45◇神
この時、祥華は遠くで聞こえる
祥華が望むあまりに聞こえた幻聴でなければいい。あれが黎基の軍の兵が上げたものであってほしい。
それ以外であってはならない。絶対に。
光が差し込む宮の中を歩かされる。
すべて貴妃の好みであるのだろう。目に入るものすべてが金か銀をあしらっている。皇帝の寝所であってもここまでしないのではないかと思うほど煌びやかだ。
爛石と貴妃はとある房の前で拝手拝礼した。まるでそこに神仙か貴人かがいるような――。
官位の高い二人がそこまで敬う相手は、皇帝か父親の呂石かのどちらかしか考えられない。祥華の心音は不安に乱れた。
ここからは余人を立ち入らせるつもりがないのか、祥華を押さえていた役人から爛石が引き継ぐ。爛石は細身だが若い男だ。相手が一人だからといって、縛られている祥華が振り払えるものでもなかった。
そして、房の奥へと連れられる。
この開かれた房に人がいるような気配はない。そこにいたのは、人ではなかったのだから。
広い房にいたのは、人ではなく獣であった。
金幕の垂れ下がる鉄格子の檻に入れられた獣は、グルグルと低い唸り声を上げている。その声が、祥華のなけなしの自制心を吹き飛ばした。
「あ、あ……」
その獣は、金色の双眸を持ち、白い毛皮を纏っていた。白さの中に虎模様だけが黒々と浮いて見える。しなやかな体を支える太い四肢、鋭い爪。姿かたちこそ虎であるが、こんな虎は初めて見た。
この国で虎は人を食い、人に化けるとされる。おぞましい生き物だ。しかし、この虎はあまりにも美しかった。
ただし、その白い毛皮には点々と汚れが見える。虎柄の模様に紛れて目立たないが、あれは血ではないのか。
虎なのだから肉食であり、餌を食べたということなのだろうけれど、この大きな獣が捕食している様を想像するだけで震え上がってしまう。
完全に虎の威圧感に呑まれた祥華を、爛石が押さえつけたままでいる。祥華の怯えを嘲笑うかに見えた。
しかし、爛石と貴妃は、白い虎を前に恍惚としている。祥華のことなど気にも留めていない。
相手は獣だというのに。この虎は一体なんなのか。
「今日は若い娘を連れてきました。なんの徳もないただの小娘ですが、どうぞお納めください」
貴妃が虎に話しかける。その口ぶりでは祥華をこの虎に与えると言っているように聞こえた。
あまりのことに愕然とした。刑罰を受けるならまだしも、虎の生餌とは。
飼っているとは思えないような恭しい振る舞いも引っかかる。この虎が今に話し出したらどうしようかと怖気を震った。
しかし、虎が話し出すことはなかった。ただ、グルグルと唸っている。
「……あの肉はお気に召されなかったので、若い娘の肉の方がよろしいかと。あれは硬くて筋張っておりましたものね。いかに血が尊くとも、愚昧な凡夫ではなんの足しにもならないのですね」
貴妃が虎を労わるように、ため息交じりに零した。
祥華の前に虎に食われた人が憐れだ。あんまりな言い草だが、尊い血というのが気になる。
この時、爛石がクッと
「その上、薬漬けでしたから。あれでは食が進まれずとも無理もございません」
「思うように操れても、薬の作用で子ができにくいったら……。賢思の後には結局できずじまいでしたわ」
「しかし、薬を使わずに宝氏から寵を奪うことができたかどうか。当時の宝氏はまさに傾国でしたから」
「まあ、兄上は意地悪ですわね」
などと言って笑い合っている兄妹だが、話している内容はおぞましい。この二人こそ、人の皮を被った獣なのではないのか。
「ま、まさか、皇帝陛下を――」
祥華がやっとの思いでそれを口にすると、二人は赤い唇でにぃっと笑った。
「薛黎基が出立した後にな。賢思様さえおられればそれでよいのだ」
なんの敬意も払わず、皇帝を虎の餌にしたというのだから。
貴妃はふと柳眉を顰めて独り言つ。
「最も尊い血肉を献上したはずが、それでも足りぬとは。未だ仮初のお姿のまま、なんのお言葉もない」
「一体、何を……。虎が話すわけ――」
この時、急に爛石が祥華の頬を手の甲で張った。唐突だったので身構えておらず、口の中が切れた。
虎が話すわけがない。
それでも、この二人はこの虎が化けるのを待っているのだろうか。
