2◇天が決めること

 展可てんか武真国ぶしんこくに来て、季節は秋から春に巡った。

 異国の地に住み慣れたということはない。それでも、最初の頃よりはこの武真国の冷たい風にも戸惑わなくなった。

 当分――いや、今後二度と展可がこの国に来ることはないはずである。


 滞在中はほぼ、砦と城、その敷地だけで過ごした。武真国のすべてを踏破したわけではないけれど、それでもこの国でのことは慎ましく暮らしていた展可には特別なものであった。それはもちろん、黎基がいたからこそだが。


 これから帰るのだと感慨深いながらに、奏琶兵は武真国の王都を出立した。

 ダムディン王は盛大な見送りをしてくれたのだが、青巒国との交渉もあるので、王都から離れることはない。そこで別れた。

 忘れがたい存在感を放つ王は、もう会わずとも決して忘れさせてくれそうにない。



 王都を出立して数日――。

 奏琶軍は見送りの兵につき添われ、いつかのヤバル砦付近に差しかかる。

 展可には、ここへ最初に辿り着いたのが遠い昔のように思われた。あの時はまだ、尤全ゆうぜんも生きていたと思うと、うっすらと目に涙が溜まる。

 風のせいで目が乾いたとばかりにごまかして目元を擦った。


 この時、行軍元帥である黎基れいきは民兵を集めて皆の前に立った。

 それは、この戦に従軍してきた皆への労いであり、そればかりでもなかった。目が見えるようになり、もとより備わっていた気品に力強さが加わったように思える。

 その凛々しい姿を、展可は背中から眺めた。


「一年と経たずして、武真国での戦に目処が立った。比較的に早い帰還が叶うと言えよう。しかし、道行を共にした人々がすべて欠けずに帰れるわけではない。彼らの働きがあってこその帰還だ。皆がそれを忘れぬように、私がそれを忘れることはない」


 黎基の声には不思議な響きがある。

 張り上げているのではないが、よく通り、感情が伝わる。無理に心をこじ開けるのではなく、自然と沁み入るような声なのだ。民兵たちもその声に聞き入っている。

 そこで黎基は、しかし――と言葉を切った。


「しかし、帰還が叶えばそれで終わりでよいのだろうか? 今の我が国は、この武真国よりも余程危うい状態にある。皆もそれを感じているのではないだろうか」


 展可はギクリと体を硬くした。黎基がこれから語らんとする言葉がわかったからだ。黎基の近くに控える郭将軍も劉補佐も緊張していることだろう。


 民兵たちがざわつく。

 皆が思っていても口に出せずにいることを親王が口にしたのだ。


 いよいよ、坂を下るようにして動き出す。一度走り出したらもう止まれない。

 これから、黎基は嵐の中を駆け抜けるようなものなのだ。展可はそれを支えていけるだろうか。


 妃になるというのではなく、せめて黎基の勝利を見届けるまではそばにいたい。

 兄はそんな展可のことを叱るだろうか。


「秦貴妃とその一族は利を貪り、このままでは国庫を空にしかねない。その上、新離宮の建設にと労役を課してはいたずらに民を苦しめる。それを感じていても、盲人であった私に為すすべはなかった。しかし、今は違う。この国を立て直すために皇太子の座に戻して頂く。ただし、異母弟おとうとを退けることになれば、秦一族からの抵抗があることも覚悟している。それ故に、私の帰還を阻む動きがあることを皆には伝えておかねばならない」


 郭将軍、劉補佐、そうしてもう一人。

 黎基のそばに控える小柄な人影。それは、ダムディン王の弟、チヌアだ。


 年は十七、展可と同じである。線も細く、物腰も穏やかで、顔はまったく似ていないというのではないが、ダムディン王のような冷たさはない。ダムディン王はチヌアに一万の兵を与え、黎基につけた。


