51◇愚かなのは

 虎の爪が迫り、祥華は完全に臆していた。

 死ぬのかと思ったら、過去が濁流のように押し寄せて、思い出の川に呑まれてしまう。


 幸せだった幼少期。そこからの悲しみの連続。忍耐の日々。

 そして、黎基との再会。喜び。愛情と苦悩。


 もう一度会いたかった。少し前に時を巻き戻せたら。あの腕の中にいられたら。

 すべては叶わぬ望みだとしても、最後に思い浮かべるのはやはり、あの端整な微笑みだった。


 影が祥華の上に落ちた。

 しかし、それは虎の影ではない。もっと小柄な、玉良の影だ。

 祥華と玉良の体がぶつかり合う。虎の強い力に耐えきれず、二人は倒された。


 祥華と虎との間に身を滑り込ませた玉良の背は、大きく裂けている。左肩から右脇腹にかけて鋭い爪で切り裂かれたのだ。あらわになった白くきめ細やかな肌から、顔料を塗りたくったような鮮血が噴き出す。


「あ、ああ……」


 自分のわがままが、自分以外の人間を傷つける。玉良の言葉に従って逃げていれば、玉良が傷つくことはなかった。

 玉良を傷つけたのは祥華だ。


「逃げ、ろ」


 玉良は深い傷を負いつつも生きている。祥華は次に来る虎の攻撃から玉良を庇わなくてはならないのに、槍には手が届かず、膝に乗った玉良の体を押しのけるわけにもいかなかった。


 このまま虎に食われるのだとしたら、腹の中で毒になってやりたい。これ以上人を襲わないように。

 間違っても黎基を傷つけたりしないように。


 玉良の血に塗れた祥華は、虎を睨むことしかできなかった。

 すると、いつの間にか兵士たちが続々と駆けつけていた。虎に近づくことはできないようだが、矢を射かけるつもりらしい。弓を引いている。


 しかし、その矢が飛ぶよりも早く、小さなつぶてが虎の片目を打った。これには虎も我慢ならなかったようで、猫の子のようにしてギャッと声を上げた。祥華はそちらに首を向けることはできなかった。しかし、驚くべき速さで祥華の背後から次々と兵が礫を弾く。複数の兵が行っているのだろう。


 矢ではなく、弾弓だ。小さな礫は矢よりも速く飛ぶ。あの小さな礫を虎の目に的中させるのだから、相当な腕前だ。息をつく間もないほど、礫は嵐のようにして虎の体を打ち、もう片方の目も潰した。


 祥華は呆けている場合ではないと、玉良の体を支えながら少しずつ後ろに下がり、虎と距離を取った。虎が弱りつつあると、兵たちが武器を手に応戦し始める。

 この時になってようやく、祥華は助かったのだという気になれた。


 そして背後を振り返ると、そこに弾弓用の台座のついた弓を構えていたのは、よく見知っていたあの童顔であった。


 鶴翼、と祥華は声にならないまま口を動かした。鶴翼はというと、そんな祥華を見て少しだけ笑うと、腰に下げた袋に手を差し込み、指の間に礫をいくつも挟み、それを器用に並べ、同時に三発の礫を放った。


 あののんびりとした鶴翼が、熟練の猟師かと思うような神技を見せるのだ。他の兵たちが目を疑うのも無理はない。祥華も、鶴翼の腕がいいのは知っていたが、ここまでだとは思っていなかった。


 郭将軍はそこまで見越して鶴翼を養子にすると決めたのだろうか。


「そこの君、すぐに手当てを!」


 兵たちが祥華の方へ駆け寄り、倒れ込んでいる玉良を抱え上げた。玉良は気を失う寸前であったのかもしれない。祥華はそんな玉良の手を握り、ありがとうとささやいた。

 この声は聞こえていないかもしれない。けれど、玉良は助かる。また改めて言いたい。


 祥華は再び槍を取り、震える足に鞭打って、手負いの虎に穂先を突きつける。

 これ以上、自分を甘やかしてはならない。自分にはもうできることがないなどと逃げる自分は許せない。


 思えばこの虎も、こんな狭い人の住処に押し込められ、住み慣れた地から引き離されたのだ。悪いのは虎ではないのかもしれない。


 愚かなのは人の方だ。

 騙し、騙され、それを繰り返す。

 それにこの獣を巻き込んだに過ぎない。虎を恨むのではない。終わらせてやりたいと思った。


 虎は目を潰され、荒れ狂う。兵士が放った矢が、次々と虎に突き刺さるが、さすがと言うべき生命力だった。それでも虎は鋭い爪を立て、前脚を振り回す。

 祥華はそれに槍を巻き込まれないように一度下がった。

 この時、声が飛んだ。


「祥華!!」


 他の誰とも聞き間違えることができない、特別な人――。

 まさかと振り向いた時、汗を滲ませ、血相を変えて駆け寄ってきた黎基がいた。幻ではなく、確かに。


 黎基は腰の剣を抜き、祥華を通り越して虎の首に突き立てる。虎の断末魔と巨体が倒れる音が消える前に黎基は剣を手放し、祥華を力いっぱい抱き留めた。首筋に熱い涙が落ちる。


「すまない、祥華。死ぬな」


 この血は祥華のものではない。

 祥華は、玉良のおかげで怪我ひとつしていないのだ。色々なことを答えたいのに、取り乱した黎基の腕があまりにも強くて、祥華は息ができなかった。


 それでも、涙を流し続ける黎基の肩越しに見えた鶴翼が、きょとんとしたように首を傾げ、それから少し笑った。


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