41◇胸の奥底に

 貧しい暮らししかしてこなかった展可には、上等すぎる装いだった。

 朱縷しゅる(赤い絹織物)の衣に銀のかんざし。光沢のある紅――ツェツェグ王妃に献上された品々なのだ。どれも一級品である。


 ツェツェグ王妃も女官たちも去り、部屋には琵琶が残された。黎基のために弾けということらしい。

 以前、黎基の剣舞に合わせて奏でた琵琶だ。あれから随分経ったような気分だった。

 付け爪を嵌め、膝に琵琶を載せて弦を爪弾く。やはり澄んだ良い音がした。


 旋律と呼べるものではなく、単調に弦を弾いていると、急に部屋の戸が開いた。

 あまりに急だったので、展可がビクリと肩を跳ね上げると、戸を開けたのは黎基だった。それもひどく慌てているように見えた。


「展、可?」


 問いかけるような口調に、展可は首を傾げかけて、この装いのせいかと恥ずかしくなった。


「……はい」


 床几に琵琶を置き、頭を下げる。すると、黎基が室内に入ってきた風を感じた。

 顔を上げていいという言葉よりも先に、黎基の手が直接展可の顔をすくい上げる。無言で、ただじっと展可の顔を見つめている。


 昔の面影をどこかに見つけたのだろうか。


 それでも、赦してくれたら――。

 もし、赦してくれるのなら、胸に飛び込んでいけるのに。


 それをしたいと、心のどこかではずっと願っている。

 違うと、何度も否定しながら、ずっと。

 都合のいい願いだ。愚かにもほどがある。


「とても似合っているが――」


 つぶやいた黎基の顔が近い。


「展可に話があったのに、そんな恰好を見せられると落ち着いて話せそうにない」


 この距離では落ち着かない。それは展可も同じだ。

 それなのに、黎基の目から目を逸らせない。


「唇だけ許してもらえるだろうか」


 ささやき声が耳朶を震わせた。

 この時、展可はどうかしていたと思う。


 きっと、女性らしい装いがいつもの展可ではなく、奥底にしまってある『祥華』を呼び覚ましてしまったのだ。


 頬に触れている手から、展可が微かにうなずいたことが伝わったのだろう。それとも、返事を待ってはいなかっただろうか。

 黎基の唇が展可に触れた。手が頬から首筋に下り、腰を引き寄せる。この国の寒さが、黎基の体温を心地よく感じさせた。


 この人の心には偽りがないのだと、展可が感じるには十分だった。愛しげに求めてくる。

 今だけだと、展可は痺れた頭で繰り返し唱えていた。それでも、あんなに自分に言い聞かせたくせに、黎基が離れた時に一抹の寂しさを感じた自分は馬鹿だ。


 黎基は自分の口元についたべにを親指で拭うと、微笑みながら展可の崩れた紅も自身の袖口で拭った。そうして、痛いくらいに展可を抱き締める。


「私は、国に帰る際、なんらかの理由をつけて殺されるかもしれない。何かが起こるのは覚悟の上で出てきた」


 耳元でささやかれる、その声とは違って甘くない現実に、展可の方が言葉を失った。


「そんな……っ」


 しかし、黎基は展可を抱き締めたままで続けた。


「仕掛けてくるのは秦貴妃の一派だ。もちろん、そう簡単に私の命はやらない。戦って平穏を勝ち取るつもりだ」


 それは、つまり――。


 展可の頭の中が真っ白になった。とてもついていけない。目の前の状況がころころと色を変えて、目が回りそうだった。


「秦貴妃の奢侈や一族の横行によって、民にも苦労を強いてきた。いい加減に終わりにせねばならないところだ。私は秦貴妃の一派を一掃し、父に退位を求める。それでも、展可にはそばにいてほしいと言ったら、ますます受け入れがたいだろうか?」


 度重なる労役、課税、民が疲弊しているのは事実だ。

 黎基なら、正しく国を導いてくれる。少なくとも展可にはそう思える。


 しかし、その時、黎基は展可に後宮にいてほしいと言うのだ。展可の動揺を、黎基は素早く感じ取った。


「後宮で女たちを侍らせるために昇り詰めるのではない。私は展可がいてくれたらそれでよい」

「わ、私は……」


 とても、言えない。

 言えないうちに話はどんどん膨らんで、展可の住む世界のこととは思えない。


 それでも、黎基にとってその戦いに負けることは死を意味する。生きるには勝つしかないのだ。


 覚悟を持って挑む。その大事な戦いを前に、出端を挫くようなことは言えない。気力が失せてしまえば負けてしまう。


「も、もうしばらく考えさせて頂ければ……」


 結局、そんな曖昧なことを言ってしまう。

 けれど、黎基からしてみればそれも仕方がないと思ってくれるだろうか。


「わかった。その代わり、他の男に気を取られないようにな」

「そ、そのようなことはございません」


 誰をこの人と比べられると言うのだ。

 武真国から帰ったら、姜の里で待つ兄のもとへ戻るつもりが、黎基がそれほど危うい状況に追いやられているのをわかっていて離れられない。


 無理やり帰って、もし展可の知らないところで命を散らしていたらと考えるだけで恐ろしくて堪らない。

 添い遂げられなくとも、どうか生きていてと願わずにはいられないのだ。


 すべてが終わって、黎基の今後に何の憂いもなくなったら、その時こそ真実を話すかどうかを考えるしかない。

 展可は迷いの中でぼんやりと考えた。

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