42◆帰還へ

 黎基は、女性らしく着飾った展可に琵琶を一曲だけ所望した。

 小さな里で育った展可は、高名な師につきっきりで教わったというわけではないはずだが、彼女の音色は楽士と比べても劣ることはない。

 懸命に続けた努力がそこに見えるようだ。


 その音色に聞き惚れ、琵琶を爪弾く展可に見惚れた。

 いつものこざっぱりとした姿とは違い、少しも少年らしさはない。もともと手足がすらりと長く、着飾るとよく映えると改めて感じた。


 曲を終え、展可がほぅ、と小さく息を吐く。紅が取れてもまだ赤い唇に目が行き、胸の奥が熱くなった。だからこそ、立ち上がって戸口まで行った。


「私は部屋に戻るから、展可は今晩、ここで休むといい」

「ここでですか?」


 琵琶を膝に載せたまま不思議そうに黎基を見る。展可は自分で思っている以上に綺麗だということに、まだ気づいていない。


「私の部屋に来るのなら、それなりに覚悟を決めてくることだな」


 来てくれたら嬉しいけれど。


 展可は頬を朱に染め、うつむいた。

 事が性急に運びすぎても勿体ないような、そんな気もする。今は十分幸せな心地がするのだから。


「おやすみ、展可」


 微笑むゆとりがあるのは、展可の潤んだ瞳に拒まれなかったからだ。


「おやすみなさいませ……」


 戸を閉めた途端、ドクリ、ドクリ、と心臓が破裂しそうなほど高鳴る。

 愛しいという感情が、こうも幸福感をもたらすとは思いもしなかった。

 こんな気持ちを、皇帝ちちもかつては母に感じていたのだろうか。



     ◆



 一夜明け、黎基はダムディンと顔を合わせた。

 この時、ダムディンの私室に呼ばれたのだが、昨晩のことをからかわれるものだとばかり思っていた。


 しかし、そうではなかった。そこにはダムディンの他にもう一人いたのだ。腹心のオクタイではない。年若い、黎基よりもまだ若い少年だ。


 肩口で切りそろえた黒髪、少し浅黒い肌の柔和な顔つき。そう、この少年はダムディンを優しげにしたような印象だった。背も低く、小柄である。


 黎基よりもふたつほど年下のはずだが、もう少し幼いようにも見えた。

 チヌアだと、黎基にはわかった。


「以前お目通りしたのはいつのことでしたか……」


 気後れしたように言う。そんな弟のそばで、ダムディンは感情をまったく表に出さずにうなずいた。


「チヌアを呼び寄せたのは、お前のためだ」


 意外なひと言に、黎基の方がえっ、と声を漏らしてしまった。チヌアは恥じ入ったようにうつむく。


「チヌアに兵をつけて貸してやる」


 これから祖国に帰還するにあたり、黎基を待ち受けているのは自国の兵である。謀反人として血祭りに挙げられるかもしれない黎基に、ダムディンは兵を貸してくれるつもりなのだ。

 しかし、それを率いるのが王弟チヌアであるのが黎基にとってはかなり意外なことだった。


「危険ですが、よろしいのですか?」


 すると、チヌアではなくダムディンが答えた。


「そこで死するのなら、それまでだ」


 兄たちをすべて討った王は、結局のところ弟にも価値を見出せなかったのか。

 そう考えかけて、それは違うように思えた。わざわざこんな手の込んだことをせずとも、不要ならばダムディンは後腐れなく首を刎ねる。


 そうではなく、むしろ情があるからこそ、この機会を与えたのではないのか。

 少なくとも黎基にはそう思えた。この申し出を断るつもりはない。


「チヌア様、お力をお貸し頂けるのでしたら私としては喜ばしい限りです。お願いしてもよろしゅうございますか?」


 黎基が気遣いながら声をかけると、チヌアは頬をほんのりと染めた。その初々しさも、何もかもがダムディンとは違う。


「どうぞ、チヌアとお呼びください。若輩ではございますが、お力添えをさせて頂きたく存じます。どうぞよろしくお願い致します」


 ダムディンは、チヌアにどのような説明をしたのだろう。黎基の戦いに力を貸し、そうして帰還した際にダムディンはチヌアに生きる道を与えるのか。兄たちのように首だけになることがないといい。


 情だけで生かされるほど、この国は今、優しくない。

 奏琶国とどちらがましだろうか。どちらも似たり寄ったりかと、黎基は内心で失笑する。


 ダムディンは不意に、黎基に強い眼差しを向けた。


「お前が負けた場合、俺はいずれ奏琶国へ侵略する」


 あまりにはっきりと言われ、黎基の方が目を瞬かせた。チヌアもこれには固まってしまっている。

 しかし、黎基はそれをフッ笑って躱した。これはダムディンなりの激励かと。


「では、色々な意味で負けられませんね。陛下とはこうしてまたお会いしとうございます」


 どちらが上でも下でもない。互いを認め、尊重し合える間柄になれればと思う。

 かといって、完全に油断してしまえない、この緊張感は大事だ。

 ダムディンも不敵に笑った。


「そうだな。その時にはお前もいい加減に妃を娶っていることだろうな」


 ――昨晩、展可だけを部屋に残して黎基が自室に引っ込んだことを、ダムディンは知っているのだろう。せっかくはなむけにお膳立てをしてやったのにと言いたいのかもしれないが。


 黎基が展可を大事に想っていることが展可に伝わればそれでよいのだ。

 コホン、とわざとらしく咳ばらいをし、黎基はダムディンに向けて頭を下げた。次に会う時は立場も違う。もう頭を下げることはない。


「陛下も息災であらせられますように」

「ああ、お前も生き残れ」


 友というには少し違うかもしれない。ダムディンは油断ならない。

 無情に見えて、それもまた己のうちで葛藤が多くある。

 果敢な人ではあるのだ。

 少なくとも、ダムディンに認められる自分でありたいと思う。



 そうして黎基は本国へ向け、戦が収束し目途が着いたので帰還するという旨の書簡を使者に持たせ、先に戻らせた。黎基はもう輿へ乗るつもりはないので、輿丁を使者とする。


 山道での粗相があってから、それを咎めずにおいた黎基に彼らも恩を感じてくれていた。黎基のめいには逆らわない。


 多分、この報せは喜ばれない。皇帝ちちも、黎基の目が見えるようになったとはいえ、秦貴妃の手前、黎基を皇太子の座に戻すことは容易ではないだろう。


 国が荒れる。それは避けられないことだ。

 嵐が過ぎ去った後、国がどうあるのか、それこそが重要である。


 ――武真国での滞在にきりをつけ、黎基たちの軍は帰還する。

 それが祖国にとって新たな災いであったとしても。



     〈 第2部 ―了― 〉

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