49◇猛虎

 弟山の狼でさえ、祥華の手には余った。それが、今度はこの大虎だ。郭将軍よりも大きいのではないだろうか。

 真っ白な毛が血に濡れていて、あの血が先ほどまで得意げに笑っていた人間のものかと思うと、恐怖で体が固まってしまう。この虎はただの獣ではあるが、化け物じみている。


 人の手に負える気がしない。この虎にとって、人は獲物なのだ。

 それでもどうにかしなくてはならない。危険なら尚のこと。

 祥華が仕留めるのは無理かもしれないが、せめて弱らせたい。


 そうしたら武人たちが来て加勢してくれるはずだ。

 なるべく、宦官兵しかいない後宮の方へは行かないようにしなくては。


 祥華はこの時、武術の師である尤全のことを思い出していた。


 お前はどんなに鍛錬したところで女なのだから、屈強な男に勝てると思ってはならない。敵を見誤るなと、口を酸っぱくして言われていた。

 しかし、そんな師父に、祥華は言ったのだ。


『それでも戦わねばならない時があります』


 勝てない敵に挑まねばならない時。

 それは常に、苦境に立たされている黎基を護る時だ。

 だから、諦めていいものではない。


 いつ、いかなる時も、祥華は己の実力以上の力を黎基のために発揮してきた。

 気持ちが体を支えていた。


 今でも、どこかから見守ってくれているであろう尤全は、祥華の選択を愚かだと叱っただろう。

 ただし、逃げないと言った祥華に、あの時も尤全は呆れたように返したのだ。


『それならば、どうすれば己が生き延びられるのかを考えろ。それが活路だ』


 生き延びたのなら、負けではない。

 さあ、虎の爪と牙にどう挑む――。


 冷や汗が頬を伝って落ちるが、祥華は呼吸を深く繰り返した。

 虎は祥華を睨めつけ、姿勢を低くして今にも飛びかからんとしている。間合いは十分にあるようでいて、虎の後ろ足は、祥華が思う以上の飛距離を出すかもしれない。


 気を抜けば躱せないだろう。

 神経を張り詰めていなければ死んでしまう。


 この時、虎が動いた。来る――と祥華が槍を振るう前に、後方から暗器が飛んだ。虎はその飛刀を跳び退いて躱す。

 祥華は振り向かずに言った。


「助けてくれてありがとう。でも、あなたをつき合わせるつもりはないから、もう行って」


 玉良は秦一族の片隅に生まれ、支配されながら生きてきた。それなら、もう玉良は自由だ。これからの人生は自分のために生きればいい。

 それを、玉良は以前よりもずっと低く潜めた声で返した。


「友達だから放っておけないって、あんたが言ったんじゃないか」


 これを今、玉良がどんな表情で言ったのかはわからない。美しい、少女のような面立ちを思い起こし、祥華は複雑な心持ちになったが、虎はそんな機微を酌んではくれない。


 ガァッ、と吠え猛り、跳躍した。あの巨体が驚くほどに速い。祥華の放った槍は、虎の脇腹を擦ったが、毛皮に阻まれてなんの傷もつかなかった。


 口では偉そうに言ったものの、少々武術の鍛錬を積んだくらいで虎に勝てるわけがないのか。

 武勇を謳われる侠客ならばまだしも、祥華はただの小娘だ。ただし、今、それを自覚している場合ではない。


 傷はつかなかったものの、自分に盾突く祥華に虎が腹を立てているのがわかる。太い腕が祥華に迫った。

 すかさず玉良の飛刀が飛び、虎の腕に刺さったことで僅かに虎の動きが鈍る。祥華は急いで跳びずさり、虎から距離を取るが、心臓が暴れるように痛いほど跳ねていた。


「……僕が虎の動きを止めるから、あんたは虎の急所を突け」


 背中で玉良の声がする。しかし、虎は腕に刺さった飛刀など棘くらいにしか感じていないのか、グルグルと唸って地面を掻き毟った。


「巻き込んでごめん」


 心苦しくて言ったが、玉良からの返答はなかった。

 玉良は素早い虎の動きを目で追い、後ろ足に一本、太腿に一本、と飛刀を打つ。それでも、虎は平然として見えた。姿勢を低く、二人に牙を剥く。


 この頃になってようやく、異変に気づいた兵たちが騒ぎ始めていた。貴妃が禁城の中に虎を飼っていたことは周知されていたのだろうか。驚き、慌てふためいていることから、されていなかったように思う。


 虎との戦いに集中している祥華は、周りの騒がしさに目を向けられない。兵たちは虎を相手に、下手に手出しができないようだ。


 玉良の飛刀が大きく口を開けた虎の牙に当たった。折れることはなかったが、これには虎も堪えたらしく、僅かに仰け反った。祥華はこの時が最大の好機だと瞬時に判断する。


 槍を手に地を蹴り、虎の首を目がけて渾身の突きを繰り出した。

 しかし、虎は手強かった。身をくねらせ、槍の柄に爪を絡める。


「っ!」


 こうなると虎の力に敵うはずもなく、祥華の槍は虚しい音を立てて地面に転がった。

 絶望が視界を染め上げる。後はもう、どうすることもできなかった。


 虎の爪が迫り、祥華に向かって振り下ろされたところまでは覚えている。

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