それというのも、自分を取り巻く状況のせいだ。
祥華は依然として罪人のまま。それが黎基と対等に話していいわけがない。
偽りだらけで従軍し、黎基のことを騙していた。正体を知られ、それでも黎基は祥華を抱き締めてくれた。それはすべて赦すという意味であったのだろうか。
黎基の涙が忘れられない。
けれど、忘れなくてはならない。
祥華は自分の胸元をギュッと握り締めた。そこに染み込んだ玉良の血が現実を思い出させる。
近くにいた兵に祥華は声をかけた。
「あの、負傷した人はどこへ運ばれたのでしょう?」
血塗れの祥華を見て、兵もぎょっとしていたが、余計なことは差し挟まずに教えてくれた。
「あっちの宮に集められているよ。あんたも怪我をしているならそこで治療してもらうといい」
「ありがとうございます」
勝手にこの敷地を歩き回っていいものなのかわからないけれど、今は玉良の怪我の程度が知りたかったのだ。そこには気づかないふりをした。
宮にいた怪我人は、わりと軽傷の者が多かった。攻め入った黎基に本気で抵抗しなかったということかもしれない。
本気で阻むつもりがなく、帰還した黎基を皇帝として受け入れたいと思えたのだろう。そうだといい、と祥華が思うだけかもしれないが。
その中でうつぶせになって寝かされていた小柄な体を見つけた。祥華が駆け寄ると、医者が怪訝な顔をした。
「君の知り合いかな?」
「はい、そうです。怪我の具合はどうでしょうか? 助けてください」
早口でまくし立てると、若い医者はうなずいた。
「肉が傷ついて血が失われたが、骨も臓物も無事だ。死にはしない」
それを聞き、祥華はほっとしてその場にくずおれた。玉良はこの時、起きていたようだ。うっすらと目を開け、祥華を見遣ったような気がした。
「ありがとうございます……」
その医者が他の怪我人のところへ行くと、祥華は身を折って玉良の耳元で声をかけた。
「本当に、ごめん……。私のせいでこんな怪我をさせて」
それでも、玉良は寝たふりをしていた。
「何か、私にできることがあったら言って。なんでもするから」
このままずっと、玉良のそばにいようか。
玉良の怪我がどこまで癒えるのかわからないから、祥華にできることがあるのなら何かしなくてはならない。
たくさん助けてもらったのだ。ありがとうという言葉だけで済ませていいとは思わない。人を傷つけ、祥華だけが何も失わないわけにはいかないだろう。
だからこそ、黎基とは話したくない。苦しんでいる玉良に悪いと思いながらも、気持ちが抑えきれなくなるのが怖かった。
すると、玉良はまぶたを開いた。そして、苦々しく吐き捨てる。
「僕が恩に着せると思ってるのか?」
「そういうわけじゃ……」
袁蓮にはよく叱られた。いつでも、祥華の迷いや本心を見透かされてしまうのだ。
「あんたはあんたの望み通りに生きろ」
でも――とあやふやに言いかけた祥華を、玉良が遮る。
「……母は器量がよかったから、秦家の男の手がついた。でも、正妻に苛め抜かれて追い出されて、幼い僕と心中しようとした。僕は、母の手を振り払って逃げたよ。母はその後で勝手に一人で死んだ。本当に、弱い女だった」
玉良が苦しげに語るのは、傷のせいだろうか。それは虎の爪痕ではなく、心に刻まれた古傷の方だ。
「逃げた僕を爛石が拾った。放り込んだ先は薬効の実験場だ。そこで、薬漬けになったやつの世話――後始末をさせられていた。苦しんでもがくやつらをどう救うかなんて、方法はひとつしかない。急所を外さず打ち込むのも随分上手くなった。爛石は、拾った僕が命じたままに動くのを楽しんでいたな」
そんな苦痛と戦ってきたのに、袁蓮は優しく明るかった。あれが本来の性質なのだろうか。それとも、心が麻痺して嘘をつき慣れていたのだろうか。
――優しくなければ傷つかない。
玉良はずっと傷ついて、その苦しさから感情に蓋をして生きていた気がする。
かける言葉も見つけられない祥華に、ふと玉良は弱々しくうなずく。
「どんな尊い血だろうと、罪人だろうと僕には同じだ。何も感じずに傷つけられる。――でも、あんたは違う。初めてできた友達だから、あんたには傷ついてほしくない。だから、いいんだ。好きな道を選べば」
