3◇王の忠告

 黎基の姿を離れてぼうっと見つめていた展可に、いつの間にか戻ってきていたチヌアが声をかけた。


「王の資質を持つ御方は、どのように振る舞えば民心を捉えるのかを肌で感じられるのかもしれないね」


 チヌアの言い方は、それができない自分は王の器ではないと言っているように聞こえた。

 多分、チヌアは継承権があろうとも自分が王になるとは考えられないのだろう。卑下しているのとも違う自然さだった。


「展可、君はどうして武術を学ぼうと思った? それを訊いてみたかったんだ」


 穏やかで純粋な目をしている。

 兄のダムディン王とチヌアはまるで違うので、最初は展可も戸惑った。これは本質か演技か、どちらなのだろうかと。


 背負うものの重みのせいか、生まれ持った性質からか、二人は似ていない。それでも、チヌアが兄王を尊敬しているのは間違いのないことに思われた。

 展可はどう答えると失礼がないか、考えながら口を開く。


「私の里は小さなところですから、自分たちで身を護るに越したことはありません。武術に限らず、学べることは学んできました」


 その答えに、チヌアは目を瞬かせた。そこには素直な驚きが見える。


「我が国では女性は護られるべき存在で、自らが身を護るなどという考えはない。けれど、女だから、男だからということはなく、自らが必要と感じたことを行うのはよいのかもしれない」


 年若いせいか、チヌアは柔軟だ。新しい風に触れ、慣れぬことを不快に思うより、むしろ感心しているようだ。

 もともと、学ぶことが好きなのではないだろうか。それが微笑ましく思えた。


「チヌア様は以前、我が国にお越し頂いたことがおありなのですか?」

「ほんの幼少の頃に。あまり覚えていないけれどね」


 他の兄弟たちの首をねたダムディン王でさえ、この弟のことは生かした。それだけチヌアが善良であるからか、もしくは将来性を見越してか。


 あのダムディン王のことだから、ただの情からではないと思うけれど、もしかするとただの情である可能性もあるのかもしれない。

 彼もまた、表に出さないだけで人並みの感情を抱えているはずなのだから。


 チヌアもそれに応えたいと思っているのだとしたら、全力で黎基の力になってくれるのではないだろうか。

 少なくとも彼らは黎基の味方だ。それが展可にとってもありがたかった。


 話し込んでいると、黎基が日陰にいた二人のそばに近づいてきた。

 二人して顔を向けたけれど、どこか黎基は不機嫌に見えた。二人に声をかけずに視線を外す。

 どうしたのだろう、と展可は首をかしげたが、チヌアはその不機嫌のわけを察したらしい。


 黎基が二人の脇を通り越して屋内へ入ると、チヌアは子供のようにペロリと舌を出した。


「兄上から気をつけるようにと言われていたんだ」

「え? ダムディン陛下から何か?」

「うん。展可に馴れ馴れしくしないようにって。黎基様が気分を害されるからと」

「…………」


 まさかそんな、と思うけれど。

 展可がりゅう補佐やかく将軍と話していてもいたりしないのは、黎基が二人のことを信頼しているからで、自分の手の内にいないチヌアは別だと。


 そんなことはないと思いつつ、もしそうだとすると恥ずかしい。何が恥ずかしいのかというと、ダムディン王やチヌアにそう思われていることが。

 チヌアは清らかに微笑した。


「話し込んですまない。黎基様の後を追っておいで」

「い、いえ、殿下はそのようなことを気にされたわけではないと思いますが」

「まあ、どちらにせよ気苦労の絶えない御方だから、君と過ごせる時は大事だろう」


 変に気を回されてしまった。複雑な心境だ。


「では、失礼します」


 展可はチヌアに頭を下げてから、黎基の部屋へと向かった。ヤバル砦に、今回は長い滞在ではない。二日でここを発つ。それまで、以前使わせてもらった部屋をまた借りるのだ。


「殿下、失礼してもよろしいでしょうか?」


 戸に向けて呼びかけると、黎基のいつもより低い声が返った。入れ、と。


 ゆっくりと戸を開け、中を覗き込むと、椅子に腰かけて脚を組んでいる黎基がいた。机を指でトントン、と叩き、やはり機嫌が悪い。

 戸を閉め、入り口に立って控えていると、黎基はひとつため息をついてから言った。


「すまない、少し苛立っていて」

「いえ……」


 これから黎基が為そうとしていることを思えば、不安や心労があるのは仕方がない。当然だ。

 展可は胸の前で拳を握り締める。黎基は感情を抑えるためにか目を伏せた。


瓶董へいとうはすでに亡い。それでも展可は、この砦によい思い入れはないだろうな」


 瓶董の処刑は展可たちが王都に向かった間に行われたという。

 死んだとなると、あんな男でもほんの少し悲しいような気分になる。それは彼にも家族がいるからだ。家族は悲しんだだろうか、と。


 しかし、尤全の家族や知人の嘆きの方が展可には耐えがたい。その死を招いた瓶董を完全に赦す気持ちはないのだ。多分、この先ずっと。


「師への恩は忘れません。それでも、すでに終わったことですから」


 時は巻き戻らない。

 これからもっと悲惨な現実が待つのか、幸福な未来があるのか、展可に見通すことはできないけれど、人はこうして生きていくだけだ。


「そうか」


 黎基は短く答えると、立ち上がって展可の前に歩み寄った。そして、展可のことを強めに抱き締めると、耳元でささやいた。


「チヌアとは、何を親しげに何を話していた?」

「えっ?」

「それと、民兵の仲間たちともよく楽しそうにしているな」


 そんなことを言いながら腕の力を強める。


「で、殿下?」


 苦しい。締めつけられて息が詰まりそうになった。

 そんな展可に、黎基はボソボソと続ける。


「私は自分で思う以上に度量が狭かったらしい。展可のことに関しては特にだ」


 本気で妬いていたから機嫌が悪いのかと、展可の方が驚いた。ダムディン王がそれを察していたというのもだ。


 この機嫌の悪さを直すにはどうしたらいいのか、展可はぼうっとしながらも考え、そしてなんとか黎基の背中に腕を回してそっと摩った。


 ずっと寄り添っていることは叶わないけれど、それでも心は黎基に差し出したつもりなのだ。今後、この人以上に想う相手はきっと現れない。

 この心が伝わってほしいような、伝わってはいけないような、そんな気持ちで黎基の腕の中にいた。


 黎基は展可を閉じ込めていた腕を解き、唇を重ねて気持ちを確かめ、そうしてようやく満足げに微笑んだ。

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