血の味が広がる中、爛石は険しい目を祥華に向ける。痛みよりも生ぬるい不快感でいっぱいだった。
「ただの虎がこのように神々しいお姿をしておられるわけがない」
愚かだが愛しい子供に言い聞かせるような、優しい響きで。
「今から二十年ほど前かしら。避暑に出向いた土地の近くに隠された洞穴があって、私たち兄妹と謹丈はそこに迷い込んでしまったのよ。そこには祭壇を祀る人々がいたわ。その守り人たちは、迷い込んだ私たちを殺そうとした。今はまだ、余人に知られてはならないのだと……」
恐ろしい経験であるはずが、貴妃はうっとりと語る。その様子がかえって恐ろしかった。
「けれど、彼らは私たちが秦家の、つまり力のある一族の子であると気づき、殺す前に話を聞かせたのだ」
爛石も貴妃の語りに合わせる。
これから虎の腹に収まる祥華だから、こんな話を聞かせるのか。だからといって、納得して食われるはずなどないのに。
「彼らは
あまりに荒唐無稽だ。
しかし、彼らはこれを信じたのだ。幼さと恐怖心が信じ込ませたのだろうか。
それとも、
祥華にはすべてが信じがたいことでしかない。
ただ、これを語る貴妃の目には、毒婦に似合わない慈愛が見えた。
「私たちも最初は少しも信じていなかったわ。生き延びたいあまり、信じたふりをして逃げたの。逃げて、その場所にはもう近づかなかったわ。けれど、それから五年ほどして、私たちは出会ってしまったの」
ほぅ、と貴妃はため息を漏らした。それはまるで恋をする乙女のようですらあった。
爛石もそうだ。この尊大な男が一途な目をする。
「竹林の中、旅人を襲う人食い虎が出るとされていた。しかし、その旅人とやらは盗賊ばかりだ。神が愚かな者を罰したに過ぎない。この美しいお姿を目にした時、否応なしにあの日の話が蘇った。彼らは真実しか語らなかったのだと」
この虎は、少なくとも二人にとっては神なのだ。
誰がなんと言おうとも、二人は己が正しいと信じることのために動いている。
これは、我欲とは違うのか。
「私は己を磨き、後宮に入ったわ。陛下を操り、宝氏を追い落として実権を握ると、財政にも手を加えやすくなったもの。私が建てさせた離宮にはすべて、虎神様を祀る祭壇があるの。今立てている東が完成したら、後は南ね。あの天河離宮を改築しようかしら。四方には祭壇が絶対に必要だもの」
秦貴妃の建設好きは、ただの贅沢ではなかった。
ただし、ただの贅沢であった方がいくらかましだっただろうか。国庫の血税が消えたのは、獣を祀るためであったというよりは。
「本来ならば災害を防ぐのは、天子たる皇帝の役目よ。けれど、今上帝はその器量ではなかったわ。陛下が祈りを捧げたところで、天は聞き入れてくださらなかったでしょうね。愚帝と共に国が
起こるか起こらないかもわからない天変地異のため、皇帝は虎への生贄にされた。
狂っているのはどちらだ。
けれど、ここにいるとわからなくなる。正しいのは、誰だ。
虎の唸る声が祥華を非難しているように聞こえた。
間違っているのは、それと認められない祥華の方なのか――。
「贄に満足されれば、虎神様は人の姿となり、我々にお言葉を述べられる。しかし、陛下では不足であったのだ。それならば、他に考え得るのは薛黎基だ。今までは毒されて盲人となっていた故に、贄としての役割はとても果たせぬと思っていたが、今となっては目も癒え、それも霊薬を口にしたという。これ以上打ってつけの贄もいないだろう」
爛石の言葉に、祥華は息が止まりそうだった。
指先まで冷えて、血が固まったように体が重く感じる。この時、祥華は震えていたのかもしれない。それを貴妃の声音で知った。
「だからこそ、お前も贄にするのよ。薛黎基も執心している娘が先に腹に収まっているとすれば、心安らぐでしょう。本来であれば、お前のような下賤の民が虎神様を拝むことも許されなかったのよ。光栄にお思いなさい」
ね? と、甘ったるい声で言われた。
祥華は虎に食われるためにこれまで生きてきたのではない。
気を強く持ち、キッと二人を睨みつけるが、祥華に味方はいなかった。
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