 民兵たちはその意味を理解できずにいただろう。まだ戦は終わっていないのだと、むしろこれから始まるのだと知らされた今、愕然としているかもしれない。


 それも敵は他国の兵ではなく、自国なのだ。自国の兵が自分たちを受け入れないなどと、誰が想像していただろう。

 展可も出てきた時に、そんな心配はしていなかった。


「皆が真に我が国の在り方を憂うのならば、私と共に戦ってくれぬだろうか。もちろん、待ち構える兵に数では劣っている。しかしそれは出発前からわかっていたことだ。私もなんの支度もなく出向いたわけではない。勝算がない戦いではないのだ」


 兵たちが騒がしい。黎基の発言を思えば仕方のないことではあるが。

 黎基は支度をしてきたのだと言う。その支度とは、謀反の助力ということか。


 国内の兵が黎基にどれほど従うだろう。秦貴妃を排斥したい一派があれば喜んで力を貸すかもしれないが、盲目だった黎基が先にその話を進められたとは思わない。秦一族も黎基の動きは警戒していたはずなのだ。下手な動きはできなかったはず。


 ダムディン王の協力を得られ、チヌアが兵を預かってついてきてくれるが、それだけで勝てるという見込みは甘いだろう。

 しかし、今この場ですべてをつまびらかにすることは得策ではない。


 黎基の美しい、人を魅了する容姿は、こうした時に大きな力を持つ。


「私はこうして光を取り戻した。本来皇太子であった私が退けられる謂れはすでにない。私はいずれ、民に寄り添い、国を導く。それを今ここで皆と天に誓おう」


 言葉のひとつひとつが、黎基が言うのならば正しいのだと、そんなふうに錯覚させるだけの威力を持つ。

 尊い血筋と麗容、気品。それらは人を従わせるには有効に働く。


 黎基は剣を抜いた。

 それを天に捧げるようにしてまっすぐに掲げる。郭将軍と劉補佐はそんな黎基を残して下がった。そして――。


「私が天に認められる者か、否か、皆に見届けてもらおう」


 黎基の磨かれた剣は光をまとい、空高く放り投げられた。展可は何も聞かされておらず、ハッと息を呑む。


 回転しながら黎基の頭上に剣が落ちてくる。避けることはできるはずなのに、黎基は足幅を開いてその場に踏み留まった。上を見上げれば光に目が眩む。展可も眩しさに目を細めてしまった。


 しかし、黎基は回転をつけて落ちてくる剣の柄を素早く握った。ほとんど目で見てはいなかったはずだ。目に頼らない暮らしをしていたからこそ、あのような技が身についたのだろうか。


 民兵たちは、元帥である親王が自らの剣に貫かれる様を想像したかもしれない。恐ろしさに目を瞑った者も多かっただろう。

 しかし、再び剣を握り締めて高らかに掲げる黎基の姿に、民兵たちの心は動かされた。黎基を称える民兵の声が、ヤバル砦の中にまで届いたことだろう。


 皆が、とは言わない。けれど、今この場にあって否と唱える者はいない。ここが異国の地であるからということもあるのかもしれない。頼りない異国の地で共に戦ったからこそ、信頼すべき絆をどこかに見出したとも。


 展可もまた、幼少期に数日会っただけの黎基に生涯を捧げるほど思い入れてしまっている。これこそが人の上に立つ者の資質なのかもしれなかった。

 理屈よりも、心が先に動いてしまう。それをさせる人なのだ。


「もちろん、無益な戦いは極力避ける。兵たちも国の民であるのだから、傷つけたくはない。皆に戦わせずに済むように、それを第一に考える。それだけは信じてほしい」


 皆、身内や知人と争うようなことはできない。武人たちは別として、民兵たちにそこまでの覚悟はできないのだ。だからこそ、それを聞きたかったのではないだろうか。


 そして、身内や知人への思い入れの次ほどには、民兵たちも黎基を敬う心を持ち合わせている。この廃太子が再び返り咲くことを、皆も願ってくれる。


 展可は黎基の声を胸に抱くようにして噛み締めた。

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