幕間・静かな夜

 静かな夜。


 女は祈りを捧げていた。

 積年の願いを込めて、ただ祈る。


 その女の背後に、一人の男が立つ。女は、それが誰だかわかっていた。振り返ることもしなかった。

 男もまた、暗闇の中のふたつの光に祈りを捧げた。

 二人の願いは同じだった。あの日から、ずっと――。


「……あのしらせは本当でしょうか?」


 先に沈黙を破ったのは男の方だった。

 いつも落ち着き払った声の中に、ほんの僅かに滲む迷い。女はそれを感じ取り、クスリと笑った。


「薛黎基の目が治ったという報せですか?」


 薛黎基――この国の皇太子であったが、幼い頃に失明し、廃太子となった男。

 母親の宝氏に似て面立ちは美しく、聡明で慈悲深い神童と謳われていたが、とある事件を境に目から光を失った。


 そこからは坂を転がり落ちるようにして軽んじられ、隅に追いやられたのだ。その男の目が異国で治ったという。

 失明してすでに十年。にわかには信じがたいことである。


「なかなかにしぶといものですね」


 女の口からそんな言葉が零れる。


 あの、目元を布で隠しながらも臆した様子もなく受け答えする廃太子のことを思い出すだけで心が乱れた。

 薛黎基自身がというのではない。宝氏に連なる者であるからこそ、受け入れられないのだろう。


 戦を幸いと、どさくさに紛れて暗殺できていればよかったが、未だに健在なのだ。目が見えるようになったというのなら、さらに手間取るかもしれない。

 しかし、もしかするとこれでよかったのだろうかという気がしてくる。


 女の心を静めるようにして男が言った。


「目が見えぬ分、警戒心も強かったのでしょう。側近以外をそばに寄せぬのでは、も手が打てなかったのではないかと」


 こちらの手の者も紛れ込ませてある。それ以外にも、兵糧を一部砂にすり替えておいた。腹が満たされず兵の不満が募り、軍は乱れると踏んだのだが、そのような問題を抱えつつも彼は無事に兵を率い、武真国で役割を果たしたことになる。


 これは誰の功績か。彼の側近連中には案外切れ者がいるのかもしれない。

 放った刺客はろくな働きをしていないと見える。


「薛黎基が帰ってくる……」


 女は赤い唇でつぶやいた。


 きっと、これでよかったのだ。

 女はそう自分に言い聞かせる。


「未だに彼の母堂の宝氏は見つからないままです。一体、どこへ消えたのやら」


 宝氏は皇帝の寵愛を受け、薛黎基を産んだ。しかし、その後、息子が失明すると心と体に深い傷を受け、病みついた。皇帝は母子に興味をなくし、宝氏を療養という名目で僻地に追いやり、顧みることもなくなったのだ。

 そうなるようにし向けたとも言うが――。


 ほぼ、追放に等しい。宝氏にも矜持があるのか、本当に弱りきっているのか、ふと思い出して戯れに呼び出そうとしても、不調を理由に顔を出さない。

 そうして十年。


 神仙のごとき美しさも翳った頃だろう。薛黎基への切り札として捕えておくべきかと使いを出したが、の女は煙か幻のようにして消えてしまったのだ。

 世を儚み、とっくの昔に露と消えていたのかもしれない。そうした末路が似合う女だった。

 すでに生きてはいないのかと考え始めていた。


「あの女が見つからぬのなら、もうよいのです。それよりも、薛黎基の目が癒えて戻ってくるのです。彼は再び皇太子の位に立つことを望むでしょう。そのためにはいずれここへ訪れるのですが……もしかすると、彼こそが我々の待ち望んでいた者なのかもしれません」


 女は、己の思いつきに昂る心を抑えながら言った。

 もしそうならば、これこそが運命かと。


「まさか、そんなはずは……」


 困惑する男に、女は微笑む。


「多分、は失敗ですのよ。こんなに待てども兆しすらありませんもの。いくら血が尊くとも、中身が伴わなければ凡夫に過ぎないということでしょう。それをもっと早くに気づくべきであったのかもしれません」


 落胆がないわけではない。

 けれど、その先に光明があるのなら――。


「……ところで、我らが父上は未だにお気づきではないのでしょうか?」

「あの頭の固い老人は、目で見たものしか信じません。相変わらず、昔ながらのやり方しかできぬのですよ」


 その頭の固い老人にとって一番の望みは、孫に当たる賢思けんしが皇帝となり、国父と尊ばれることであろう。その程度でしかない。結局のところは俗人でしかないのだ。

 己の欲のため、父もまた薛黎基が無事に返り咲いては都合が悪い。


「ええ、私の理解者はいつでも兄様だけですわ」


 女のその言葉にこの上ない喜びを浮かべつつ、男は苦笑してみせた。


「それと、謹丈もですよ」

「そうでしたわね」


 輪は広がりつつある。

 しかし、未だに女は世間にとって奢侈を好む毒婦のままだ。それも受け入れるつもりはある。個人の評判など、たいしたことではない。

 むしろ、この名が後の歴史書に悪女と刻み込まれるのならば幸いだ。


 この国にとって必要なものは何か、何を優先するべきか、それをわかっているのは自分たちだけなのだから。


「間に合うでしょうか?」


 男が整った顔に悲哀の色を見せる。そんな表情は似合わない。いつでも前を向いて自信に満ち溢れていてほしいから。


「ええ、私は信じております」


 運命は人の手に余る。

 しかし、人が運命に対して常に無抵抗であるとは考えるべきでない。


 そう、決して――。



     〈 幕間 ―了― 〉


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