48◆苦悩
禁城を目指す黎基たちを本気で阻むのは、ごく一部の兵だった。すべての兵が一丸となって向かってくるわけではない。
むしろ、民衆の中には馬を駆る黎基を拝む姿まであった。父帝の御世に見切りをつけ、新たな皇帝を望む人々がいる。
父も最初からいけなかったわけではない。即位したての頃は万民を慈しみ、導こうとしたのではないのか。
ただし、己にそれを行うだけの力がなかったから、次第に奸臣につけ入られ、己を見失ってしまったのかもしれない。それが罪であることに変わりはないけれど。
黎基もまた、どんな綺麗事を並べ立てようとも、父と同じ道を辿らないとは言いきれない。
権力に溺れるか、はたまた己の無力さに絶望するのか。正しく在るというのは容易ならざることなのだ。
「殿下、お急ぎください! あなた様に天のご加護がございますように!」
昭甫の声が後方から飛んだ。
馬術の苦手な昭甫だから、徐々に後れを取っていた。どうにも追いつけないので、遅れていくと言いたいのだろう。
素直にそれが言えない男なのに、言いたいことがわかるほどにはつき合いも長い。黎基は振り向かずに苦笑した。
――やはり、黎基は父と同じ道は歩まない。
愚かな行いをすれば、失礼致します、と断りを入れた上で横っ面を引っぱたくような腹心がいる限りは。
「地の底でも、天の果てでも、どこまでもお供致します!」
雷絃の太い声がすぐそばでした。
黎基のことを必ず信じてくれる。どこまでもつき従ってくれる。
この清廉な武人に恥ずかしい行いもできたものではなかった。
「禁城は目前だ。頼む」
馬上で雷絃がうなずいた気配がした。その近くには崔圭と鶴翼とがいる。鶴翼も平然と馬を操るのだ。秦呂石は彼に教育を施したことを後悔するだろうか。
城門を破る前に段が続いている。門の手前には大勢の人影があった。
その最も手前にいるのは、武人ではなく文官だ。
手入れされた顎髭、青い深衣、赤い房飾りに香木の扇。細身ではあるが、弱々しさはない。むしろ、毒の塊のような男だ。
秦呂石は、黎基を見下すような目を向けてそこに立っている。
「これは、秦太師直々のお出迎えとは恐れ入る」
皮肉を交えて微笑みかけられるほどには、黎基も落ち着いていた。
落ち着いていられたのは、呂石の方が余程ゆとりがなかったからだ。
この男は国賊だ。
もちろん、父が国を満足に治めることができなかったのが、まずいけない。
しかし、呂石が政を代わって行った結果、それによって苦しんだ民がいるのだから、決して敬うべきではない。
呂石はこの時、暗い目をしていた。
数えるほどしか顔を合わせたことはないが、疲れて見えると黎基が言ったら、当人は憤るだろうか。
歯噛みするような仕草を見せ、呂石は口を開く。
「目が見えるようになったというのは事実のようですな。しかし、だからなんだというのです? あなたはこの国には必要とされておらぬのです。それにお気づきください。こんな謀反まで起こし、助かった命を散らすこともなかったでしょうに」
呂石はどうにかして黎基を傷つけてやりたいと思うのかもしれないが、信頼できる臣を従え、力を持った今の黎基は彼の言葉に傷つくことはない。
こんな言葉に怯むと思うのなら、呂石は随分と楽天的だ。
こうして対峙してみると、幼い頃に受けた印象とはまた違っている。恐ろしいとは二度と思わないだろう。
「必要とされておらぬのなら、それこそ十年前に死んでいたのではないか? 命を落とさずにここまで辿り着いたことこそ天意だろう」
笑って返せば、呂石の顔に絶望が広がった。
ぶつぶつと、口の中で何かを繰り返している。その様子は、父のそばで威光を放っていた頃とは違う。疲れ果てた抜け殻のようだ。
「どいつもこいつも――」
呂石の言葉の欠片が転がり落ちる。
その『どいつもこいつも』の中に含まれる筆頭は、当然黎基だろう。それから、命に背いた鶴翼。
後は折り合いが悪かったという貴妃と爛石、謹丈もだろうか。
誰もが呂石が望むような動きをしなかったらしい。
「どうした? 太師の孫でもある賢思の即位を夢見ただろうが、この現状では実現せぬぞ。賢思を皇帝にしたくば、少なくとも母堂である秦貴妃の行いを改めさせる必要があったことくらい、太師は気づいたはずだ。あれでは民心が離れるのも無理からぬこと」
しかし、それを言い放った黎基に、呂石は失笑するばかりだった。
「賢思、な……」
皇太子を呼び捨てる。孫ではあるが、気安く接していい存在ではない。
その声には侮蔑が滲んでいた。
「あれは父親の血を色濃く受け継いだ。何をやらせても人並み程度にしかできぬ。取り分けて秀でたこともなく、ただただ卑屈だ」
あの貴妃の子であるから、異母弟は貴妃に似て傲慢なのだろうと勝手に思っていた。会ったこともない弟だというのに。
「宝氏の産んだ子の方が優れていたと、誰もが目で語った。あなたを惜しんだ。それが賢思にとってどれだけの重圧であったか。このたびの戦であなたがこの世から消えれば、賢思も少しは変わるかと思えば、この始末だ……」
期待の大きさに、義弟は苦しみながら生きてきたのか。
そして、救いの手を差し伸べてくれる人はいない。この呂石は叱責することはあっても、慮ることはできない人だ。鶴翼たちのように、育てば儲けもので、育たなければそれまでと言うわけには行かない相手でも、厳しく接するしかできないのだ。
いくら秦貴妃の
「それならば、その重圧から解放しよう。……私は陛下に会いに来た。そこをどいてもらいたい」
すると、呂石は急に声を上げて笑い出した。
その様子は、黎基が知る呂石からはかけ離れて見えて滑稽だった。似合わないことをする、と怪訝に思うが、呂石が無理をしてでも笑ってみせる理由はなんだろうか。
「どうぞ、お会いできるのならばお会いされたらよろしかろう」
その言い草は、皇帝が黎基になど会おうとするわけがないというのか。それでも、会わねばならないのに。
そこで呂石はふと力を抜いた。そこには諦観しかないと思えたのは何故だろうか。
「私は、政を滞りなく行うためにありとあらゆることをした。しかし、私の思うようになど進まぬ。最も厄介な敵は、あなたではない。私の――」
何かを言いかけて、呂石はその先を腹の底へ押し込めた。黎基に教えてやる義理もないとばかりに。
もしくは、ただの強がりだろうか。
「……それでは、これにて失礼致します」
どこかおどけた仕草で拝礼し、呂石は黎基に背を向けた。その背中が語ることを黎基は読み取りたくないような気がした。
門の中へ呂石が吸い込まれるようにして消えた後、兵士たちが黎基に刃を向ける。しかし、門には呂石の通った隙間が開いたままだ。これを罠と取るべきか、別の意図を見出すべきか。
「私は陛下に会いにきた。道を開けてもらおう」
皆がざわつき、黎基が馬から降りて踏み込んでも、二の足を踏むだけだった。誰もが率先して討とうとはしない。
呂石は出てきたが、未だに貴妃と爛石の姿は見えないままだ。すべての膿を出しきってしまわなければ、何も終わらないし、始まらない。
黎基が呂石と話しているうちに昭甫も追いついてきた。それを認めると、黎基はさらに奥へと踏み入る。その傍らには雷絃がいて、黎基は不安など覚えなかった。
あと少しで父と再会する。
その時、まずなんと声をかけようか、そればかりを考えた。
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