47◇敵

 貴妃は檻の鍵を袖口からシャラリと音を立てて出した。装飾品かと見紛うほど意匠を凝らした鍵だった。


 祥華の中で冷静な部分と臆病な部分とが、代わる代わる押し寄せてくる。

 このまま虎の牙に噛み砕かれるのか。それとも、まだ何かできることがあるのかどうか。


 ――考えろ。

 生き長らえることができたなら、再び黎基に会えるかもしれない。


 しかし、縛められた祥華に何ができるのだ。

 ドク、ドク、と心臓が大きく脈打ち、主張する。


「さあ、どうぞお納めください――」


 貴妃が檻の戸を開く時、祥華は爛石によって、すぐに中へと突き飛ばされようとしていた。けれど、虎の檻の中へ突き飛ばされたのは祥華ではない。貴妃であった。

 音もなく背後に忍び寄っていた人物が、貴妃に体当たりしたのだ。


「ああっ!!」


 虎の前に身を投げ出された貴妃に気を取られているうちに、ふと祥華の手を縛っていた縄がゆるんだ。

 何が起こったのかを確かめるよりも先に、祥華は反射的に爛石の顎に掌底を叩きつけていた。


 この至近距離からの一撃に、爛石も目の前に火花が散ったことだろう。とっさに祥華を放した。祥華は後ろに飛びずさり、虎の檻から距離を取る。

 この時になって割って入った人物を知った。玉良だ。


「玉良! 貴様!!」


 舌を噛んだのか、爛石が口角に血の色を混ぜながら叫んだ。しかし、玉良は冷ややかな目をしていた。


「恩知らず? そんなの、知るわけないじゃないか。あんたのためだけに尽くすなんて、そんな馬鹿げたことを思っていた方が悪い」


 この時、玉良は祥華の隣に来て手をギュッと握った。もう片方の手には短刀がある。

 美しい横顔は相変わらずなようでいて、それでもやはり違う。これが本当の顔なのだとしても。


「わ、私たちは、この国を救うためにっ」


 青ざめた爛石が言うと、玉良は冷笑した。


「それこそ、馬鹿じゃないのか? 虎が国を救ってくれるわけがないだろ? あんたたち、騙されたんだよ」

「な、なんだと?」


 虎は、それほど空腹ではなかったのかもしれない。目の前の獲物に食指が動かないようだった。

 それでも、貴妃が逃れようともがくと、狩猟本能を掻き立てられたらしい。虎はグルグルと唸り、貴妃の胸に爪を立てた。虎の太い腕が貴妃の胸に沈む。


「あ、あ……。そんな、ずっと崇め奉ってきた私のことを、まさか――っ」


 耳をつんざく咆哮を上げ、虎は貴妃の喉に噛みつく。ゴリ、と嫌な音がした。

 祥華は吐き気を堪えるのに必死で目を背けたが、玉良は前を見据えていた。


苛政かせいは虎よりもたけしってやつだ。その虎を祀ってたやつらは政に不服があって、朝廷の批判をしていたんだろ。そうした集会を開けば罰せられるからな。子供相手にもっともらしいことを言ってごまかしたんじゃないのか?」


 ――その昔、人食い虎に家族を殺された老婆がいた。

 しかし、その老婆は人食い虎が出る地域から移り住むことをしなかった。何故なら、その地には税が課せられていなかったからだと。暮らしを逼迫する課税は、民にとって人食い虎よりも恐ろしいものとする逸話だ。


 苛政を覆す――つまり、なんらかの計画を企てるための集会であったと玉良は察するのか。この虎を神とするよりは信憑性のある話かもしれない。

 もしそうだとするのなら、皇帝は虎の腹に収まったのだから、彼らの撒いた種が育ち、為政者を倒したのだ。


 ただしその結果が、秦貴妃によってさらなる課税や労役を生んだのだから皮肉ではある。


「そ、そんなはずがない! 私たちは確かに聞いたのだ!」


 爛石と玉良。

 二人は主従と言ってもよいほどの立場であったはずなのに、今、少なくともこの瞬間には違った。二人の関係は覆る。玉良は喚く爛石を蔑んでいた。


「あんたはいつだって変わらないな。だから騙されたんだよ。自分たちが騙されるわけがないって過信していたから騙された。それから、真実を知らない愚かな万民を救うためには悪名を受けることも辞さないなんて、自己陶酔が過ぎる。あんたたちは救世主たる自分に酔って冷静な判断を下さなかった。事実を知れば、いつか民が泣きながらあんたたちに感謝するって? するわけないのにな」


 玉良の言葉の刃は爛石の矜持をズタズタに切り裂いた。それでも、爛石はその欠片にすがっている。

 浅ましいと言うべきなのか、憐れと言うべきなのか、祥華にもよくわからなくなった。


「黙れ! 下賤なお前に何がわかるっ!」

「じゃあ、なんでその虎は信奉するあんたたちを襲う? 答えは認めてしまえば簡単だ。ただの獣だからだ。そんなのは神でもなんでもない。ただの人食い虎だ」

「うるさい!」


 大声を出したせいか、貴妃に飽いたのか、虎は鋭い爪を爛石に向けた。檻には貴妃であった肉塊が横たわり、血の川が出来上がっている。虎は判を押すように、赤い血を足裏に乗せ、床に跡を残して檻から出たのだ。

 爛石にむしゃぶりつく虎を横目に、玉良は祥華の手を引いて駆け出した。


「急げ!」


 玉良が来てくれなければ、祥華はすでに生きていない。

 しかし、祥華は手を差し伸べてくれた玉良の申し出を断ったはずだ。共には行けないと。

 それなのに、まだ助けてくれるのか――。


 虎が追ってくる。背を向けた獲物を追うのが獣なのだ。

 房を抜け出すと、外には役人だけでなく兵士もいた。ただし、玉良がここへ来る時に倒してしまったのだろう。気を失っている。


 空からの光を受け、玉良は祥華の手を放した。


「あんたは生きろ。何があっても」


 玉良は、どのような人生を歩んできたのだろうか。それはきっと、幸せな幼少期ではなかったはずだ。


 美しい瞳の奥に秘めているものがある。けれど、そこに踏み込むことはできない。

 祥華は黎基に心を捧げたから。玉良の深淵には触れられない。

 それでも、大事な友人だと思っている。それではいけないだろうか。


 虎の鳴き声が響き渡った。虎の跳ねる足取りが、地についた足から伝わる。

 恐ろしくないわけがないのに、祥華はそこでひっくり返っている兵士のそばに落ちていた槍を拾い上げた。そして、構える。


「生きるけど、あの虎を野放しにはできない」

「……何を言ってるんだ?」


 険しい顔をされたが、祥華は引かなかった。引けない理由がある。


「ここに、この禁城に殿下がおいでになるんだから、このまま暴れさせるわけにはいかない。殿下を傷つける恐れがある敵は倒さないと」

「……嘘だろ」


 玉良が愕然としたのも無理はないかもしれない。

 けれど、黎基を傷つける者は祥華の敵だということは、相手が誰であろうと、いつ何時であろうとも変わりない事実だった。 

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