戸惑う祥華に、玉良は額に汗を浮かべながらも柔らかく微笑んでくれた。
それから、疲れたのか長い睫毛を伏せた。背中の傷は痛むだろう。
従軍中、袁蓮のことを護っているつもりで、本当は祥華が袁蓮に護られていた。今ならそれがわかる。いつでも祥華を護ってくれていた。
ただ、手を握ってありがとうと告げる。結局、それしか言えない。
祥華はしばらくぼうっとしていた。
これからどうすればいいのか考えられない。身の置き場がないのだ。
立てた膝に顔を埋め、祥華は壁際にいた。
疲れすぎている。眠りたいけれど、気が昂っていて眠れない。ろくな食事をしていないから空腹のはずなのに、何かを食べられる気もしない。
このまま祥華は何になるつもりでここに存在しているのだろう。何もわからない。誰かに導いてほしい。そんな気分だった。
その時、祥華に声がかかった。
「わかりにくいところにいたものだ。この忙しい時に捜す手間をかけてくれるな」
この声は――。
ハッとして顔を上げた。薄暗くなった部屋の中でニヤニヤと場違いな笑みを浮かべている男がいる。
「劉補佐……」
劉補佐は祥華の前に歩み寄ると、祥華の手を取って立たせた。そして、顔をしかめる。
「ひどい有様だな。まずは着替えろ。食事は取ったのか?」
祥華は無言でかぶりを振った。すると、劉補佐は小刻みにうなずいた。
「じゃあ、食え。晟伯殿に会わせてやりたいが、あちらも立て込んでいるから、もう少し待て」
「立て込んでいるとは……」
兄も罪人として連行されたのか。祥華が不安そうにしたせいか、劉補佐は小さく息をついた。
「チヌア様が負傷されていて、晟伯殿につき添ってもらっている。今、おそばを離れてほしくない」
「チヌア様が?」
祥華の知らないうちに大変なことになっているようだ。チヌアはダムディン王の大事な弟なのだから、無事に帰還できなかった場合、黎基とダムディン王との関係はどうなるのだろう。
ああ見えて、ダムディン王は悲しむはずだ。祥華も、あの優しい王弟が負傷したことに心を痛めた。
「怪我の具合があまりよくない。だから、もうしばらく待て」
「ええ、それはもちろん……」
そう答えた祥華の手首をつかんだまま、劉補佐は歩き出した。どこへ行くのかは教えてくれない。
振り向きもせず、劉補佐はポツリと言った。
「それで、お前は何故、他人に成りすまして従軍した?」
本当のことを言って信じてくれるだろうか。
胸が絞めつけられてキリキリと痛い。それでも、祥華は答えた。
「私の父の過失で失明された殿下をお護りしたくて。償えるとは思っておりませんでしたが、お役に立てたらと……」
劉補佐は素っ気なく、そうかと答えた。それ以上、何も訊ねなかった。
ただし、素っ気ない中にも柔らかさがあったような気がした。
祥華が連れていかれたのは、料理番や女官たちが暮らす一角であった。戸惑う人々にてきぱきと指示を出す。
「この娘に食事をさせ、汚れを落として新しい服を貸してやってくれ。一刻したら迎えに来る。ちなみに、この娘は今回の戦いの功労者だ。雑に扱えば
「は、はいっ。畏まりました」
皆もまだ状況がわからないのだ。わからないながらに従うしかないと思ったらしい。
祥華は、劉補佐が口にした『陛下』という呼称を心の中で反芻した。先帝はもういないのだ。秦貴妃の子が皇太子のはずだが、秦貴妃のしたことを思えばそのまま帝位に即くことはない。
つまり、すでに黎基が皇帝であるということ。
親王の時でさえ遠かったのに、また遠ざかった。はるか遠く、すでに雲の上だ。
しかし、劉補佐は戸口に立つ祥華の肩に手を置くと、中へ押す時に小さくささやいた。
「お前には、うちの陛下を腑抜けにした責任を取ってもらわねばな」
クク、と笑い声までついてくる。
皇帝と罪人。立場の違いすぎる二人にどうしろというのだ――。
一刻が永遠に過ぎ去らなければいいと、祥華は願わずにはいられない。
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