52◆再会

 玉座に座り、黎基は今後、皇帝を称することとなる。

 それに異論がある者とは戦わねばならない。まだ、秦貴妃と秦爛石の二人が残っているはずだ。


 今後どのような手を使い、黎基の行く手を阻むつもりなのかは知らないが、受けて立つしかない。


 黎基はまず、秦呂石と賢思の遺体を霊廟に移させた。それから禁城の中にいるはずの貴妃に会わんと兵に捜させ続ける。後は昭甫に頼み、チヌアを安全なところへ運ばせた。後で顔を見に行くつもりだ。


 そうして、ようやく貴妃が見つかったのか、崔圭が血相を変えてやってきた。


「新たに増設された宮に虎が飼われていたようです。その虎が逃げ出し、暴れております」

「虎だと?」


 禁中に宮を増設していたのは知っていたが、それは貴妃が父帝にねだったもので、黎基はあまり気に留めていなかった。また始まったと、その程度に思っていた。

 しかし、そこに虎を飼っていたとは。


 罪人や思い通りに動かない官吏を虎の獲物にして、半狂乱で逃げ惑う人を笑いながら眺めていそうな、そうした悪趣味な面が貴妃にはあったのではないか。

 そんなことを考え、ふと、という思いつきにゾッとした。


 まさか、だ。貴妃が祥華に目をつけるわけがない。

 身分もない、ただの娘なのだから。


 そうは思いつつも、黎基がそのただの娘に執心だと知ったなら、あえて虎に与えて笑っているかもしれない。繋がりが気づかれていなければいいが、万が一ということもある。


「どこにいる? 案内しろ!」


 黎基の言葉を聞くなり、雷絃が行く手を遮るように立った。


「危のうございます。私が出向きますので、殿下はお待ちください」

「しかしっ」


 何をそんなに焦っているのかと、雷絃の方が困っている。この時、そんな雷絃の脇をすり抜け、弓を担いだ鶴翼が崔圭が来た方角へと走っていった。虎が見てみたい、などという理由でなければいいが。


「嫌な予感がする」


 自分の憶測が外れていてくれたらと、黎基は心から祈った。

 もし、祥華を虎の獲物にしたのなら、貴妃も同じように虎に食わせてやる。



 甲冑を着こんでいる雷絃や崔圭は、走らせれば黎基よりも遅かった。その代わり、鶴翼はどこへ消えたのか見えないほど素早い。黎基は太和殿の広い前庭を息せき切って走った。


 人の流れを見れば、どちらへ行けばいいのかがなんとなくわかる。

 虎の咆哮らしきものが聞こえた。虎など絵姿でしか見たことはないけれど、獰猛な生き物だという。


 西に見覚えのない小作りな宮が見え、その手前には兵たちが武器を構えつつも遠巻きに輪を作っていた。そして、その切れ間から見えたのだ。

 粗末な衣を着た祥華の横顔が。


 王座よりも、何よりも、一番欲したのは祥華の心だった。

 それが手に入らないから、代わりに帝位が転がり込んできたのではないのか。


 天が憐れむように、祥華の代わりを授けたのなら、そんなものは要らないのに。

 虎にこの苦悩が伝わるはずもない。慈悲などなく、虎は祥華に襲いかかる――。


 しかし、祥華を前に、虎は急に退いた。何事かと思えば、先に走った鶴翼が弾弓で礫を虎に放っている。あんなもので撃退できるのかと思ったが、鶴翼は的確に急所を突いている。目を潰された虎は狙いを定められないのだ。


 虎が弱っていくと、兵たちも参戦し、虎を追い詰めていく。

 祥華から虎が離れ、兵が祥華に駆け寄ったように見えた。それなのに、祥華はまた槍を拾うと虎に立ち向かう。祥華は――血塗れだった。


 あんなにも血を流して、まだ戦おうというのか。あれでは死んでしまう。

 そんなことがあってはならないのに。


「祥華!!」


 黎基は無心で虎に立ち向かっていた。硬い体に突き立てるには剣がひどく脆弱に感じられたが、それでも渾身の力を込めて虎の首を突いた。

 わぁっ、と兵たちから歓声が上がる。


 恐れを知らないわけではない。賞賛されることではなく、何も考える余裕がなかっただけだ。

 虎が倒れるよりも先に柄から手を放し、黎基は祥華を抱き留めた。祥華の体は緊張で強張っている。


 ひどい怪我だ。助かるだろうか。体はまだ、こんなにもあたたかい。


「すまない、祥華。死ぬな」


 祥華のぬくもりを繋ぎとめるようにして力を込める。

 あの時、黎基が展可を――祥華を信じてさえいれば、こんな目に遇わさずにすんだのだ。そばから放しさえしなければ。


 何を言っても遅いのに、身を切られるように苦しくて、涙が溢れる。


 祥華の呻き声がした。

 そして――。


「軽率な行動はお控えください! ……それと、その、申し上げにくいのですが、そのままでは窒息させてしまいます」


 雷絃が後ろから控えめに告げた。その言葉にハッとする。

 怪我人になんてことをしてしまったのかと。

 慌てて力をゆるめると、祥華は苦しそうに息をした。


「す、すみません……」


 祥華が謝るようなことは何もない。それでも、声が聞けて心が震える。ずっとこの声が聞きたかった。


 やっとほんの少し冷静になって、黎基は自分の涙を拭った。祥華も息が整ったらしく、そうしたら黎基の体を押すようにして腕から逃れた。


「何から話したらいいのでしょう……。秦貴妃と秦爛石は虎に殺されました。あちらに遺体があります」


 黎基はぼうっとしてしまって、祥華の言葉が耳から入ってもすり抜けてしまう。頭が働かない。


「展可――いや、蔡祥華。おぬしはどうして貴妃たちといた?」


 呆然としている黎基に代わり、雷絃が祥華と話し始める。祥華は眉根を寄せ、身震いしながら言った。


「虎の餌にされるところでした。それが、助けてくれた人がいて、その時、私ではなく、貴妃と秦爛石が虎に襲われました。長い話になります。落ち着いてからお話しできたらと……」


 やはり、貴妃は祥華を虎の餌にするつもりだったのだ。死んだというのなら罰することもできないが、腹の底から怒りが湧いた。


「そうか。ひどい目にあったようだが、無事でよかった。まずはゆっくりと休むことだ。それから、晟伯殿もいることだから会えるように取り計らおう」


 雷絃がそれを言うと、祥華の目に涙が滲んだ。ほっとしたのだろう。祥華が会いたいのは兄の晟伯であって、薄情な黎基ではないのかもしれない。


 いつでも祥華を苦しめているのは黎基なのだ。それをわかっていないのは黎基だけだったのかもしれない。


 すり抜けられた手が冷えている。重たく沈んだ心を抱えていると、不意に祥華が黎基に向けて拝手拝礼した。


「ご無事のご帰還、心よりお慶び申し上げます」


 言葉尻が震えていた。顔を背けた祥華は泣いていた。

 その涙のわけはなんだろう。


 黎基はすぐにでもそれを問い質したかったけれど、今の黎基にはしなくてはならない後処理が山積していた。寝る間も惜しんで動かなければ時間が空かないのだと、今からでもそれがわかった。


「祥華、話をさせてくれ。話さなくてはならないことがたくさんある」


 かすれた声で祥華の背中に声をかけた。けれど、祥華は聞こえなかったふりをした。

 聞こえなかったはずはないと思うのに。

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