42◆決着

 郭大将軍の率いる軍勢は、やはり正攻法では突破できないだろう。


 先の秦謹丈との戦を、斥候が大将軍に報告していると思われる。向こうも火毬が使われることを警戒してはいるはずだ。

 武人ではない昭甫には貂絃と鶴翼をつけてある。彼らが昭甫を護ってくれるだろう。


 黎基と雷絃、昭甫と貂絃、鶴翼、それからチヌアの武真兵団。

 こちらの軍は三方に分けてある。黎基はこの緊張の中、吹きつける風が肌を刺すように感じられた。

 それでも、ここで躊躇っていてはいけない。時が惜しいのだ。


 黎基は総攻撃の合図として手を掲げた。向こうの戦鼓も打ち鳴らされ、大将軍の騎兵は雄叫びを上げながら突進してくる。馬の蹄が立てる汚れた砂埃が巻き起こり、視界が濁った。


 この時、こちらの陣形の昭甫たちのいる右翼、チヌアたちの左翼が畳まれていく。

 相手は奏琶国最強の禁軍だ。この程度の兵力は簡単に退けられてしまう。だからこそ、やはり昭甫の出番になる。


 敵は警戒しているが、どう警戒すれば防げるのかまではわかっていない。何度も対峙すれば打開策を練られてしまうものの、今はまだ対処ができない。ただ二の足を踏んでいるだけだ。


 昭甫の指示通り、右翼の兵の数人が、昼だというのに手にした手燭に小さな輪っかを近づける。縄を燃やしているようにしか見えないが、あれもまた昭甫の作った兵器である。


 『地老鼠ちろうそ』と言うらしい。

 鼠が地を這うようにして、火が走り回るのだとか。


 火毬は火力がありすぎるので、死傷者が増える。それに、城下で戦う時になど使おうものなら家屋を焼いてしまうのだ。もっと小規模の脅しのようなものがあればと考えて作ったらしい。

 楽し気に次々と厄介なものを作り出す恐ろしい男だ。


 放り投げられた地老鼠は、火が爆ぜる音を立て、土の上を円を描くように動き回る。足元にこれを放られた馬は、見たこともない火の動きと、嗅ぎ慣れない独特の臭気に恐れをなした。棹立ちになって乗り手を振り落とす馬までいる。


「お、落ち着け! やめろ――っ!」


 誰ともなく叫び声が響いた。しかし、馬の嘶きに掻き消される。

 そんな混乱の中、黎基は雷絃に素早く告げた。


「敵将を討て」

「はっ」


 雷絃も覚悟を決めた。すでに、決めていた。

 この場を素早く静めるためには、敵将を仕留めるべきなのだ。

 ただし、本当は敵などではない。大事な人である。それでも、命をもらって前に進む。


 黎基はただ、歯を食いしばって雷絃の広い背中を見送った。

 貂絃の時のようには行かない。説得に応じてはくれないのだ。死地を求める老兵にしてやれることは、安らぎを与えるのみである。


 それは黎基が無力だからだ。今すぐにどうにかして補えることではない。

 力が足りず、他の道を選べない。この罪はこれからも抱えていく。


 今が武人として最も盛りである雷絃は、こうして槍を合わせれば誰にも止められない。大将軍の鉤鎌槍こうれんそうから繰り出される一撃さえ、巧みな槍捌きで受け流す。


 多分、この時、大将軍は微笑んでいた。心から、喜ばしく感じていた。

 大将軍の目尻には、戦の最中とは思えないほどの柔らかな皺が刻まれていた。それを見た刹那、黎基も心臓をつかまれたほどに胸が痛んだ。


 一人の武人として、父親として、このような男を育てたことを誇っている。それが伝わった。


 雷絃の槍が大将軍の鉤鎌槍を跳ね上げ、そして――。


 どちらの兵からかもわからない叫び声が上がった。馬上から滑り落ちる父の体を、雷絃はとっさに逞しい腕で引き寄せる。それはあまりにも悲痛な場面であった。


 だとしても、黎基が目を逸らしていいはずもない。命じた以上は見届けねばと、まっすぐに二人を見据えていた。


 最期に大将軍は血を吐くと、息子にひと言残した。かすれた小さな声がここまで届くはずもないのに、黎基にもはっきりと聞き取れたような気がした。


 ただひと言、泣くな、と。


 雷絃は素晴らしい武人だが、心優しすぎる。

 父の遺した言葉も虚しく、雷絃の双眸からは涙が止め処なく零れ落ちていた。肩が大きく揺れていて――。


 これで、この戦には勝利したとしてもいいのかもしれない。それでも、失ったものも大きかった。


 心に穴が開いたような気分で勝利を宣告しようとしたが、この時、雷絃は悲しみのあまり、無防備だった。

 突進してきた一騎兵に首を向けたが、父の遺骸を放り投げることができない。雷絃には槍を構え直すことができなかったのだ。


「雷絃っ!」


 黎基は叫び、馬を走らせたが、それを崔圭たちに遮られた。軽はずみなことをしてはいけない身であるのはわかるけれど、これ以上はうしなえない。


 しかし、黎基が間に合わないこともわかっていた。この時、誰よりも迅速に雷絃と騎兵との間に割って入ったのは、細身の兵だった。弓を持ったその人影は鶴翼かと思ったが、違う。チヌアだ。


 弓兵が接近して戦えるはずもなく、チヌアはただ飛び出しただけで兵の穂先に薙ぎ倒された。


「チヌア!!」


 雷絃は片手で槍を握り直し、その兵を馬から叩き落した。兵は落馬し、馬だけが走り去る。チヌアもまた落から落ち、傷ついた王弟に武真兵たちが駆け寄った。


 黎基もまたチヌアのもとへ急いだが、華奢な彼の体からはただただ血が溢れていた。

 この勝利の代償は、あまりにも大きい――。

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