46◆開門

 ある時、病床で弱気になった黎基の母は、熱に浮かされながらつぶやいた。


『私の弟は、私が後宮入りすることを望みませんでした。それによって家格が上がり、身に余る官位を与えられたとしても、それよりも姉の幸せを願ってくれる弟です。けれど、声がかかった以上、私が赴かねば一族はどうなりましょう? ……ああ、こんな話をあなたに聞かせるつもりはなかったのです。ごめんなさい』


 母はきっと、これを夢か何かと思い、覚えていないことだろう。それでも黎基は覚えていた。母の珍しい弱音を。


 母の弟、宝大幹たいかん中書侍郎ちゅうしょじろうだという。

 その官職から昇ったという話は聞かない。当人にはろくに会ったこともないのだが、母の話の中に時折現れる叔父が愚鈍であるとは思えなかった。秦一族がいる限り、出世を阻まれるのだろう。


 黎基が帝位に即いた時、叔父である大幹を重用すれば、身贔屓だとされるのはわかる。しかし、もし有能な人であるのなら、その力を眠らせておくのは愚かだ。身内だろうと他人だろうと、能力は等しく評価すべきだろうに。


 以前は皇太子であったから、黎基は軽はずみには動けず、向こうも軽々しく会いに来られる立場ではなかった。黎基が廃太子になってからは、違う意味で軽はずみなことができなかった。裏で何か画策していると察知されてはいけないから、堂々とは会えなかった。


 しかし、ある日、叔父はろくに会ったこともない甥に書物を送ってくれた。その書物は、廃太子には必要のないものであった。歴代の皇帝たちが行った政策とその結果が記されていたのだ。


 書物など読めるはずがない、と誰も盲目の黎基にそんなものは送らない。一体何故、叔父は黎基に書物を送ったのだろう。目が見えないというのが嘘だと見抜いたのか。


 そう考えてひやりとしたが、この書物を持ってきた使者が言うには、いつか目が癒えた時のためにとのことだった。叔父は、黎基に希望を持ってほしかったのだろうか。その目はきっと治るから、と信じていてくれたのかもしれない。


 他の人々は黎基を顧みなかった。腫物を扱うように避けた。

 叔父はまだ、黎基に期待していてくれるのだろうか。

 ――そんな人だからこそ、真っ先に黎基は頼ることにしたのだ。



 直接会うことはそうそうできない。だから、書簡でのやり取りになるのだが、黎基が直接書けるわけではなかった。書いたのは常に昭甫だ。それを運んだのは、ほぼ雷絃である。


 目が見えるとは明かせない、それでも叔父は黎基が何か考えを持って動いていることをわかってくれた。黎基の要望に関し、一度も何故かとは問い返さなかった。了承の旨だけを伝えてくれた。



 あれから長い歳月をかけ、黎基は叔父の手を借りて宝一族の息のかかったものを京師みやこに住まわせるように手配した。それも東門の方に固めて。


 武真国へ赴く直前になって、黎基は初めて叔父の邸宅を訪い、叔父に意図を伝えた。長じてから顔を合わせたのは初めてだった。


 黒紗の布越しに盗み見た叔父は、黎基自身にもどこか似ていた。叔父と甥なのだから不思議はないが、その血の繋がりが嬉しくもあった。


『私は勅命によってこれから武真国へ赴きます。必ず帰還するつもりですが、その時、もしも私が閉め出されるようなことがあれば、叔父上には東門を開けて頂きたい』


 それが命がけのことであったとしても。

 きっと、叔父はそれをわかっていた。ずっとできることを探していてくれたのだと気づいた。

 叔父の目に浮かんだ涙がそれを物語っていた。


『殿下と姉上のご心痛を想わぬ日はございませんでした。この不肖の叔父を頼りにしてくださったことがどれほど嬉しかったか。必ず、門は開きます。どうか堂々とお戻りくださいませ』


 叔父は、母が後宮に赴いたのは、自分たちを護るためでもあったとわかっているのだろう。

 それならば、そんな母の冷遇を伝え聞き、どれほど心を痛めていたことか。

 この人は信じられる。信じよう、と黎基は思った。


 だから、東門は開く。

 叔父はあれからずっと、来るべき日のために東門を開けることだけを考えて過ごしてくれたはずなのだ。


 ――昭甫が放った合図により、京師みやこの内部は騒然となった。それが外郭を隔てていても伝わる。

 城下で住民たちが騒いでいる。親王の兵が京師みやこを攻めているのでは、取り乱すのも無理からぬことである。


 しかし、その騒ぎ立てているうちのいくらかは、内部で扇動している者たちだろう。

 宝一族に左袒さたんする住民たちの間で暴動が起きて、兵たちは中と外とに気を配っている。外郭の上にいた兵の数がかなり減ったのがそれを物語っていた。

 叔父は根気強く策を練り、行動に移してくれたのだ。やはり、無能などではない。


 ガンッ、と門に何かが強くぶつかる音がした。開門が近い。

 黎基は気を引き締め直した。この時、黎基のそばに来ていた昭甫が告げる。


「愽展可――いえ、蔡祥華は策瑛たちに捜させます。罪人として連れて来られたのなら役所の牢にいるかとは思いますが。殿下は当初の予定通り禁城を目指し、陛下にお会いください」


 まず、真っ先に祥華を捜したい。けれど、それをすれば統率が乱れてしまう。先に父帝に会い、白黒はっきりせねばならないのだ。


 父に会い、秦一族を排斥し、黎基を皇太子の座に戻すと言質を取れたらいい。

 それを拒むのならば力づくで退位を迫る。そう易々とは行かないとしても、やるしかない。


 ガンッ、ガンッ、と立て続けに音が鳴って、内側から押し寄せるようにして声がなだれ込む。外郭に間隙ができた。そこから熱を上げて武器を手にした住民たちが見えた。


 昭甫は手に縄屑にしか見えない地老鼠ちろうそを構えた。火を携えた兵が控えており、いつでも着火できる。


「さて、参りましょうか」


 ニヤリと笑うこの男に、黎基は苦笑した。


「ああ、ようやく帰れる」


 そうして、薄く雲がかかる青い空の下、黎基は声を張り上げて号令をかけた。


「禁城を目指す! 道を開け!」


 この時、自軍に加え、城下の住人もまた黎基の味方であった。

 本来であれば、どのような働きかけがあろうとも、父の行いが正しければ民は動かなかったはずだ。今の治世を認めず、改革を求めさせてしまうことこそ父の罪である。


 雷絃が崔圭を伴い、兵を蹴散らす。しかし、この時すでに戦意は失われつつあった。大将軍が討たれた今、統率が取れないばかりか、護るべき主の顔が思い浮かべられないのではないだろうか。


 命を賭けてまで、秦一族を護るつもりでいる兵がどれだけいることか。その横行を咎めもしない父からも民心は離れている。黎基たちを阻んでいるようでいて、兵たちは諦めているのだ。

 先へ行けばいい、もう終わらせてくれと。


 その先によりよい暮らしがあるのかどうか、確信はないかもしれない。それでもきっと、今よりひどいこともないはずだと、その程度に考えている。生き延びればそれでいい、戦いたくないと。


 昭甫の地老鼠が派手な音を立てて地面を走り回る。初めて見る火に、兵も民も驚いて道の端に逃げた。


 皆が開けてくれた道を、黎基は馬で駈ける。この日をずっと待っていた。

 父はすでに、こんな息子の顔など忘れただろうか。

 

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