44◆生きる気力

 郭大将軍の死は、不可避であったと黎基たちは思っている。

 しかし、チヌアは違う。


 彼は大事な、ダムディンからの預かり物である。いくら兵を率いて戦地に赴いたとはいえ、大事な王弟を死なせて償えるわけがない。


 黎基は負傷したチヌアをすぐさま運ばせ、軍医に任せた。武真国から従軍した中にも医術に長けた者はおり、皆がチヌアの傷を塞ぎ、薬を塗りつけて即席の天幕の下に寝かせる。


 もともと色の黒いチヌアの肌は血の気を失ってどす黒かった。剥き出しの肌に包帯を巻かれ、そこに血が滲んでいる。


 チヌアはまだ若年で体も出来上がっておらず、接近戦には向かない。当人がそれを一番よくわかっていると思っていたのは買い被りだったのだろうか。

 それとも、雷絃の危機に体がとっさに動いてしまったのか。


 雷絃はチヌアよりは戦い慣れている。こんなことになって、かえって雷絃も気が気ではない様子だった。

 寝かされているチヌアが小さく呻いた。


「チヌア! 陛下が待っておられる。生きて祖国に帰らねばならぬのだ、気を強く持ってくれ」


 黎基は祈るような心地で呼びかけた。しかし、チヌアはまぶたを震わせたのみで、目を開くことなくかぶりを振った。

 その意味が、黎基にはよくわからなかった。

 自分はもう駄目だと、弱気になっているのか。


 生死を左右するのは気力だ。そんなことでは命を繋げない。

 心臓が冷水を浴びたようにひやりとする。こんなことならばダムディンの申し出を断ればよかったのだと、今さら悔いても仕方がない。


 この時、チヌアの側近である武真兵が重苦しい表情で零した。


「チヌア様は奏琶国に入ってから、この戦で命を落とすかもしれないと仰られました」


 もともと勘のよいところはあったが、チヌアは一体何を感じ取っていたのだろう。


「何故だ?」


 武真兵はかぶりを振った。チヌアはもちろんのこと、ダムディンよりも年上の兵だ。しかし、どちらに対しても並々ならぬ敬意を抱いているのが伝わる。


「陛下は、兄上様方をすべて討たれました。チヌア様は、同じ血を引かれているご自分だけが生きていていいものだろうかとお悩みのご様子でした」

「ダムディン陛下がお決めになったことだ。それを――」

「チヌア様は戦に出された理由をご自分なりに考えられたのでしょう。この戦の最中にご自身が戦死すれば、すべてが丸く収まるのではないかと考えておられた気がしてなりません。陛下がそのつもりで……チヌア様が戦死することを前提に戦に赴けと命じられたのだと」


 いずれ、チヌアの存在を利用しようとする者がいないとも限らない。チヌア自身はダムディンを裏切るつもりなど毛頭ないはずだが、ダムディンがそれを信じてくれるのかは別問題だ。


 武真国を出る時、もう戻るつもりがなかったのだとしたら悲しい。

 黎基は血の気のないチヌアの顔に向け、そっと告げる。


「そんな思い違いをしてはならない。ダムディン陛下はチヌアの帰りを待っているのだから」


 他人から見れば明白なことが、当人にだけはわからない。そんなことが往々にしてある。しかし、今はそれが悲しすぎた。


 幼さの残る顔に一廉の自信を身につけ、奏琶国での出来事を語るチヌアを、ダムディンは国で待っている。

 不要ならばさっさと首を刎ねたはずなのだ。それをしなかったのは、生きていてほしいからだ。ダムディンはそんなにもまどろっこしいことをする人物ではない。


 黎基は軍医たちに向け、厳しい口調で言った。


「必ず助けてくれ」

「……もちろん、でき得る限りのことを致します」


 軍医たちが『助ける』と断言できないほど、チヌアの傷は深いのか。人の命に必ずなどということは言えないとわかっていても、認められないだけだ。


 そして、こんな時でも黎基は戦の手を止められない。すぐにでも攻め入らなくてはならなかった。


 喪うことばかりが続き、誰も彼もが黎基を置いて行ってしまうような気がしてならない。本当に自分が選んだ道は正しかったのかと、ここへ来て迷いが生じてしまうほどに。


 冷えた手が震え、指先に血が通わなくなる。しかし、それを誰かに覚られないように袖で隠した。


「頼む」


 それだけ言って立ち去ろうとすると、天幕の入り口に杖を突いて立っていた晟伯とすれ違った。晟伯はいつもの、何もかもを見通しているような不思議な目を黎基に向けている。けれど、何も言わずに目礼し、天幕の中に入っていった。



     ◆



 京師みやこの門は東西南北にある。

 正門とされるのは南で、住民が多く住むのも南側だ。西門は運河のそばに出る。


 黎基たちの軍勢が手前に差し掛かっているのは北門――北は禁城が最も近いため、平素は開かれることがあまりない。皇帝直々に戦へ赴く時などは華々しく開くのだが、黎基が生まれてから、この門が開いたことがあったかどうかもよく知らない。


 黎基はこの北門を突破するつもりはなかった。最初から東門を使うつもりであったのだ。

 北からの旅人は大抵、東へ迂回して城下へ入る。南と比べると小さな門構えだ。


 火毬の原料である火薬ひぐすりなるものは、使いようによって色々な役割を発揮できるのだと昭甫は言う。火を撒いて爆ぜる他に、量を加減することで狼煙に似た効果も出せる。


 この京師みやこの東門を前に、昭甫は筒になった装置を使い、小さな火毬を打ち上げた。パァン、と大きな音がして、煙が風に流されていく。


 ただでさえ外で戦が始まっているのだから、城下は騒然となっただろう。しかし、それでいい。そういう手筈であるのだから。


 

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