第3部

1◆民の幸福

『――黎基、この光景をよく覚えておきなさい』


 あれは、天河離宮での事件が起こるよりも前のこと。

 幼い黎基は母と共を連れて舟で川を下っていた。馬や輿よりも早く進む舟は好きだった。


 はい、と母に返事をした。

 しかし、眼前に広がるそれは、母が言うほど特別な光景とは思えなかった。田畑を耕す農夫たちがいるだけだ。


 あれがいずれ、黎基が統べる民たちだから覚えておけというのだろうか。

 思えば、あの頃はまだ国を治めるということがよくわかっていなかった。生まれながらにして、周囲が何かにつけてそれを口にするから、黎基はいずれ国を治めなければならないのだということを知っていただけだ。


 幼子なのだから当然ではあったが、実感はなかった。ただ父のように皆にかしずかれるのだという程度の認識だった。具体的にまつりごとがなんなのかを知るわけではない。


 ただ、この時ふと、そのうちの一人の農夫が人一倍時をかけ、片手でくわを扱っていたのに気づいた。何故、両手を使わないのかと訝しく思ったが、その年老いた農夫の片袖は平たく垂れていた。


 片腕がないのか――。

 そのことに気づき、黎基が困惑していると、母はそんな黎基に言って聞かせるようにゆっくりと口を開く。


『あなたが生まれるよりも前に戦がありました。多くの民が死に、今もああして傷痕を残す者もいます』


 黎基の回りにそのような者はいなかった。身体の欠損など――宦官を別とすれば――それで生きていられるとは、奇跡のように思えた。生きているだけでもやっとだろうに、それが片手で田畑を耕しているのだ。


『どうして、あの不自由な者が田畑を耕すのでしょう? 片手では難しいというのに、代わってやろうとする者はいないのですか……?』


 黎基が差し挟んだのは、ごく当たり前の疑問であった。しかし、母は黎基ではなく、隻腕の農夫から目を逸らさずに答えた。


『不自由であろうと、耕さなければ作物が育ちません。時には誰かが手を貸してくれたとしても、他人を当てにしてばかりはいられないのでしょう』


 人とは助け合うものではないのか。

 この国の民はこんなにも冷たいのか。


 正直に言って赦されるのならば、黎基はがっかりした。

 しかし、母が黎基にわかってほしかったのは、そんなことではない。


『そうさせたのは戦でしょう』

『それは……』

『戦があの者から腕を奪い、手を貸せる余力のある郷里の若者を減らしたのです。それでも、納めねばならない税は減りません。むしろ、負け戦で疲弊した国力を戻すため、取り立てはいっそう厳しくなりました』


 いつも穏やかに微笑んでいる母にしては言葉が厳しい。

 女が口を挟むことではないと、慎むような母だと思っていた。しかし、母の口から零れる言葉は真実だと、黎基には感じ取れた。

 痛みを民と共に抱える母の眼差しは尊い。


『皇帝は、言葉ひとつで国の命運を決定します。あの農夫の姿を、あなたは忘れることなくその目に刻んでおきなさい』


 黎基はうなずき、遠くに視線を投げかける。

 すると、その農夫たちは貴人の舟に気づき、手を止めてひれ伏した。


 ぼんやりと考える。あの農夫は幸福だろうかと。

 得られたはずの幸せを、戦が踏み躙ったのではないかと。

 ならば、それをしたのは、戦を仕掛けた皇帝――つまり、黎基の父なのではないか。


 未熟な心に重たくのしかかるものを持て余し、黎基はすべて投げ捨ててしまいたくなった。この体に流れる血の意味が、途端に煩わしく感じられる。

 煌めく水面の光を受け、目を向けた母の横顔は例えようもないほど美しかった。


『あなたがあの農夫を憐れに思うのなら、あのような民が生きやすい善政をきなさい。戦は、護るためだけに行いなさい。そして、おもねる者やよこしまな者に地位を奪われてはなりません。愚かな者が人の上に立てば、ほんの僅かな間に国は傾くのです。あなたは民を護ることのできる存在におなりなさい』


 戦が農夫の幸福を奪ったように、農夫に幸福を与えるのもまた皇帝であるというのか。

 善なる政が行われさえすれば、民は生きやすくなる。

 それができるのは、この血を持つ者だけなのだ。たった一人、正しい行いで民を導いていく。皇帝に求められるのはそこなのだと。


 今後まだ、黎基の他にも皇帝の嫡子は増えていくだろう。必ずしも黎基が帝位にかなくてはならないわけではないのかもしれない。


 それでも、重荷から逃げて、もし無為に戦が行われ、あの農夫のような者が増えたら。

 それは黎基の責任とも言えるのではないか。


 できることをしなかった。差し伸べられる手を差し伸べなかった。それで、善政を布けなかった誰かを非難できたものではない。


 強い心を持って、揺るぎなく、己がこの国を護るのだと決意すべきだろう。

 ただし、それは容易なことではない。それこそ、命を賭けなくてはならないほどの覚悟が要る。


『はい、必ず』


 母にそう答えながら、黎基はまだ迷いを残していた。それは幼さ故のことで、長じるにつれてこの決意は確たるものになるだろうと考えた。



 ――そうして、黎基は廃太子となった。

 その途端に、黎基は覚悟を決めたのだ。


 いや、あれは命がおびやかされた瞬間にだったかもしれない。

 必ず帝位に即こうと、強い想いで決意した。邪な者に帝位を、実権を明け渡してはならない。


 この手に取り戻し、民の暮らしを護るために生きよう。

 それができる自分になりたい。

 あの農夫が片腕で鍬を振るう日常が、当たり前のこととならないように。


 それこそが、己が生かされた意味とせねばならないのだ。

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