43◇禁城の奥に
ひと晩経って、祥華のところに爛石がやってきた。玉良はいない。
戸は開かれたが、チラリと目を向けただけで祥華はまた膝に顔を埋めた。それでも、爛石の声は無遠慮だった。
「お前の処遇が決まった。出ろ」
釈放ではない。それくらいは誰にでもわかる。
これから我が身に何が起こるのか、なるべく考えないように頭を空にして立ち上がった。
この薄暗い場には不釣り合いなほど、爛石は楽しげに見える。
「お前の話をしてみたら、貴妃様が面白いことを思いつかれた」
「…………」
返事もせず、祥華はただ爛石を睨みつけた。
意地汚く生にすがっているとこの男に思われるのは癪で、祥華は潔く牢から出た。
眩暈がするほど心臓は早鐘を打っていたが、それを顔に出さないように歯を食いしばった。
爛石は薄ら笑いを浮かべている。
「来い」
役人たちに二人がかりで押さえつけられ、祥華は否応なしに役所から出された。
灯りのない独房でひと晩過ごした後だから、外の陽の光が目に染みる。
思わず顔をしかめた時、耳に飛び込んできたのは町の人々の声ではなく、戦の音と叫びだった。
「聞こえるか? 謀反人、薛黎基の軍はすぐそこまで迫っている。しかし、彼に天は味方しない。帝位に
国中の、地方からも兵を要請したのだろう。勝ち進まなければ、黎基には引くところすらない。
黎基たちは門を破壊するような兵器は持っていなかった。ダムディン王がそうであったように、黎基もまた
しかし、それでは門を破って中へ入れない。
何か手を打ってあるのだろうか。
ただ、祥華には黎基の心配をする暇すら与えてはもらえない。
役人によって厳重に縄を打ち直されたまま、馬に乗せられた。爛石は馬車に乗っており、物見の窓には帳がかかっている。さらし者なのは祥華の方だ。それでも、まっすぐに背筋を伸ばして前を見据えた。
空は青く、日差しはあたたかい。絶望とは無縁のうららかさだった。
禁城へと続く門は爛石に対し、容易く開く。祥華は自分が禁城へ赴くことになるとは思わなかった。それもこのような形で。
一体どこへ向かうのか、見当もつかない。
貴妃の名が出たが、身内であっても男は後宮に入れない。爛石がいつも貴妃と面会するのはどこなのだろうか。
荘厳な宮城の黄色瑠璃瓦の照り返しが眩しく、祥華は僅かにうつむいた。それから顔を上げ直した時、軒下にしなやかな女人の姿を見た。
黒に金糸で細やかな刺繍が施された衣は、女官などの官位の低い者が着られるような代物ではない。艶やかな大輪の花飾りは血のように紅く、金の装飾品が彼女をさらに輝かせている。
にやり、と口元を歪めて笑った。あの紅い唇が夢にまで出てきそうだ。
美しいけれど、毒を持つ花。幼い頃に見た宝貴妃の白百合のような美貌とは対照的である。
あれが秦貴妃か――。
祥華が馬から降ろされると、その頃には爛石も馬車から降りてきていた。
「貴妃様、連れて参りました」
妹ではあるが、立場上敬わねばならないところである。爛石は白々しい笑いを浮かべて告げた。
貴妃はおもむろにうなずくと、扇をサッと開いて日差しを遮るように掲げる。
「この娘にあの薛黎基が執心だなんて、
じっと、嫌なものを見るような目つきで祥華を見る。
祥華は目を逸らすべきかどうか迷い、やはり顔はまっすぐに向けたままにした。敬う気持ちはないのだから。
「報告によると。まあ、女っ気のない戦時下ですから、気の迷いもあるでしょう。戦が終われば気も変わるかもしれませんが」
この煌びやかな兄妹から見れば、粗末な衣をまとった罪人などみすぼらしいだけなのだろう。嘲笑が聞こえてくる。
しかし、美しい二人の中身は化け物でしかなく、限りなく醜いのだから、祥華はひとつも恥じ入るつもりはない。
押し黙っている祥華に、貴妃は息を吐きかけるようにして言った。
「気の強い娘ですわね。これならば、――様もお気に召すことでしょう」
今、貴妃が誰の名を呼んだのか、祥華には聞き取れなかった。あまりに耳馴染みのない名であった。
眉を顰める祥華に構わず、爛石は小さく笑った。
「そうでしょうか? この貧相な娘では物足りぬと御不興を買わねばよいのですが」
「前菜にはこれくらいでいいでしょう? 宝氏は見つからないままですし、主菜は薛黎基なのですから」
宝氏――黎基の母堂を憎々しげに呼ぶ。
地位を奪い取り、地方へ追いやった今でも消えぬ感情があるらしい。
「……宝氏は行方知れずです。察するに、息子の足手まといとならぬため、すでに自死しているのでは? 未だ遺体も見つかりませんが」
それを聞き、祥華はゾッとした。
しかし、考えられないことではない。黎基が戦に駆り立てられた時、自らの命運も尽きたのだと悲観したのではないか。あの儚い人だからこそ、その考えが当てはまってしまう。
ただ、秦貴妃はそんな兄の言葉を一蹴した。
「あの女は生きておりますわ。ああ見えて芯は強いのです」
独り言つようにして零す貴妃の、朱を刷いた目元が細められた。
それを爛石はどこか優しい眼差しで見つめ、つぶやく。
「父上は?」
貴妃はハッと気を取り直し、扇を持つ手を動かした。
「相変わらず、くだらないことばかりに精を出しておられますわ。古い人間ですから、今さらどうにもなりませんわね」
「まあ、仕方がありません。謹丈もいない今、私たちも油断はできませんが」
この時、貴妃は初めて人らしい悲しげな表情を浮かべた。
「本当に……。謹丈がいなくなる日が来るなんて考えてもみませんでしたわ。私たち三人は欠けてはなりませんのに」
「賢思様が立派にご成長されれば、また……」
「ええ」
秦家の当主であるはずの秦呂石のことは軽んじるが、謹丈のことは大事に想っていたらしい。
どことなく、祥華は幼い日の黎基と自分たち兄妹とを重ね合わせそうになったが、そんなわけはない。
「……今はまだ、話し込んでいる時ではありませんでしたね。行きましょう」
背を向けた貴妃の後に、祥華も役人たちに押さえつけられて連れていかれた。
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